第九話
「こんな所にいたのね」
「お母……さん!」
「先生……!」
お姉ちゃんからこぼれた一言に、体ごと意識を引っ張り戻される。今、確かに「先生」と言った。どういうことなのだろう。二人は知り合いなのだろうか。だとしたら、どのような関係なのだろうか。
「お姉ちゃん、先生ってどういうこと!?」
「……あなたのお母さんは、私の元トレーナーなの」
お母さんが元トレーナー。そんな話、聞いたことがない。そんなはずはない。まさか、今まで隠していたのか。だとしたらなぜ。疑問が疑問を呼び、脳みその中を埋め尽くしていく。
「日葵、ずっと、ずっと、探したのよ……!」
しかし、今はそれどころではない。お母さんが迫ってくる。思わずお姉ちゃんの方に後ずさるが、あっという間に距離を詰められる。お母さんはキッとこちらを睨むと、すぐにお姉ちゃんに目線を移した。
「この子を保護していただいて、ありがとうございました」
そう言って、深く、ゆっくりと頭を下げる。
「まさか先生の子だった……」
「詳しい話は後日致しますので、今日はここで失礼します」
お母さんはお姉ちゃんの話を遮ると、私の手首をガっと鷲掴みにした。
「帰るわよ」
そう言って、公園の出口に引っ張っていこうとする。
「痛いっ……やだっ……やだっ……離してよっ……!」
このまま黙って連れ戻されるわけにはいかないと、掴まれた右腕を力づくで振りほどく。
「嫌だ!」
「日葵……!?」
「私、お姉ちゃんと練習して、アイドルになるって……決めたんだもん!」
それを聞くなりお母さんはさらに険しい表情になった。
「あなた、まだそんなこと言ってるの……!?」
今度は両肩を鷲掴みにされる。顔をグッと近づけられ、目の前が恐怖で埋まる。
「自分が……自分が、どれだけ他人に迷惑をかけたか分かってるの……!?」
それは分かっている。お母さんにどれだけ心配をかけたか。お姉ちゃんにどれだけ負担をかけたか。だからこそ、私は抵抗する。この一か月間を無駄にしてはいけない。
「嫌だ! 何と言われたって、私は諦めないもん!」
「日葵……! あなたって子は……!」
とうとう火山が噴火したようだ。お母さんは口をつぐみ、右手を振り上げた。はたかれる。そう覚悟し、ギュッと目をつぶったその時、
「先生!」
お姉ちゃんの声が二人の間に割って入った。
「先生、どうか日葵に一度だけチャンスをください! 日葵はこの一か月間必死に練習してきたんです! どうか見てあげてください……!」
振り上げていた右手が緩む。お母さんはお姉ちゃんを一瞥すると、少し考える素振りを見せ、こう言った。
「いいでしょう。……ただし、チャンスは一回だけですよ」
今度は冷徹な目で見下される。親が子に向けるとは思えない、あまりに敵意むき出しの視線にたじろぐが、こちらも負けじと力強く見つめ返す。
「自分の子供だからと言って、手加減はしませんからね」
お母さんはそう言うと、近くのベンチに腰掛け、腕と脚を組んだ。その様は、オーディション会場にいそうな怖い審査員、そう言い表すことがピッタリである。そして相対するは、そのオーディションに強制エントリーさせられてしまった私。正直、まだ心の準備ができてない。緊張で手足が震えると同時に、吐き気もしてきた。だが、チャンスは待ってくれない。しかも一回だけ。
「かけるね」
お姉ちゃんの一言で曲が始まる。
「~♪」
最初の一動作で覚る、これはダメだ。体が硬い。のどが詰まる。そして何より、失敗は許されないことが頭中を支配して、パフォーマンスに集中できない。
「~♪」
お姉ちゃんの教えとは反して、私はお母さんの目を全く見れずにいた。どんな表情をしているのか、怖くて仕方がないのだ。ダメダメ、負けるな私。そう自分に言い聞かせて、視線を相手の胸から顔に頑張って移す。しかしやはり、お母さんは何も響いていないような、退屈そうな目でこちらを見ているのだった。
「~♪」
退屈そうな目でこちらを見ている。
「~♪」
退屈そうな目でこちらを見ている。その視線が辛い。ここから逃げ出したい。心がそう弱音を吐いた瞬間、ステップが絡まり、その場に倒れた。
「ああっ……!」
練習でもしないような大きなミス。しまった、早く立ち上がらなければ。
「もういい。曲を止めて」
お母さんが呆れたように言い放つ。嫌だ。あれだけ練習したのに、あれだけお姉ちゃんに教えてもらったのに、やり切ることすらできずに終わってしまうなんて、そんなのは嫌だ。立ち上がり、パフォーマンスを続けようとする。
「曲を止めて!」
イラついた声が公園中に響き渡り、あたりが静まり返る。少し遅れて曲が止まる。私はその場に崩れ落ち、うなだれた。
「これで分かったでしょう。たった一人の観客も喜ばせることができないことが」
「そ、そんな……」
お母さんから結果を伴った否定が言い渡される。反論の余地がない。
「もう一回っ……もう一回だけ……!」
「チャンスは一回と言ったはずよ」
再び手首をつかまれ、出口へと引っ張られる。こんな状況になってもなお、私は意地でも連れていかれまいと必死に抵抗する。
「やだっ……嫌だ!」
次の瞬間、風船が破裂したような音があたりに響き、次いでそれに驚いた鳥たちがバサバサと飛び去って行く音が聞こえた。最初、何が起きたのか分からなかったが、じんわりと熱くなる頬の痛みが、お母さんが私をはたいたという事実を教えてくれた。
「いい加減に、しなさい……!」
「……っ」
「もう一度言うわ。あなたはプレッシャーに負けて、一曲のパフォーマンスもやり抜くことができなかったの。しかも観客はたったの一人。そんな子が東京で、大勢の前に立って戦っていけると思う? 思わないでしょう」
「日葵、あなたにアイドルは無理よ」
その一振りと一言が、私の心を打ち砕いた。思えば、お母さんが私に手を出したことはこれが初めてだった。それほどまでに、私は悪いことをしてしまったのだろうか。
「もう言うことはないようね」
私は藁にもすがる思いで、お姉ちゃんに目で助けを求める。しかし、お姉ちゃんは軽く眉をひそめ、黙ってこちらを見ているだけだった。失望しているのだろうか。きっとそうだろう。あれだけたくさん教えてもらって、曲も作ってもらったのに、私はやり切ることすらできなかったのだから。
「帰りましょう」
無気力にグイグイと手を引っ張られる。このまま家に帰り、大学に入学し、卒業すれば、普通の幸せが待っているかもしれない。少なくとも大学を辞め、アイドルを目指すよりは安定した道だろう。お母さんは私のことを思って、わざわざ探し出して、連れ戻しに来てくれたのだ。やるだけやった。それでダメだった。後悔はないはずだ。
「でも、それでもやっぱり、私……!」
もう一度、相手の手を振り切る。
「日葵!?」
そのまま無言でその場から逃げた。お母さんからも、これからの未来からも、そして味方であるお姉ちゃんからも、私はすべてから逃げて、逃げて、逃げ続ける他なかった。