隋紀八 大業13(617)年(77)
けれども河東県の戸曹である任瓌は李淵に説いた。
「関中の豪傑は皆、期待しながら義軍(李淵軍)を待っています。
さらに(任)瓌は※馮翊郡に長年おりましたため、馮翊郡の豪傑がどのような状態か知っていますので、馮翊郡に行って彼らに(彼らと連絡を取りたいという)明公(李淵)のご意思をお伝えすることを希望しますが、それをご許可いただければ、彼らは必ず速やかに同調して明公に従います。
そして※義軍(李淵軍)は龍門の南にある梁山から黄河を渡り、韓城を目指し、郃陽に迫るのです(当時・韓城(県)も郃陽(県)も馮翊郡に属していた)
そうすれば馮翊※太守の蕭造のような文官は、必ず明公に気に入られようとして降伏を願い出るでしょう。
また※孫華のような輩は、皆遠方より我が軍のもとに足を運ぶでしょうから、それより後に太鼓を打ち鳴らながら行軍し、速やかに永豊倉を占拠すれば、まだ(関中の中心である)都の長安を得ていないとは言え、関中の根本は既に平定されています」と。
そしてそのアドバイスを聞いた李淵は喜び、任瓌を銀青光禄大夫とした。
※馮翊郡
馮翊郡は関中の東北部地域。
※「義軍(李淵軍)は龍門の南にある梁山から黄河を渡り」という訳について
原文は「義師自梁山濟河」
読み下しは「義師梁山より河を済り」
直訳は「義軍(李淵軍)は梁山から黄河を渡り」で
意訳は「義軍(李淵軍)は龍門の南にある梁山から黄河を渡り」とした。
そしてこれについて説明を加えると、この前段(隋紀八 大業13(617)年 -76-)で「龍門から速やかに黄河を渡り」と薛大鼎が李淵にアドバイスするも却下されていたが、この段で任瓌が前述の薛大鼎の発言を後押しするような形で李淵に「義軍(李淵軍)は梁山から黄河を渡り」とアドバイスしている。
しかしこの場合「義軍(李淵軍)は梁山から黄河を渡り」という任瓌の発言を、「義軍(李淵軍)は龍門の南にある梁山から黄河を渡り」に変えないで、「梁山から黄河を渡り」だけにしてしまうと、この発言が薛大鼎の「龍門から速やかに黄河を渡り」という発言を踏まえていないため、意味不明になって読む人に伝わらなくなってしまうので、「義軍(李淵軍)は龍門の南にある梁山から黄河を渡り」と訳した。
※龍門の南にある梁山の出典。
讀史方輿紀要 巻五十二(Wikisource)
龍門
《括地志》「龍門之南即梁山,故龍門亦兼梁山之稱」
※太守
郡の長官
※孫華
関中の群盗