第二十二話:玉座の間の劇的ビフォーアフター ―魔王、最強のクレーマーに震える―
私はニーナ。元女神にして、現在は「世界で最も恐ろしいクレーム」を入れに来た男の付き添い。 ……ねえ、誰か信じてくれる? 今、私たちの目の前にあるのは、数千年の歴史を誇る魔族の聖域、魔王城の玉座の間へと続く大扉。本来なら選ばれし魔族か、死を覚悟した勇者しか通れないはずの場所に、インバは「ちょっと近所の工事現場に行ってくる」くらいの軽いノリで立っているのよ。
「……やっぱりな。この城、設計からして間違ってるぞ」
インバは、禍々しい装飾が施された大扉のヒンジをじっと見つめ、不機嫌そうに呟いた。 彼の指先が扉の表面に触れる。その瞬間、魔王が何重にも張り巡らせたはずの『絶望の呪結界』が、まるで古くなった障子紙みたいにパリパリと音を立てて剥がれ落ちていった。
「ちょっとインバ! もう少し手加減しなさいよ! 魔王のプライドが、扉と一緒に粉々になっちゃうじゃない!」
「ニーナ、甘いぞ。建付けの悪い扉を放置するのは、住人の怠慢だ。……ほら、開けるぞ」
インバが軽く肩で扉を押す。 ――ドォォォォォン!! 「開ける」という言葉の定義が書き換わるような轟音と共に、数トンの重量があるはずの黒金石の扉が、左右の壁にめり込みながら弾け飛んだ。
視界が開ける。 そこには、紫色の炎が揺らめく広大な広間と、その最奥、高い階段の上に鎮座する魔王……そして、彼を守るように立ち塞がる魔王軍の精鋭たちがいた。
「……何者だ、貴様あぁ!!」 四天王の一人、剛力のバロールが咆哮し、巨大な斧を振り上げる。
「インバ様、あの方は以前エルゼ奪還を企てた猪突猛進な方ですわ。……お掃除の邪魔になりますので、速やかに排除されることをお勧めします」 エプロン姿のエルが、インバの耳元で淡々とアドバイスを送る。
「排除……っていうか、危ないだろ。そんな重いもの振り回して。……足元のタイル、一枚いくらすると思ってるんだ」
インバが一歩、踏み出した。 ――ズ、ゥゥゥン!!
城全体が悲鳴を上げた。レベル25への予兆である『事象の固定』が、彼の足裏を通じて城の地盤に直接叩き込まれる。バロールを含む魔族兵たちは、戦うどころか、あまりの重圧に床に縫い付けられたように動けなくなった。
「が……はっ……!? な、なんだこの質量は……! 大地そのものが、俺を押さえつけているのか!?」
「……動くな。今、床の水平を確認してるんだ」
インバはバロールを完全に無視し、床に這いつくばってタイルを凝視した。 もう、見ていられないわ。 魔王軍の誇り高き四天王が、インバにとっては「水平器の代わり」にすらなっていない。 私は背後で爆笑を堪えているリリィと、なぜかその光景を熱心に拝んでいるクラリス、そして「お兄ちゃん、このおじさん重そうだね」とバロールの背中にポテチを置こうとするモコを必死に制止した。
第一幕:魔王、絶句する
「……静粛に」
玉座の上で、魔王が立ち上がった。 全身を漆黒の鎧に包み、瞳には魔界の業火を宿した、真の恐怖の象徴。 だが、その声は心なしか震えている。
「人間よ。……いや、破壊の化身よ。我が居城をこれほどまでに蹂躙し、我が精鋭を指先一つ動かさずに沈黙させるとは。貴様、何が望みだ。世界か? 我の首か?」
インバはゆっくりと立ち上がり、作業服の土を払いながら魔王を見上げた。
「……魔王。お前に言いたいことは山ほどあるが、まずはこれだ」
インバは懐から一枚の紙を取り出した。 そこには、精密な手書きの図面と、赤い丸で囲まれた無数の箇所が記されていた。
「これ、お前の城の『是正指示書』だ。……排水設備が壊滅的だ。おかげでこの街一帯の地下水脈に魔力が混ざって、俺の現場のコンクリートが固まりにくいんだよ」
「……は?」 魔王の威厳が、音を立てて崩れた。
「それに、お前が送ってきたあのサキュバス。あいつが夢の中で暴れたせいで、俺の貴重な修行時間が三十分も削られた。その分の人件費と、精神的苦痛に対する賠償、あと、うちの家の前に看板を立てに来た王都の連中を追い払う手間……。これらを合わせて、今すぐ誠意を見せてもらおうか」
静寂が、玉座の間を支配した。 あまりにも真っ当な、しかしあまりにもスケールの違う「クレーム」。 「……く、くくく。面白い。この我に対し、排水設備の文句を言いに来るとはな! ならば、力でわからせてくれる! 我が魔力、貴様の魂ごと――」
「……うるさいな。話を聞けよ」
インバが、右手を軽く横に振った。 ――カッ!!
空気砲ではない。もはや、それは「空間の拒絶」だった。 魔王が練り上げていた膨大な魔力の塊が、インバの指先が描いた軌跡に沿って、一瞬で「消滅」したのだ。いや、消滅したのではない。インバがその場の空気を極限まで固定し、魔力が存在するための『隙間』すら奪い去ったのだ。
「……え……?」 魔王が、自分の手を見つめた。何も出てこない。魔界の理が、一人の土木作業員によって書き換えられていた。
「(来たわ……レベル25の萌芽。対象の存在をその場に『固定』し、あらゆる変化――つまり魔法や攻撃――を無効化する技術……。インバ、あんた本当に何者なのよ……)」
私は、背筋が凍るような感動と、少しの恐怖を感じていた。 この男の隣にいるのは、女神である私ですら、特等席というよりは「台風の目」にいるようなものだわ。
第二幕:魔王城、リフォーム開始
「……わかった。わかったから、その拳を下ろしてくれ、人間……いや、インバ殿」
魔王は、力なく玉座に座り直した。 勝てない。本能がそう告げている。この男に逆らうことは、重力に逆らうことと同じくらい無意味だと。
「誠意……。誠意を見せればいいのだな? 何を望む。金か? 領地か?」
「……現場の資材だ。あと、お前の城の地下にあるという『不滅の粘土』。あれを道路の舗装材に使いたい。……それと、今後は俺の家の半径十キロ以内に、魔物一匹近づけるな。仕事の邪魔だ」
「承知した……。直ちに全軍に撤退命令を出す……。二度と、貴殿の生活を乱すような真似はさせぬ……」
魔王が、部下に命じて宝物庫から次々と資材を運ばせる。 インバはそれを一つ一つ吟味し、「これは強度が足りない」「これは色が悪い」とダメ出しをしながら、自ら仕分けを始めた。
「……インバ様、ついでにこちらの玉座のクッション、エルの部屋のソファに使えそうですわ。いただいてもよろしいかしら?」 「ああ、いいぞ。……おい、魔王。これも持ってくからな」
「……好きにするが良い……」 魔王は、もはや魂が抜けたような顔で、自分の玉座が解体されていくのを見守っていた。
第三幕:家政婦と女神の「勝利」
数時間後。 魔王城の地下水路を完璧に修理(というか、物理的に作り変え)し、大量の最高級資材を馬車に詰め込んだインバ一行は、意気揚々と城を後にした。
城門で見送る魔族たちは、誰もが「生きて帰れる……」という安堵の表情を浮かべていた。
「……ふぅ。これでしばらくは、静かに仕事ができそうだな」 インバが、満足げにシャベルを叩く。
「もう! インバったら、やりすぎよ! 魔王があんなに小さくなっちゃって……。でも、まあ、これで邪魔者が消えたのは確かね」 私は、インバの腕を再びぎゅっと抱きしめた。
「インバ様、帰ったらお祝いでプレミアム・ポテチのパーティーにしましょう。魔王様の宝物庫から、幻の黄金ジャガイモもくすねて……いえ、頂いてきましたわ」 エルが、いたずらっぽく微笑む。
「エ、エル……。あんた、本当に有能ね」
「……ニーナ。次は、現実世界でのデートの続き、考えておいてくれよ。……邪魔者がいなくなったんだ。今度は、ゆっくり歩けるだろ」
インバが、不器用に、けれど真っ直ぐに私を見て言った。 ……え。 今、なんて? 現実世界での……デート?
「……あ。……あぁぁぁぁぁ!! インバ! あんた、そういうことをサラッと言うんじゃないわよ! 準備があるんだから! 心の準備がぁぁ!!」
私の叫び声が、夕暮れの魔界に響き渡る。 背後でリリィが「ずるい! 私も行く!」と叫び、クラリスが「聖なるデート、私が監修しますわ!」と割り込んできたけれど、今の私の耳には何も入ってこなかった。
最強の土木作業員による、魔王城の制圧。 それは、世界を救うためではなく、ただ「平穏なデート」を手に入れるための、壮大な下準備に過ぎなかった。
魔王城を後にする馬車の影は、これまでで一番長く、そして温かく、街道を照らしていた。




