閑話:平和の音色と、女神の欲張りな夢
魔王城から「是正指示書」を叩きつけて帰還してからというもの、始まりの街クリープには、かつてないほどの穏やかな時間が流れていた。
魔王軍の軍靴の音は消え、代わりに聞こえてくるのは、新しく舗装された道路を走る馬車の音と、広場で遊ぶ子供たちの笑い声。そして何より、現場でインバが振るうシャベルが土を叩く、小気味よいリズムだ。
「……平和ね。平和すぎて、ポテチが止まらないわ」
私は現場の木陰で、インバから支給された(というか魔王城からせしめた)最高級の黄金ジャガイモを使ったポテチを齧りながら、贅沢な溜息をついた。
隣には、魔王軍の側近だったはずのエルが、エプロン姿でインバのお弁当をチェックしている。 「ニーナ様、インバ様の午後のエネルギーには、この黄金芋のポタージュが最適ですわ。……あと、これ。リリス様から『報告書のお礼』として届いた新作のフレーバーです」
「リリスのやつ、すっかりエルのポテチ仲間に調教されたわね……」
視線を上げれば、現場の向こうではリリィが「爆裂魔法の応用よ!」と言いながら、精密な火力調節でアスファルトを熱し、クラリスが「聖なる加護で地盤を固めます!」と祈りを捧げている。 元勇者のガレウスも、インバの「資材運び」としての才能を開花させ、山のような石材を背負って元気に走り回っていた。
そして、その中心にいるのは、いつものさわやかな顔で汗を流すインバだ。
「ニーナ。そこ、石が飛ぶからもう少し離れてろよ」
インバが振り向いて、私に笑いかける。 レベル20という、この世界の理を逸脱した力を持ちながら、彼は相変わらず「一歩歩いても地形が変わらないように」細心の注意を払い、ただの土木作業員としてそこに在った。
その光景が、あまりにも完璧だった。 ニーナ、リリィ、クラリス、エル、そしてモコ。 インバを囲む四つ巴のヒロインたち(と妹)の関係は、相変わらず騒がしいけれど、どこか調和が取れていた。
「(……ああ。これが、私の見たかった景色なのかもしれない)」
ふと、そんなことを思った。 私は女神だ。退屈を紛らわすために「ゲームのような世界」を作り、勇者や魔王を配置して、安全な場所から眺めているだけの存在だったはず。 けれど、インバという「本物の不確定要素」が混ざったことで、この箱庭は、私自身の想像を遥かに超えた、温かくて愛おしい場所に変わってしまった。
「お姉ちゃん、お口にポテチのカスついてるよ」
モコがひょっこりと現れ、私の頬を指先で拭ってくれた。 「あ、ありがとうモコ。……ねえ、モコ。幸せ?」
「うん! お兄ちゃんが楽しそうだし、みんなも優しいし。モコ、ずっとこのままが良いな」
その言葉に、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 ずっと、このまま。 管理者としての私は知っている。インバが強くなればなるほど、この世界の「容量」は限界に近づいていることを。 彼がレベル25に近づき、「事象の固定」なんて神の権能に近い技を使い始めれば、システムが彼という特異点を許容できなくなることを。
それでも。 夕暮れ時、作業を終えたインバが「よし、今日は早めに帰って、みんなで飯にするか」と言った時の、あの誇らしげな背中を見ていると。 私は、女神の特権をすべて使ってでも、この「偽物の、けれど最高に幸せな日常」を永遠に固定してしまいたいと願わずにはいられなかった。
「……ねえ、インバ」
帰り道、二人きりで歩く夕焼けの街道。 私は、彼の作業服の裾をそっと掴んだ。
「なんだ、ニーナ?」
「……ううん。なんでもない。……ただ、明日も、その次も、一緒に現場に行きましょうね。絶対よ」
インバは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに優しく頷いた。 「ああ。当たり前だろ。……まだ、直さなきゃいけない道はたくさんあるからな」
その言葉を、私は大切に心の中に閉じ込めた。 空には一番星が輝き始めている。 明日もまた、同じような朝日が昇り、同じような一日が始まる。 ……そう、信じていた。
この数日後、空が「剥がれる」なんて、今の私には想像もできなかったから。




