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隋紀八 大業13(617)年(87)
さらに(馮翊郡に属する)朝邑県の法曹である武功県の人靳孝謨は蒲津、中潬のニ城を献上して李淵に投降し、華陰県(武功県も華陰県も京兆郡に属する)の県令である李孝常は永豊倉を献上して李淵に投降したが、李淵陣営はさらに河西で蜂起した諸軍を支援した。
李孝常は煬帝の父・楊堅(文帝)に信任された李円通の子である。
さらに京兆(隋の都である長安一帯)の諸県もまた多くが李淵のもとに使者を派遣し投降することを希望した。
話は変わって王世充、韋霽、王辯及び河内通守である孟善誼、河陽の都尉である独孤武都等は各自配下の軍を率いて東都で合流したが、ただ王隆だけは予定された合流期限を過ぎても到着しなかった。
9月11日、東都留守である越王・楊侗は虎賁郎将の劉長恭等を派遣して留守軍を率いさせ、龐玉等には偃師の軍を率いさせ、それに王世充等を加えて十万余りの兵を合流させ、洛口の李密を攻撃しようとし、それら諸軍は李密軍と洛水を挟んで向かい合った。
さらに煬帝はそれら諸軍に詔を下して王世充の指揮に従わせることにした。