隋紀八 大業13(617)年(78)
時に関中の群盗の中では孫華が最強であった。
8月18日、李淵は(河東郡に属する)汾陰に到着し、書簡を送って孫華を招き寄せようとした。
8月21日,李淵は(文城郡にある)壺口山に進軍し、河岸の民で李淵に船を献上する者は毎日百人に上ったため、そこで水軍を編成した。
8月24日、孫華が(馮翊郡に属する)郃陽から馬に乗って一人で黄河を渡りやってきて李淵に謁見した。
そこで李淵は孫華の手を引いて同じ席に座り、労って褒美を与え、左光禄大夫、武鄉県公、領馮翊太守とし、孫華の配下で功績がある者は,彼に命じ序列に基づいて官職を授けさせることにし、また褒美として与えた品は極めて多かった。
そして孫華に先ず黄河を渡らせ、それに続いて左右統軍の王長諧、劉弘基及び左領軍長史の陳演寿、金紫光禄大夫の史大柰を派遣し、步騎兵六千を率いて梁山から黄河を渡らせ、黄河の西岸に駐屯して後続の大軍を待たせた。
さらに任瓌を招慰大使として、彼は(馮翊郡に属する)韓城を説得し、これを降伏させた。
そして李淵は王長諧に言った。
「※(河東郡に属する)河東の屈突通軍には精鋭が多く、我らとの距離は五十里余りだが、屈突通がやってきて戦おうとしないのは、彼の兵が屈突通のために力を尽くす気がないことを明らかにしている。
けれども屈突通は戦わないことで処罰されることを恐れ、出撃しないわけにはいかない。
そこでもし屈突通が自ら黄河を渡って卿等(君ら)を攻撃するならば、その場合は我が河東に進攻するため、屈突通は必ず河東城を守ることができず、もし屈突通が全軍で河東城をまもるならば、その場合は卿等が黄河に掛かる蒲津橋を断ち切り(屈突通の退路を断ち)、前から彼の軍の喉元を締め上げ,その一方で彼の軍の背後を突け、それでもし彼が逃走しないならば必ず捕虜となるだろう」と。
※里、隋唐の1里は531m。