44.いつか
「……」
「……」
物音一つない部屋に、二人分の息遣いだけがある。
無言の中、叶慧は内心で気まずさを感じていた。
先ほど祖母に対して話していた時はいっぱいいっぱいで自分の発言を顧みる余裕などなかったが、よくよく思い返すと、とんでもないことも口走ってしまった気がする。
『何より私が、彼に傍にいてほしいと、願っているのです』
「……!」
いたたまれなさに、叶慧は思わず俯いた。
偽らざる本心であるし、ああでも言わなければ雪奈に伝わらなかったであろうから、後悔しているわけではないけれど、それとこれとは別だ。
普段あまり心情を吐露することがないだけに、こういうことには尚更、耐性がないのかもしれない。
(……明槻は、どう思っているんだろう)
黙っていると思考が先走りして、不安のようなものも生まれてくる。
そっと、同じく口を噤んだままの桂太を見た。
黙ったままでいると元々の整った容姿が際立つからか、いつもと印象が随分と変わる。
凛々しいとも言える顔で静止していた桂太は、ふいに手を持ち上げると、そのまま反動もつけずに、己の頬を殴った。
「⁉ な……っ、え……⁉」
突然の出来事に狼狽えた叶慧が声を上げると、桂太はぽつりと「現実……?」と呟いた。
己の頬に手を当てた桂太は、ぐるんと叶慧の方を向いた。
「お嬢、ですよね?」
「あ、ああ。それより、頬が赤く腫れて」
言葉は、途中で遮られる。
「お嬢。俺は、これからも貴女の付き人で、いられるんですよね……?」
「……!」
掠れた声で、茫然と問うた姿に、叶慧は息を呑んだ。
(お祖母様や須藤と相対していた時は、あんなに堂々としていたのに)
思わず、頬が緩んだ。
きゅうっと、唇を引き結ぶ。
「ああ。……君が、それを望んでくれるなら」
「……!」
今度は桂太が息を呑む番だった。
「……望まないはず、ありません。あまりのことに、夢かと、一瞬疑いました」
ほろりと崩れるように笑った顔に、叶慧はようやく胸を撫でおろした。
須藤の言う通り、まだ安心するには早いということは分かっているが、今だけは余韻に浸っても許されるだろう。
「お嬢、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げた桂太に、叶慧は首を振る。
「私が望んだことなのだから、君がそんなことする必要はない。……どうかこれからも、よろしく頼む」
ほんのりと微笑を浮かべた叶慧はそっと、己の右拳を左手で包み込んだ。
その、僅かに震える手を、桂太の目から隠すために。
(条件反射のようなものだな、これは……)
握りしめる手に力をこめる。
――これでもう、引き返すことはできない。
安堵した途端、そんな言葉が、頭をよぎった。
最後の、機会だったのだ。まだ何も起こっていないうちに、桂太を叶慧から遠ざけるのは。
覚悟を決めたはずだったのに、心に染みついたどうしようもない恐れが、事あるごとに己を苛む。
(明槻は彼らではないし、自分もあの時とは違う。だからきっと、大丈夫……)
言い聞かせて、唇を噛みしめる。
「――……」
桂太は叶慧の様子を眺める。
やがて目線を上げると、真っすぐに叶慧に居直った。
「お嬢。俺、幸せになります」
叶慧は目を丸くした。
「急に、どうしたんだ」
唐突な言葉に、笑って返す。冗談かと思って目をやった先には、真剣そのものの桂太の顔があって、叶慧は目を瞠った。
「今後、たとえどんなことがあって、どんな結果が訪れたとしても、絶対に幸せだと、一切の後悔はないと、胸を張って言えるような未来を生きてみせます」
言い切った桂太の声に迷いや逡巡は一片たりとも含まれていなかった。
「……そうか」
叶慧は短く言ってほほ笑んだ。
心の中で小さく、ありがとうと呟く。
「だから」
桂太の声が、意識を現実に引き戻す。
「だから、約束してください。お嬢も、幸せになることを諦めないと」
「え……」
思いがけない言葉に、呆けた声が漏れる。
ややあって、叶慧は苦笑を浮かべた。
「なぜ、私まで」
「一番傍にいる方が不幸なままで、自分一人だけ幸せに浸れるような、器用な人間だと思いますか?」
返ってきた言葉に、叶慧は目を丸くする。随分と身勝手な物言いだ。
それなのに、仮にも主に向かってこんなに堂々と言ってのけるとは。
「……ふっ」
気が付くと、笑いがこぼれていた。
口元を手で押さえても止まらなくて、叶慧はひとしきり笑い続けた。
「君は相変わらず、可笑しなことばかり言う」
桂太は目元を緩める。
「とは言え、半分は俺の勝手な願望ですが。……勝手は承知の上です。それでも、お嬢。俺のために、幸せになってくれませんか」
叶慧は桂太を見つめる。
これまた随分と身勝手で、変わった申し出だ。
それなのに、真面目な顔で、真剣な眼差しで言ってくる桂太の顔には、ふざけた要素は一つもなくて。
(痛いところを、ついてくる)
叶慧は口許を緩めた。
おそらく桂太はこれ以上の無理強いはすまい。
叶慧が拒否をしたら、落胆は感じようとも表には出さずに受け入れるだろう。
(……参ったなあ)
苦笑いを零す。
それでもどうしてだが、この真っすぐな目から逃れる気には、どうにもならならないのだ。
「……仕方ない。善処するとしよう」
笑いながら、やれやれといった様子で呟いた言葉に、桂太は目を大きく見張った。
「どうした、君が言い出したことだろう?」
「は……い、それは、そうなんですが」
驚きの表情で返した桂太に、叶慧は笑いかけた。
「君がこれからも、傍にいてくれるんだろう? ……だったら、何とかなりそうな気が、しないでもない」
「……!」
冗談めかして言った言葉に、桂太は力強い笑みを浮かべた。
「はい。お任せください」
「ああ」
叶慧は桂太の目を見る。
まだ少し怖いと呟く声が、いつかなくなればいいと思いながら、桂太の目を見つめる。
「――これからも、よろしくお願いします」
発した声は凛とした響きをもって空気を震わせ、染み入るように消えていった。
――ひっそりと静まり返る灯りのない部屋に、人一人が、腰を落ち着けている。
夜更けとはいえ、夏特有のじっとり肌に吸い付くような暑さは変わらぬというのに、露にも介さずぴんと背筋を伸ばし、広い庭園を見渡していた者の背中に、声をかける者があった。
「――お探ししましたよ」
雪奈様、と小さく零した声に、目線だけを向けた雪奈は、またすぐ庭に目を戻した。
「何用です」
「用がなければ会いにきてはいけませんか?」
「白々しい。用件もなしにわざわざ主の時間を邪魔するほど、無粋でもないでしょう」
「お褒め頂きありがとうございます。……では」
須藤はにこりと笑うと、直立したまま、二言三言だけ、言葉を零した。
雪奈は息を吐く。
「……そうですか。離反者とはいえ身内ということを加味すれば、妥当な扱いといったところでしょう。これ以上何かをしてくるような素振りは見えませんが、不測の事態に備えてあの子の守りは当分、固めておきなさい」
「かしこまりました。……その叶慧様のことですが、先ほどは少々焦りました。まさか雪奈様に限ってあり得たことではないでしょうが、もしや約束をお忘れになったのではないか、と」
「……」
雪奈は無言のまま、反応を示さない。
須藤は頭を下げた。
「明槻君と叶慧様、両名ともが此度の真相を見抜ければ、明槻君の解雇を取りやめるというお約束。守っていただきありがとうございました」
「形だけの礼など不要です。それに一度は本気で約束を反故にしようとしたのは、紛れもない事実ですから」
須藤は軽く目を見張る。
悪びれもせずに言った雪奈は、再び口を開いた。
「叶慧の、あの者に対するいきすぎた執着は好ましくない。……先見の目は良くも悪くも特別です。力に憑りつかれない術は何か、分かりますか」
「……いいえ」
雪奈はほんの少し口許を緩めた。
笑っていても変わらない冷たさを映し出す瞳が、暗がりの中鋭く光る。
「この世の誰にも、心を許さないことです。あの子には、それに耐えうるだけの素質がある」
「……」
「貴方は、叶慧のことを幼い頃から見ていましたね。納得できないと思うなら、今のうちに去りなさい。止めはしませんよ」
「いいえ。……いいえ」
須藤は繰り返し否定する。
やがて顔を上げると、いつものような笑みを浮かべた。
「……私は、貴女だけの付き人です。他の誰にも、従うつもりはありません」
毅然として言った言葉に雪奈は一瞬だけ視線をやると、何事もなかったかのように視線を戻した。
「否が応にも、先見役を担う以上、他者の犠牲を選択する日がやってくる。その時にいちいち心を砕いていては話にならない。……遅かれ早かれ、あの子も思い知る日がくるでしょう」
その言葉を最後に、雪奈は口を閉ざす。
須藤は黙ったまま、主の背中と、夜風に揺れ細やかな音を鳴らす木々を、静かな目で眺めていた。
本作はこれにて一旦、完結とさせていただきます。
ここまで読んでくださった方々、目に止めてくださった方々、本当にありがとうございました。
一人で黙々とパソコンに向かっている時とは違い、読んでくださる方がいることの嬉しさ、励みの多さに驚かされる日々でした。
本作が、皆様の日々のちょっとした娯楽になれていたなら幸いです(^^)




