隋紀八 大業13(617)年(89)
(この年の2月に)李密が洛口倉を攻略した時、※箕山府の郎将である張季珣は箕山府城を固守して降伏しなかったため、李密は彼の兵が少なく力が弱いことを理由に、使者を派遣して彼を呼び寄せようとした。
しかし張季珣は口を極めて李密を罵ったため、李密は怒り、軍を派遣して箕山府城に攻撃をかけたが、依然として攻略することは出来なかった。
時に李密の軍勢数十万は箕山府城下にあって、張季珣は四方を囲まれて孤立したうえ、率いる兵は数百人に過ぎなかったが、しかし志を貫く思いはますます固くなり、命を懸けて城を守ると誓った。
だがこの状況が長く続いたことにより、城中の食糧は尽き水は枯渇してしまったため、兵士たちの体は衰弱して病気になってしまったが、張季珣は彼らをいたわり慰めたため、一人も離反する者は無く、三月からこの月(九月)に至ったけれども、城はとうとう陥落した。
やがて張季珣は李密に対面すると彼に拝礼することを拒絶し言った。
「天子(皇帝)の爪牙(武臣)たるもの、どうして賊(李密)に拝礼することができようか!」(いや、拝礼することはできない!)と。
しかしそれでも李密はなお張季珣を降参させようとして、諄々と説いたが彼は遂に屈しなかったため、結局張季珣を殺した。
張季珣は※張祥の子である。
※箕山府
616年の7月に煬帝は勅命を下して箕山、公路の二府を移し洛口倉を守らせた。
※ 張祥
煬帝の弟である漢王・楊諒が反乱を起こすと、派遣されてきた彼の将である劉建から井陘を守り抜いた人物。