隋紀ハ 大業13 (617)年(75)
8月8日、李淵は臨汾郡城に入り、霍邑の時と同様に役人と民を慰めいたわった(当時・霍邑(県)は臨汾郡に属していた)
8月12日、李淵軍は絳郡城の西北にある鼓山で一夜を過ごした。
それ対し絳郡通守の陳叔達は絳郡城の守りを固めたので、8月13日、李淵軍は絳郡城に進撃し攻め落とした。
しかし陳叔達は※陳の高宗(宣帝)の子で才能と知識が有ったため、絳郡城を攻略した時に、陳叔達を得た李淵は礼を尽くして彼を官職に就かせた。
8月15日、李淵は龍門に至り、そしてさらに※東突厥から劉文静と康鞘利が突厥騎兵五百人、軍馬二千頭を率いて李淵のもとに到着した(当時・龍門(県)は河東郡に属していた)
李淵はそのやって来た援軍に喜び劉文静に言った。
「我は晋陽から西に進軍して黄河に到達し、そこで(東)突厥騎兵が初めて我のもとに到着したが、※我が以前要望した通り、やって来た突厥騎兵は少なく、そしてその軍馬が多いのは、全て我が命令を忠実に実行してくれた君の功績だ」と。
※陳の高宗(宣帝)
陳は中国南北朝時代の王朝、南朝の1つ。
高宗(宣帝)は陳の第4代皇帝・陳頊のこと。
※東突厥から劉文静と康鞘利が
※我が以前要望した通り
李淵のもとに派遣されていた(東突厥の使者である)康鞘利が東突厥に帰った事と、李淵が劉文静を東突厥に派遣した事、さらに李淵が(東)突厥の援軍について(東)突厥騎兵は少数でよく、むしろそれよりも(東)突厥の軍馬を必要とすると劉文静に要望(命令)した事は共に隋紀ハ 大業13 (617)年(55)に記述。
上の記述について補足すると、(東)突厥のような騎馬民族は騎兵の数は少なくても、一人の騎兵が何頭もの替え馬を連れて進軍するため、その結果軍馬の数は騎兵の数倍になる。