1話
夏の終わりが近づいたある日。
一人の少女、朔月アカネは病院の廊下を歩いていた。
ぎいぎいと軋む床の音、誰かの車椅子の音、どこかで泣く赤ちゃんの声。
そんな数々の音に押されるようにして、彼女はある扉の前に辿り着く。
木製で少しガタ付いている扉を、ゆっくりと押した。
扉の向こうは、空気そのものが凍りついたような静寂。
その中心にいたのは、ベッドの上で横になっている少女。
光を失った目で、穴の開いた天井を無心に眺めている少女に、アカネはゆっくりと近づき、その手をそっと取った。
「おはよう、アオイ」
「……」
返事は無い。アカネの義妹、アオイはこくりと頷いただけだ。
私の手の上に載せられたアオイの指はびっくりするぐらい細くなっていて、このまま夏場の氷のように溶けて消えてしまうのではないかとアカネに思わせるほどだった。
そんな不吉な予想から目を逸らし、アカネは義妹の細くてかさかさした指を撫で、笑顔を作る。
「ごはん、ちゃんと食べてる?看護師さんに、迷惑かけてない?」
「……」
アオイはこくりと頷いた。本当に迷惑かけていないのかは確認しようがなかったが、アオイがそう言うのならそうなのだろうと、アカネは納得した。
アオイに笑顔を向けながら、バッグに手を差し込んだ。お土産として図書館から借りてきた本の手触りと共に、一つの封筒の手触りを感じた。
まるでその封筒が毒針になったとでも言わんがばかりに、アカネは顔をしかめた。アオイの細い指が心配そうに掌に絡まる。
アカネは咄嗟に笑顔を作った。
しかし、無理をしていることが伝わってしまったのだろう。アオイの表情が少しだけ曇った。
「……ほら、新しい本だよ。学校行けるようになるんでしょう?頑張って勉強しないと」
「……」
アカネはバッグの中から本を取り出した。簡単な計算の本だ。
自由な方の手で本を受け取り、何枚かぺらぺらとページを捲ったアオイは、満足そうに笑った。
ようやくアオイの口元が緩み、するりと言葉が漏れる。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「うん。また持ってきてあげるからね」
「……」
感謝の言葉だけを伝えて、アオイは再び口を閉じた。極度の緊張なのか、心の病気なのか。アオイはここ2年近く、ずっとこんな調子だった。
まともに話すこともできず、人がいると体を動かすことすらままならない。
こんなアオイが、かつて『モリニア最強のエースパイロット』だと呼ばれていたことを教えられても、信じる人はいないだろう。
アカネは、そう思った。それが悲しいことなのかどうかは、わからなかったが。
かって、アカネ達の住む国、モリニアでは戦争があった。
大陸最大級の勢力をもつクルトミア帝国とアナトミア共和国が、大陸全土を巻き込んで始まった『大陸統一戦争』。
アカネ達はその戦争に、少年兵として参加していた。
やることといえば荷物運びや、怪我人の応急処置、テントで食事を作ったりするような雑用であったのだが、ある日だ。
アカネ達のいた基地の部隊が大きな打撃を受け、その補充要員に少年兵を当てがったのだ。
迫るくる戦場に怯えたアカネに代わり、補充要員に志願したアオイは、死に物狂いの努力なのか、はたまた天性の才能か、めきめきと戦果を上げていった。
しかし、当時10歳にもなっていなかったアオイの心は、最前線で戦い続けるという極めて重い負荷に耐えることはできなかった。
2年前の終戦からすぐのある日、アオイは倒れた。
むしろ、そこまで耐えたのが奇跡だと、医者はアカネ達に言った。
その時の医者達の瞳には、確かにアカネ達に対する侮蔑の色が浮かんでいた。
『こんな小さな女の子を身代わりにしたのか』という侮蔑の色だ。
光を失ったアオイの瞳の奥にある、きらきらしたものを見るたびに、かつての戦争を思い出して苦しくなる、息苦しくなる。
それから逃げるためなのだろうか。ある時から、アカネは考えていた。義妹に助けられていた自分が、彼女に恩返しをするための方法を。アオイを戦わせずに済む方法を。
そして、2人で生きていくための方法を。




