それは既に差し伸べられている
『顔色が悪いですよ。馬車に酔ってしまわれましたか?エルネマーニュ様』
『……いえ、大丈夫よ』
『ここは開けているとはいえ、窓からは林しか見えませんからね。少しでも景色が変われば気分転換にもなるのですが』
『ええ……そうね』
(私はエルネマーニュ・フェルナンド。フェルナンド王国の第二王女)
(これから向かうのは、獣人が治めるケルベリス共和国――視察という名目の、追放先)
(父王が病に倒れてからというもの、弟と執政官は露骨に動き始めた)
(王位争いから、私を排除するために)
『エルネマーニュ様!』
『え、何か言ったメリア?』
『魔物です。木の陰に隠れてこちらを見ています。ゴブリンでしょうか?』
『あら、それは怖いわね。でも、ゴブリン程度なら騎士達がいるから問題ないでしょう』
『それもそう……』
キィィィ……
不意に、馬車が止まった。
メリアが御者側の窓を開ける。
『ちょっと、なぜ停車したの?』
『ま……魔物です……』
『魔物といえど、ゴブリンでしょう!騎士や兵士達は――』
ガシャーーーン!
言葉は、轟音に掻き消された。
エルネマーニュの乗る馬車の横に、別の馬車が空から叩きつけられた。
ズンッ……ズンッ……ズンッ……
大地が鳴っている。
いや――近づいてくる。
エルネマーニュは恐る恐る窓を開けた。
目に入ったのは、巨大な棍棒を持つ巨体の魔物。
その一振りで、馬車が宙を舞い、粉砕される。
まるで、箒で塵を掃き払うかのように。
『……サイクロプス』
駆け寄る足音と共に、騎士が声を張り上げる。
『報告します!現在、前後左右より大型魔物の攻撃を受けております!』
『状況は!?』
『騎士や兵士が応戦しておりますが、このままでは――』
地鳴りと悲鳴が、すべてを呑み込んだ。
メリアが身を乗り出した、その瞬間。
――ぐしゃり。
凄まじい衝撃が、空間を引き裂いた。
何が起きたのか、理解できなかった。
耳の奥で何かが壊れ、世界が遠のく。
視界が揺れる。
頬に、温かいものが飛び散った。
ゆっくりと視線を向ける。
メリアの顔が、赤く染まっていた。
いや――違う。
それは、返り血だった。
『メリア……?』
声が、出ているのかも分からない。
その時だった。
ぐしゃり、と。
大きな手が、メリアの身体を掴み上げた。
『――っ』
次の瞬間には、もういなかった。
何かを咀嚼する、湿った音だけが残る。
エルネマーニュの身体が、小刻みに震える。
カタカタと鳴るその音が、自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
(――ここまでするのか……)
脳裏に浮かぶのは、弟と執政官の顔。
(――覇権など、いらない……)
ゆっくりと、ドアに手をかける。
(――逃げなければ……)
(――せめて、生き残った者を……)
扉を開け、外へと顔を出す。
その瞬間――思考が止まった。
血に染まった地面。
転がる肉片。
折れた馬車の残骸。
そして――
それらを囲む、十数体のサイクロプス。
生き残りなど、いない。
逃げ道も、ない。
ふと、一体のサイクロプスに視線が吸い寄せられる。
口元から血を滴らせている。
負傷しているのではない。
その口の中に、見覚えのある服があった。
――メリア。
虚ろな目をしたまま、その身体が咀嚼されていた。
(誰かが、悲鳴を上げている)
(……あぁ。私の、声だ)
サイクロプス達が、ゆっくりと棍棒を振り上げる。
逃げ場はない。
助けも来ない。
すべてが終わる。
『……神様……どうか……』
その時だった。
――ダンッ!!!
何かが、目の前に降り立った。
『間に合ったみたいだね』
その声を聞いた瞬間、失われていた感覚が、一気に戻る。
視界の先。
青い後ろ髪。
白い衣。
薄紫の鞘に手をかける、その背中。
リィィィィン――チン。
澄んだ音が響く。
まるで、この惨劇を優しく浄めるかのように。
次の瞬間。
すべてのサイクロプスの首が、宙を舞っていた。
『ケガはない?』
振り返ったその顔は、あまりにも穏やかで。
あまりにも、美しかった。
(あぁ……神様……)
エルネマーニュは、生まれて初めて。
心から、神に感謝した。
――馬車の上では、聖獣が退屈そうに一つ欠伸をした。
だが、その存在に気づく者はいなかった。




