22.凍土の夜を超えて
雪が止んだのは、クロウを背負って山を降りている最中だった。
風はまだ冷たいが、夜空には雲ひとつなく、星々が冴え渡っている。アヴリルの手が優しく光り、魔法の灯が彼らの足元を照らしている。
「……あそこに見える、建物の影。山小屋のようです」
「助かったにゃ……」
ミャウが肩で息をする。
ユウトは背中のクロウの様子を伺う。男の体は氷のように冷たく、息も弱々しかった。
小屋にたどり着き、扉を押し開けると、古びた木の匂いが鼻をかすめた。小屋は小さく、壁にはひび割れ、床には雪が入り込んでいる。それでも、火を焚けば過ごせる程度の避難所にはなる。
アヴリルが軽く指を鳴らすと、薪が一斉に燃え上がった。暖かな光が、部屋の隅々まで広がっていく。ユウトはクロウを寝台に横たえ、深く息を吐いた。
「……助かるかな」
アヴリルはクロウの脈に手を当て、頷く。
「命はつながっています。でも、魂が不安定。人と魔物の境で揺らいでいるような……」
「何があったんだ」
ユウトが呟く。
「おそらく『変換装置』と同じ性質の魔素を注入されたのだろう」
マオが答える。
「つまりこいつは、アモルシフの手駒を増やす実験に使われたのだ」
ユウトは拳を握りしめた。
「実験……?人間を……」
「怒らないで、お兄ちゃん」
マオが静かに言う。
「取り戻せた命は、確かに生きている。それだけで、今夜は十分」
その言葉に、ユウトは口を閉ざした。火のはぜる音だけが、部屋を包んだ。
しばらくして、ミャウが丸くなりながら、
「ねぇ……ちょっとだけ、安心したにゃ」と小さく言った。
アヴリルが優しく笑う。
「そうですね。あの吹雪の中を走り回ったんですもの。今だけは、少し休みましょう」
ユウトは焚き火の前に座り、クロウの寝顔を見つめた。その顔には、まだ微かに紫の痕が残っている。彼がどんな思いで戦い、そして墜ちたのか。その答えはもう、本人しか知らない。
「……なぁ、マオ。お前は、同胞と戦うの、怖くないのか」
マオはしばし火を見つめ、ゆっくり答えた。
「怖いよ。けど、マオの立場は『魔』と『人』のあいだに在るもの。どちらの世界にも属さない者こそ、橋にならないと」
「……橋、ね」ユウトが呟く。
「お兄ちゃんもね」
「え?」
「時を繋ぎ、命を戻した、人でも魔でもない力。それは、世界をつなぐ橋になりえるってこと」
マオの声は静かだったが、その言葉はユウトの胸に深く残った。彼は小さく息をつき、微笑んだ。
「……なら、せめて今夜くらいは、その橋の上で寝たいな」
「ユウトさん、詩人ですね」
「シジン?前ユウトさんの言ってた異世界のお魚の話にゃ?」
ミャウが話に混じる。
「それはシジミですね。しかも魚じゃなくて貝です」
「今のでよくわかったね、アヴリル」
四人は笑った。久しぶりに、温かく。
アヴリルが小さく笑ったが、すぐ真顔に戻る。
「ところでユウトさん。あの時の『時間の巻き戻し』、また使えるのですか?」
「それがさ……」
ユウトは手を握ったり開いたりしてみせる。
「なんか、手のひらの奥が空っぽになったみたいで。感覚が戻らないんだ」
アヴリルは宝玉剣を見つめて、真剣な表情で頷いた。
「おそらく魔力散逸が起きています。宝玉が外部魔素を吸収し、再調律を行っている状態です」
「さい……ちょうりつ?」
ミャウが首を傾げる。
「簡単に言えば、魔力が魔力を呼び戻して自己修復しているんです。でも、循環するには少し時間が必要で……」
「待って待ってアヴリル、よく分からない」
「……つまり、『くぅる・たいむ』だ」
マオがぼそっと呟いた。
ユウトは思わず笑い、頷いた。
「ああ、CTがあるってわけか。まぁ、便利すぎる力に制限がない方が怖いしな」
アヴリルは少しむくれた顔で言う。
「せっかく理論的に説明したのに、マオちゃんの説明のほうがよかったんですね」
「いや、どっちもわかりやすかったよ」
ユウトが慌てて取り繕い、マオはくすっと笑った。
焚き火の炎が、柔らかく揺れる。
ユウトが火をくべながら、ふと呟いた。
「しかし、寒いな……何とかならないか、炎の名前を持つ『アヴリル・フレイマード』さん」
「名前だけではどうにもなりませんよ」
アヴリルが肩をすくめる。
「ねぇ、魔界の炎で何とかなりません?えと……ドゥー……ドゥー……」
「ドゥーミトパリオペッパーオ・ギギルグクだ。一発で覚えてくれ」
「無茶言わないでください」
アヴリルが呆れ顔をする。
ユウトが苦笑して、焚き火の炎を見つめた。
「そういや、俺のフルネーム、言ったことなかったな」
マオが首を傾げる。
「確かに。お兄ちゃん、ずっと『ユウト』だね」
「フルネームは佐々木悠斗だよ」
「異世界人に普通によくある名前だ」マオが頷き、
「普通ですね」
とアヴリルが重ねる。
「な、なんだよぉ!」
ユウトが悲しそうに言うと、二人はくすくす笑った。
ふと、ユウトがミャウを見る。
「そういえばミャウ、その名前は本名なのか?」
ミャウは毛布から顔を出した。
「ミャウはミャウにゃお。売られるときにそういう名前をつけられたのにゃ。奴隷商のおじさんが決めたみゃお」
「じゃあ、お父さんやお母さんがつけた名前は……」
「ないにゃ。っていうか、お父さんのこともお母さんのことも、どこで生まれたのかもミャウなーんにも知らないにゃお」
アヴリルが目を伏せる。
「ミャウちゃん……」
マオも静かに言った。
「すまない」
「にゃ?なんで謝るにゃ?」
ミャウが首を傾げる。
そして、ぱっと笑った。
「ミャウはこの名前が好きにゃ!奴隷商のおじさんが怖い声で呼ぶときは大嫌いだったけど、ユウトさん、アヴリルちゃん、マオちゃんが呼んでくれるようになって、ミャウは自分の名前が大好きになったにゃ! だから、ミャウの名前はミャウにゃ!」
その言葉に、三人とも言葉を失った。やがて、アヴリルが柔らかく笑む。
「そうね……名前って、誰に呼ばれるかで変わるのね」
ユウトが焚き火の炎を見つめながら、静かに頷く。
「そうだな。名前って……居場所の証なんだな」
火がはぜる音が、またひとつ響いた。外では風が木々を揺らし、焚き火の炎がやわらかく揺れている。その夜、彼らは短い休息を得た。ほんのひとときだけ、戦いも痛みも忘れて。
朝。
窓の外は、一面の白。
夜の間に雪が降り積もり、世界をすっかり覆っていた。
ユウトが目を覚ますと、焚き火は消えかけていた。マオは既に外に出て、天候を確認している。アヴリルは小鍋で湯を沸かし、ミャウは毛布にくるまったまま、寝ぼけ眼をこすっていた。
「……クロウは?」
ユウトが振り返ると、寝台の男が、うっすらと目を開けていた。
「……ようやく、お目覚めですか」
アヴリルが声をかける。
クロウはしばらく天井を見つめ、呻くように呟いた。
「……なんだここは。まさか、お前らが……助けたのか?」
「放っておくわけにもいかないだろ」
ユウトが軽く肩をすくめる。
クロウは鼻で笑う。
「無能に助けられるなんて、気分が悪ぃな」
「はいはい」
ユウトが呆れたように答える。
そのやりとりに、マオが戻ってきて口を挟んだ。
「どうやら意識も戻ったようだな。ならば安心だ」
「……あんたら、どこまでお人好しなんだ」
クロウが顔を背ける。
「借りを作ったままなんて、もっと気分が悪いぜ。ほら」
そう言って、懐から空の小瓶を取り出すと、ユウトに放り投げた。ユウトが受け取り、眉をひそめた。
「この瓶は?」
「俺が持ってた道具の瓶だ。俺が森で甲冑野郎に襲われた時、その中身がなぜかあいつに効いたんだ」
「効いた……?」
アヴリルが首をかしげる。
「何が入ってたんだ?」
「さぁな、分からねえ。必死だったからな」
クロウは薄く笑った。
「ま、調べたら何かわかるかもな」
そう言って立ち上がる。
まだ体のふらつきは残るが、歩けるようだ。
「待て、どこへ行く」
ユウトが声をかける。クロウは肩越しに振り返り、横目でユウトを見た。
「俺は俺のやり方しか知らねぇからな。これからはちょっとだけ、すまないな、って思いながら魔物を狩るさ」
雪を踏みしめ、彼は去っていった。朝の光が、彼の背を照らしている。その背中は、どこか哀しげで、それでも確かな意志を宿していた。
ミャウがぽつりと言った。
「……ツンツンしてるけど、悪いやつじゃないにゃ」
アヴリルが微笑む。
「人は、簡単には変われないものです。けれど、ほんの少しでも、何かが残るなら」
「それは、まだ『人間』なんだろうな」
ユウトが静かに続けた。
マオは外を見上げ、囁くように言った。
「雪が……やんだな。北の空が晴れるのは、珍しい」
雲の切れ間から、淡い陽光が差し込む。その光が、小屋の中を満たした。
こうして、凍土の夜は明けた。
だが彼らの旅路の上に、新たな影が忍び寄っていた。




