表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
136/139

隋紀八 大業13(617)年(89)

 (この年の2月に)李密りみつ)洛口倉らくこうそうを攻略した時、※箕山府きざんふ郎将ろうしょう)である張季珣ちょうきじゅん)は箕山府城を固守して降伏しなかったため、李密は彼の兵が少なく力が弱いことを理由に、使者を派遣して彼を呼び寄せようとした。


 しかし張季珣は口を極めて李密を罵ったため、李密は怒り、軍を派遣して箕山府城に攻撃をかけたが、依然として攻略することは出来なかった。


 時に李密の軍勢数十万は箕山府城下にあって、張季珣は四方を囲まれて孤立したうえ、率いる兵は数百人に過ぎなかったが、しかし志を貫く思いはますます固くなり、命を懸けて城を守ると誓った。


 だがこの状況が長く続いたことにより、城中の食糧は尽き水は枯渇してしまったため、兵士たちの体は衰弱して病気になってしまったが、張季珣は彼らをいたわり慰めたため、一人も離反する者は無く、三月からこの月(九月)に至ったけれども、城はとうとう陥落した。


やがて張季珣ちょうきじゅん)李密りみつ)に対面すると彼に拝礼することを拒絶し言った。


天子(てんし)(皇帝)の爪牙(そうが)(武臣)たるもの、どうして賊(李密)に拝礼することができようか!」(いや、拝礼することはできない!)と。


 しかしそれでも李密はなお張季珣を降参させようとして、諄々(じゅんじゅん)と説いたが彼は遂に屈しなかったため、結局張季珣を殺した。


 張季珣は※張祥ちょうしょう)の子である。


箕山府きざんふ)


616年の7月に煬帝ようだい)勅命ちょくめい)を下して箕山きざん)公路(こうろ二府にふ)を移し洛口倉(らくこうそう)を守らせた。


張祥ちょうしょう


煬帝の弟である漢王(かんおう)楊諒(ようりょう)が反乱を起こすと、派遣されてきた彼の将である劉建(りゅうけん)から井陘(せいけい)を守り抜いた人物。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ