五十話 扉の軋む音
――懐かしい香りがした。久しぶりに帰ってきた故郷は、どこか寂しかった。
ラナは部屋の扉を開けた。いないと分かっているのに、どこかにイオリの姿を探してしまう。
「そんなわけ、ないんですけどね」
苦笑しながら、部屋のホコリを落とすところから始めた。
「昔なら……イオリさんがコーヒーを飲みながら見てくれていたんですよね。私は……全部私がやりますからって、お手伝いとかは、させませんでしたね。もし一緒だったら、違う未来があったのでしょうか」
きっと、あの頃の自分には、そんな選択肢を選べなかった。彼がいなくなった場所で、生きていける気がしなかったからだ。本当は、魔王を倒して、ただいまって言って、おかえりなさいと迎え入れてほしかった。
「あぁもう……そんな妄想ばかりですね」
部屋のホコリを落とし切ると、二人で使っていた食器を洗ったり、部屋にある二つのベッドのシーツを取り替えたり。掃き掃除も終わらせていた。もう隣で彼は寝ないのに。
「……少しだけ、お金はありますから……ゴブリンは倒さなくても問題は――ないですね」
魔王戦の日、無理に魔法を放出した代償か、魔力がうまく流れない。時間が経てば、もしかしたら治るかもしれないとは言われていたが……ラナは苦笑するしかなかった。
「なんの仕事をしましょうか……もう、魔法使い職はできませんし、魔力を蓄える役割もありませんから」
一人の空間はとにかく寂しかった。誰もいない。何の音もしない。祖父が亡くなった後も、こんな日々だったなと思い返す。気がつけば、ラナはイオリと出会った湖に足を運んでいた。
「懐かしいです……女神様と言われたんですよね。実はすごく嬉しくて。えへへっ」
返事はない。魚すら跳ねない。湖面に浮かべた笑顔だけが、静けさの中でひどく浮いていた。泣かないように唇を結び、ラナは長いこと湖を眺めた後、背を向けた。
――翌日、ラナはとある屋台の前で止まる。
「リンゴ……ひとつ、もらえますか」
「ん? あぁ、はいよ」
戸惑いの混じった店主の声に、ラナは顔を上げられなかった。どんな感情を向けられているのか、分からない。出力の低い魔法でリンゴを半分に割ると、切り口は歪んだ。
「……なに、してるんでしょうね」
シャリッ……と噛んだ瞬間、果汁が口の中に広がる。あの日と同じ味だった。向けられる街の視線は冷たい。そう思い込んでいるだけかもしれないのに、ラナは俯いた。
――勇者についていって、英雄を捨てた少女。剣聖となった英雄。剣聖の隣にはそれを支えた聖女。それを生んだのはこの街だ。
ラナがギルドハウスの扉を開けると、中が静まり返った。勇者パーティーで活躍したかったことも、イオリの状態も、誰もが知っている。どんな表情を向ければいいのか分からないのか、視線だけが次々と逸れていった。
ラナは誰とも目を合わせないまま、酒場の隅へ食べ物と酒を運んだ。席に着いても、彼女の隣に座るものは誰もいなかった。ラナはずっと俯いていた。
おかえりと言ってほしかった。イオリに。みんなに。勇者パーティーで頑張ったね。活躍したね。夢を叶えたんだね。そんな――帰省を夢見ていたのに。
こんなところで泣いてはいけない。ラナは慣れないビールを、ごくっ、ごくっと流し込んだ。喉が熱くなり、頭がくらくらする。その熱に縋るように、震える声を絞り出した。
「どこか、これで良かったような。そんな気がするんです。だって、イオリさんを傷つけたから」
これが罰なのだ。むしろ、これでいいのだ。そう自分に言い聞かせた。他の街に逃げることもできた。けれど、逃げてはいけない気がした。
――数日後、噂が耳に入る。
――イオリとエリーが婚約するんじゃないか。そんな幸せの便りを風の噂で聞いた。
イオリのいない部屋で、ラナは窓の外を眺めていた。ずっと変わらない景色に向かって、静かに呟く。
「おめでとうございます。お似合いですよ」
ラナは立ち上がり、震える手で棚をそっと開けた。紅茶を飲もうと、ティーカップを出した。
「あっ――」
ティーカップは一つでいいのに、手には二つあった。見慣れた二つの器を見つめた瞬間、指先から力が抜けていく。
「うっ……うぁ」
足から力が抜け、ラナは床に座り込んだ。二つのティーカップを胸元へ抱え、声を震わせる。
「消えません……イオリさんが……消えないんです。ずっと、ずっと私の中に――」
カップの中へ、彼女の涙が落ちていく。自分の選択の後悔。軽率な行動。そのすべてが一気に流れ込んできた。
「うっ、うぐっ……イオリさん……さみしいっ、私っ……」
――会いたい。大好きな彼に会いたい。
――コンコンッ。
ノックの音が部屋に響いた。ラナは息を呑み、目を開けたまま涙に濡れた顔を扉へ向ける。
扉の向こうから聞こえた声は、とても……とても懐かしかった。胸から溢れる感情が、涙となって止まらない。
けれど、ラナは下唇を強く噛んだ。私には罪がある。
「私はっ……ごめんなさい……」
首を静かに横に振り、胸を強く押さえる。開けたい。あの扉を開けて、おかえりなさいと言いたい。けれど、それは許されない。扉を開けることなんてできない。
――ガンッ! 扉を乱暴に蹴る音が部屋に響く。ラナはびくんと肩を跳ねさせた。扉を蹴った張本人は少し苛立つように言った。
「ちょっと! さっさと開けなさいよ。あんたの女々しい泣き声聞こえてんだからね? 言いたいこと山程あるんだから。逃さないわよ」
嗚咽が交じり、溢れる涙をなんども袖で拭った。喉が締め付けられ、息がまともにできない。
「ごめんなさいっ、ごめんなさっ……」
懐かしい声が、ラナの心に深く染み渡った。
『――ただいま、ラナさん』




