隋紀八 大業13(617)年(82)
さらに武陽郡の郡丞である元宝蔵は、煬帝の※詔を受けて賊を捕えなければならなくなると、武陽郡に属する県から度々武器を徴発し、何かにつけ軍法を用いてそれらに処罰を下した。
そして貴郷の近隣の県では武器を製造するにあたり、職人を全て県の庁舎の広間に集め、官吏がかわるがわる職人たちを監視して責め立て(武器の製造を督促し)、製造の現場(県の庁舎の広間)は昼夜騒がしかったが、未だに要求された量の武器を仕上げることができていなかった。
しかし貴郷県長の魏徳深は職人を拘束せずに武器を製造することを許したので、※貴郷県の庁舎は静寂に包まれ、常に何事もないかのようであり、そして魏徳深はただ貴郷県の官吏たちに武陽郡の他県と武器の生産量の勝敗を競ってはいけないと戒めたことで、武器の生産により県の民には苦労はさせてしまったけれども、魏徳深のその思いに応えて貴郷県の職人たちは各自武器の生産に力を尽くしたので,その生産量は常に武陽郡の各県で一番となり、貴郷県の民たちが魏徳深を敬愛する様子はまるで自身の父母を慕うかのようであった。
けれども元宝蔵は深く魏徳深の有能さを妬み、彼に千の兵を率いて(隋軍と李密が激戦を繰り広げている)東都に赴かせた。
しかし魏徳深の率いる兵たちは元宝蔵が李密に投降したと聞くと、地元の親戚のことを思い、度々東都の城門を出て、東に向かい慟哭すると(兵たちの地元である武陽郡は東都から見て東にあった)再び東都の城内に戻ったが、ある者が兵たちに李密に投降するよう勧めると、彼らは皆涙を流して言った。
「我らは※魏明府(魏徳深)と一緒に東都にやって来たのだ、それなのにどうして魏明府を見捨てることを耐え忍べようか!」(いや、耐え忍べない!)と。
※詔
天子(皇帝)の命令、
※ 貴郷県
貴郷県は武陽郡に属していた。
※魏明府
明府は県令(県の長官)などの敬称。