第1話:反転した世界
錆びた金属のような酷く生臭い血の匂いが、風に乗って鼻を刺した。
空は重苦しい曇天であり、鉛色の雲の下では、あちこちで金属のぶつかり合う音が響いている。
周囲の地面には、山のように我ら人類軍と敵である魔王軍の死体が転がっていた。
そんな戦場で、俺は剣を強く握りしめたまま、目の前の男を睨みつけている。
魔王軍の部隊長格の男。ここまで何体もの魔族を斬り殺してきたが、こいつは明らかに格が違う。ただの兵士じゃない。
剣を構える姿勢、重心の置き方、足の運び、一点を射抜くような眼光、呼吸のリズム。その全てが研ぎ澄まされていて、つけ入る隙を微塵も感じさせない。
俺は勇者だ。人類の希望として育てられ、忌まわしき魔王軍を討つためにこの最前線へ送り込まれた。この戦場でも活躍を期待されていて、俺ならそれができると思っていた。
だが、目の前の男は、俺が積み上げてきた全てを否定するような強さを持っていた。俺を鍛えてくれた教官との訓練でも、これほどの絶望感は感じなかった。こいつには教官とは違う強さがある。
力も俺よりも強いがそれだけではない。それ以上に、何をしてもこちらの攻撃が通用しない感じがする。どう繰り出しても跳ね返される。俺が何人いたとしても崩せない。そんなイメージが脳裏に浮かび上がってくる。
部隊長は、俺を見据えたまま低く息を吐いた。
その眼差しには恐れも迷いもない。ただ、敵を討つという確固たる意志だけが宿っている。
「来いよ、化け物」
男の低く冷たいその言葉に、胸の奥がざらついた。
化け物だと? 何を言っているんだ、化け物はお前ら魔族だろうが!
俺は選ばれた勇者だ。人類の希望として血の滲むような訓練に耐えて、貴様ら魔王軍を滅ぼすためにここに立っているんだ。化け物なんかじゃない!
だが、俺の憤りとは裏腹に、部隊長の冷徹な目は本気だった。
「はぁっ!」
男の剣が視界を断つ閃光となって迫る。咄嗟に剣を交差させて受け止めたが、衝撃で腕が痺れた。
「ぐっ……!」
剣と剣がぶつかるたび、骨に響くような衝撃が走る。男の一撃はこれまで経験したどの攻撃よりも重く、速く、正確だった。
……強い。
倒した相手の魔力を喰い、自分の力に変えるスキル『魔喰い』。
そのスキルで、俺はこの戦場の中でも一戦ごとに強くなってきたはずだった。
だが、この男は違う。全てがこれまでの魔族とは比較にならない。積み上げてきた俺の力では、到底倒せない。
部隊長の剣が横薙ぎに振られ、俺は後退して避ける。足元の土が抉れ、砂埃が舞い上がった。
「はっ!」
砂埃を斬り裂き、再び剣が迫る。受け止めようとした俺の剣は無惨に弾かれ、宙を舞った。
……ここまでか。
無防備となった俺の首筋に、部隊長の剣が吸い込まれていく。
迫りくる刃は見えている。だが、もうそれを止める術が俺には残されていなかった。
走馬灯のように、故郷の村と送り出してくれた両親の顔が浮かぶ。
何が足りなかったのだろう。訓練か? 魔力か? 殺して吸収してきた魔族が少なかったのか?
俺は魔王を殺せなかった。このまま死んだら、魔王軍が侵攻してきて、俺の家族を殺すかもしれない。家族を守るために勇者になったのに。
後悔が頭をよぎる中、刃は少しずつ首へと近づく。
死んだとしても、霊となって魔王を呪い殺してやる!
次の瞬間。
キィィィンッ!
鼓膜を貫くような甲高い金属音が響いた。
首筋に衝撃が走る。だが、肉が断たれる痛みではない。何かが、俺の首元で粉々に砕け散った感触。
「……は?」
視線の先にいる部隊長が目を見開く。俺も何が起きたのか理解できなかった。
部隊長の剣は、俺の首を的確に捉えていたはずだ。だが俺の首は斬られていない。代わりに、謎の破片が足元に散乱していた。
直後。
世界が。裏返った。
視界がぐにゃりと歪み、色が反転し、全ての音が遠ざかる。
まるで世界そのものがひっくり返されたかのような感覚。
猛烈な吐き気がせり上がり、立っていられずにその場に膝をついた。
「あ……が、はっ……え?」
そして……俺の周囲にいた魔族が、目の前にいたはずの部隊長が……人間に見えた。
頭から生えていた角は消えていた。
黒い皮膚は肌色の柔らかそうな皮膚へ。
尖った爪は滑らかな人間の指先へ。
魔族の死体の山だと思っていたものは、血を流して折り重なる、人類軍の兵士たちの骸に変わっていた。
逆に、俺の背後にいた仲間、人類軍の兵士たちは……
頭に角を生やし、黒い皮膚と鋭い牙を剥き出しにした魔族の姿に見えた。
何が……何が起きている?
胸がざわつき、呼吸が浅くなり、心臓がバクバクと暴れていた。
俺は震える自分の手を見る。いつも通りの見慣れた人間の手だ。何も変わっていない。
なのに、この目に映る世界だけが、さっきとは全く別のものに変わっていた。
「人間……? おい……どういうことだ……?」
部隊長の震える声が聞こえる。そして彼の瞳には、敵意ではなく、底知れぬ未知への恐怖と困惑が感じられた。
「さっきまでお前は……魔族だったはずだろう……?」
「……俺は、人間だ」
思わず言い返す。それは俺の当たり前の事実だった。
だが、部隊長は首を振る。
「いや違う……お前は魔族の姿をしていた。俺はずっと、お前を魔族の兵士として認識していた」
「そんなバカな……」
胸の奥が冷たくなり、嫌な汗が背中を伝う。
世界が一瞬で変わったというのか。
それとも……俺の見ていた、認識していたものが、間違っていたとでも言うのか?
答えなど出ない。ただ一つだけ確かなのは、俺の目に映る世界が反転したという事実だけだった。
部隊長は、俺を警戒しながらも、ゆっくりと地面に落ちた破片へと歩み寄った。
砂埃の中で、金属片が鈍く光っている。
俺の首から落ちたであろうその破片は、まるで長い年月を経た古代の遺物のように、奇妙な存在感を放っていた。
部隊長は剣を構えたまま、片手で破片を拾い上げる。
その表情には、俺への警戒と、未知の物への不信感が入り混じっていた。
「……なんだこれ。金属製の……首輪か? いや、ただの装飾品じゃないな」
部隊長は破片を裏返し、表面を指でなぞって砂を払い除ける。
そこには、蛇のような奇妙な線がいくつも刻まれていた。
「模様?」
俺が呟くと、部隊長は短く頷いた。
「何かの文字か、紋様か……いや、俺には読めんし分からん。これは呪具か何かか?」
呪具。
その言葉が、胸の奥を突き刺した。
俺は自分の首に手を当てる。そこには何もなく、指先に触れるのはいつも通りの柔らかい皮膚だけだった。
だが、ついさっきまで何かが確かに巻かれていた感触だけが残っている。
今までそんなものが巻かれていたとは微塵も認識していなかったのに……
「……俺は、ずっとこんなものを付けていたのか?」
「知らん。俺にも見えていなかった。だが、剣で叩き斬った瞬間にお前の首から弾け飛んだのは確かだ」
部隊長は首輪の破片を持ったまま、俺をじっと見つめる。
その視線には敵意よりも、理解できない底知れぬ謎の存在への恐怖が強く宿っていた。
「お前……本当に何者だ?」
俺は深く息を吸い、震える声で絞り出した。
「俺は……俺の名前は蘭。
人類の勇者として、15歳から訓練を受けて……魔王軍を倒すためにここに……」
言葉にしながら、自分でも違和感を覚えていた。
本当にそうだったのか?
両親の顔は鮮明に覚えている。家で過ごした日々も、教官による訓練の日々も、全部鮮明に思い出せる。
だが、目に映る世界が反転した今、その記憶が本物なのかどうか、確信が持てなくなっていた。
「勇者……? 人類の?」
部隊長が、あからさまに眉をひそめた。
「人類軍に勇者なんて制度は存在しない」
「……え?」
胸が締め付けられるような感覚。呼吸が肺に思うように届かない。
「だが、俺は……確かに勇者として育てられた。訓練も受けた。魔王軍を倒すために……」
「その訓練とやらは、誰に受けた?」
「……人類軍の、教官に」
「人類軍に教官という役職の者は存在しない」
嘘だ。訓練場の匂い、教官の怒号、剣を握り続けた手の豆の痛み、血の混じった唾の味。全部、確かに覚えている。
なのに。
世界が……目の前の光景が、この男が、俺の記憶を否定してくる。
「……じゃあ……俺は……何なんだ?」
思わず漏れた声は、震えていた。
部隊長は首輪を見つめ、そして俺の全身をじっくりと観察するように視線を走らせた。
「……何らかの方法で、姿形を魔族に変えられていた可能性がある」
姿を……変えられていた?
俺は自分の手を見る。いつも通りの、人間の手だ。
だが、部隊長は言った。
「さっきまで、お前は間違いなく魔族の姿をしていた。角を生やし、黒い皮膚をした怪物であり、見た目は手には剣を持った魔族そのものだった。俺だけじゃなく、周りの兵士たちも同じ認識だ」
「そんな……」
俺は魔族だった?
そんなはずはない。俺は人間だ。両親も人間だ。
倒してきた魔族たちの顔も、脳裏にしっかりと思い出せる。
牙を剥き、咆哮をあげ、俺に襲いかかってきた……はずの存在。
だが、今見えるのは……血まみれの人類兵士たちの死体だ。
「……俺は……何が……」
部隊長は剣を構えたまま、慎重に距離を保ちながら言った。
「今はまだ、何も断定できない。だが、お前の認識と、俺たちの認識が食い違っているのは確かだ」
「……認識が……俺が見てきたものは全部嘘だったって言うのか……!?」
記憶を、視界を、姿を、認識を。
その全てが偽られていたというのか?
そんな事が、本当に可能なのか?
だが、俺の目に映る世界が反転した今、否定できる根拠は何もなかった。
部隊長は首輪を見つめながら言った。
「この首輪……何かの鍵か、道具になっていた可能性がある。お前の姿を変え、俺たちの認識を歪めていた……そんな類のものかもしれん」
「そんな……」
俺は首を振る。だが、否定する言葉は出てこなかった。
人類軍、いや魔王軍か。そいつらにそれができるわけが無い。そう言えるだけの知識を俺は持っていない。
胸の奥で様々な感情が渦巻く。
混乱。恐怖。怒り。
何がどうしてこうなっているのか。答えはまだ分からない。
だが、世界が反転した現状において、俺の今までの認識は、もはや絶対ではない。これからの認識しか信じられない。
部隊長は剣を構えたまま、静かに言った。
「蘭と言ったな。お前は……魔王軍に利用されていた可能性が高い」
その言葉は、胸の奥に深く突き刺さり、俺の中の何かが軋んだ。
世界が反転した直後の混乱とは違う。もっと深く、重く暗い感情が、胸の底からゆっくりと浮かび上がってくる。
利用されていた……?
俺が? 誰に? 何のために?
「……俺は……騙されていたのか……?」
呟いた瞬間、胸の奥に小さな黒い炎が灯った。
憎しみ。怒り。絶望。
胸の奥に沈んでいた感情が、じわじわと形を持ち始め、混ざり合っていく。
俺は、誰かに利用されていた。
俺の人生は、誰かの都合で作られた。
俺の戦いは、誰かの思惑のためにあった。
その誰かは……
「……魔王、か」
名前を口にした瞬間、黒い炎は爆発的に燃え広がった。
魔王。
俺が倒すべき敵。
俺が戦ってきた相手。
俺が勇者として立ち向かってきた存在。
だが、もし……
俺を魔族に見せていたのが魔王なら?
俺の記憶や認識を偽っていたのが魔王なら?
俺を利用していたのが魔王なら?
俺は、魔王のために人類を殺していたのか?
守るべきはずの人々の命を、俺はこの手で奪ってきたのか?
胸が焼けるように熱い。怒りが、憎しみが、負の感情となって全身を駆け巡る。
「……殺す。魔王を……絶対に殺す」
その言葉は、自然に口から出た。意識して言ったわけではない。
だが、俺の心の底から湧き上がった本音だった。
部隊長は警戒を解かぬまま、俺の目を見て言った。
「……その言葉が本気なら、話は早い。
だが、その前に聞かせろ。お前の力……さっきの戦いで見た。あれは何だ?」
「……あれとはどの事だ?」
「戦う度に、一戦ごとにお前は強くなっていた。最初は一兵卒だと思っていたら、徐々に強くなって、最後には俺が相手をして止めるべきだと判断するほどになっていた」
俺は深く息を吸い、答えた。
「俺の力、スキルは殺した相手の魔力を……喰う。それで俺は強くなる。それだけだ」
部隊長は小さく息を呑む。
「……魔力を喰う? そんなスキル、聞いた事がない」
「俺も詳しくは分からない。ただ、殺した相手の魔力が……身体の中に流れ込んでくる感覚がある。それで、力が増していると思う。教官にもそう言われた」
俺は拳を握る。戦いの中で何度も感じてきた、あの奇妙な感覚。魔力が、血のように体を巡る感覚。他者の力が、自分の中に溶けていく感覚。
「それだけだ。他には……何もない」
そう言いながらも、胸の奥に小さな違和感があった。
だが、それが何なのかは分からない。
部隊長は首輪と俺を交互に見ながら、低く呟いた。
「……魔力を喰う力……姿を偽られていた可能性……認識の齟齬……そしてこの首輪……」
部隊長は首輪を見ながら独り言を呟いている。
そんな事はどうでもいい。
魔王。俺を騙し、利用し、操っていたであろう存在。
俺の人生を奪った存在。
「……魔王を殺す。絶対に。たとえ魔族に、悪魔になったとしても!」
拳を握り見つめ、強くその決意を胸にした瞬間だった。
『スキル人魔両性を発動します』
無機質なアナウンスが脳内に響き渡る。
じんまりょうせい?
初めて聞くスキルだ。そんなスキル、いつ獲得していたんだ?
「なっ……!」
見つめていた拳から爪が伸び、皮膚が黒く染まっていく。
拳だけでなく、腕もその先に見えていた足も、憎むべき魔族のような黒い皮膚へと変わっていく。
何が起きている!?
「どういうことだ……貴様……!」
部隊長の声に驚愕が混じる。俺だけに見えているわけではなく、部隊長にも同じように見えているのか?
人類軍の連中も、周りに倒れている人間と魔族も変わっていない。
変わっているのは俺だけ……?
「おい! また魔族に戻ったぞ!」
「距離を取れ!」
兵士たちが怒号をあげながら、俺に武器を構える。
俺は叫びたかった。違う、俺だと。だが、上手く呼吸ができず、声も出せない。
頭の中で何度も叫ぶ。
違う! 俺は人間だ! 魔族じゃない!
俺は……蘭だ!
『スキル人魔両性を発動します』
再び無機質な声が響くと同時に、手から伸びていた爪が引っ込み、皮膚の色が元に戻っていく。数秒後、俺は元の人間の姿になっていた。
頭は混乱したままだが、元に戻った事でどうにか呼吸ができるようになった。
「……はぁ……はぁ……」
部隊長は剣を構えたまま、驚愕の表情で俺を見ていた。
「……お前……今のは一体……」
俺は震える声で答えた。
「わからない……けれど、魔王への怒りを胸にしたら……身体が、勝手に……」
部隊長はしばらく黙り込み、俺と首輪を交互に見つめた。
やがて、その瞳に冷徹な光が宿る。
「……姿を切り替えられるのか? 人間と……魔族の姿を」
「……分からない……自由に変えられるのか、制御できるかは……」
「だが、事実として、お前は俺たちの目の前で魔族に姿を変えた」
部隊長の声は低く、重かった。
「お前は、人間にも魔族にもどちらの姿にもなれる」
俺は何者なんだ? 人間なのか、それとも新種の化け物なのか。
部隊長は剣を下ろさないまま、ゆっくりと言った。
「……魔王軍に潜入できるかもしれない」
その言葉は、俺の胸に重く響いた。
「お前は魔族の姿にもなれる。それなら魔王軍の中に紛れ込める。中枢に毒を仕込む事だってできるし、内側から食い破る事もできるだろう」
部隊長の目は鋭かった。
「勘違いするなよ。俺はお前を完全には信用していない」
その言葉は当然だった。俺自身、自分を信用できていないのだから。
「だが……利用価値はある。魔王軍の内部に入り、情報を持ち帰ったり、破壊工作ができる貴重な存在となるかもしれない」
部隊長は剣を構えたまま、深く息を吐いた。
「蘭だったな。協力しろ。お前自身のためにも、俺たちのためにも。
このクソったれな劣勢の戦況を変えるために、何だって利用してやる。従わないなら……ここで消すだけだ」
何だって利用する、か。
魔王を殺すため、奪われた人生を取り戻すため。
そして、故郷の家族がどうなっているのかを知るため。
家族を最後に見たのは勇者として訓練のために旅立つ時だった。
ただ、その時は俺の認識が偽られていた時のものだ。あの温かな家族団らんの記憶さえ、奴らが植え付けた紛い物なのかもしれない。
……知りたい。家族の無事を。そして真実を。俺が何者なのかを。
「……いいだろう。俺を使え」
俺は静かに言った。
「魔王軍に潜入して、首輪の事も……俺の認識も……家族がどうなっているのかも……全ての真実を暴いてやる」
部隊長はゆっくりと頷いた。
「……そうか。ならば、お前には潜入者として動いてもらう」
俺は立ち上がり、拳を握りしめた。
「魔王を殺す。魔王軍を殺す。俺の人生を奪った奴らを……絶対に」
胸の奥で冷たく燃え盛るその決意は、もう、何があっても揺るがないだろう。
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