第7話 後輩 其の四
ナラビカミ【後輩:其の四】
5月28日。
何の因果か俺は走っている。
こんな早朝から必死に汗を流しながら走っている。
ってか、小泉って案外足早いんだな。
運動は苦手なんだと勝手に思っていたが、考えを改めなくてはいけない。
いや、本当は苦手なのかもしれないぞ。
火事場のなんたらで今だけ早くなっているのかもしれないしな。
そんなくだらない考察をしていると、前を走る小泉が振り向く。
「先輩、もうすぐです」
校門を出てから俺や海未の家とは真逆の方向に進み、
小さな林を抜けると、そこには住宅街がある。
この学校の生徒の大半がその住宅街に住んでいると言っていい。
一角には寂れた商店街もあり、申し訳程度に店が存在している。
ここは毎週漫画を買いに来るのでよく知っている道だった。
そのよく知っている道は、今の俺にとっては全く違うものに感じられた。
もうすぐ…もうすぐ着いてしまうのだ。
もし本当に親父さんが暴れてたらどうする?俺で止められるのか?
もし…もしも小泉の母親や弟が……殺されていたら?
ダメだ、ダメだ、ダメだ、考えるな。
その時、俺の足はもつれて盛大に転んでしまった。
「痛っ…」
「先輩…はぁはぁ…大丈夫…ですか?はぁはぁ」
小泉が心配して手を差し伸べてくれる。
俺はその手を握ろうとするが、思うように動かない。
いや、握る事は出来たのだ、だが…握力が全く無い。
全然力が入らないのだ。
「先輩?」
「え、あ、あぁ…すまない」
何故力が入らないのか判らず、俺は混乱する。
そんな俺の手を小泉の手はしっかりと握って起こしてくれた。
だが、今度は足が…いや、膝が笑って再び尻もちをついてしまう。
そうか……俺はびびってるんだ。
なんて事だ、我ながら情けない。
あれだけの啖呵を切っておいてこのザマだ。
俺は震える膝を思いっきり殴り、無理矢理言う事を聞かせようとする。
暴力による強制力は強く、すぐに膝の震えは治まった。
「…先輩?本当に大丈夫ですか?」
「あぁ、すまん、少しびびってるみたいだ」
ゆっくりと立ち上がり、手足の自由を確認する。
大丈夫だ、いける。
「あの…無理に来なくてもいいですよ、私一人でも」
『ダメだっ!』
怒鳴ってしまった後で今が早朝だという事に気づく。
辺りを見渡し、誰かいないかを確認してから小泉の方を向く。
「とにかく行くぞ」
俺は自分の恐怖心を誤魔化すように催促する。
渋々走り出した小泉に着いて行き、ついに俺達は小泉家に着いてしまう。
小泉は震える手で玄関の鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込もうとしている。
しかし、震える手では難しく、少し手間取っていた。
ゆっくりと鍵は回され、ガチャリと鍵の開く音がする。
その音に僅かに肩を震わせ、小泉はドアノブに手をかけたまま止まっていた。
俺が小泉の肩に手を置こうとした瞬間、それは起こった。
突如、家の中から外までハッキリと聞こえる物音が鳴り響く。
まるで何かを叩きつけているかのような激しい物音だ。
小泉は咄嗟に玄関の扉を開け、中へと滑り込んで行った。
俺は震える足を必死に前へ前へと進めて小泉に着いて行く。
くそ、足が重い、小泉との距離をどんどん離される。
まるで自分だけスローモーションになってしまったような感覚が俺を襲う。
これは限界を超えた恐怖心や危機的状況などに起こる、
世界がゆっくりに感じられる"タキサイキア現象"だ。
脳が生存本能により急速に活性化し、
血管の収縮、流れる血液が凝固しやすく変化するなど、
脳がそういった様々な指令を高速で下し、
体内で急速に状態変化が起こっているのである。
そして、命を守る事を優先した脳は、その他の機能を低下させる。
例えば聴覚情報だ。
このスローモーション中、人間の聴覚は著しく低下し、
ほぼ聞こえない状態になる。
そして、視覚情報の低下。
これがスローモーションに感じてしまう原因である。
実際には時は遅くなどなっていないため、誤認なのだ。
空気が重い、水の中にでもいるようだ。
俺の身体にまとわりつき、前へと進む足を身体を妨害してくる。
まるで、その先に行ってはいけないと警告するかのように……。
スローモーションの世界の中でも時は動いている。
ゆっくりに見えているが小泉が走っており、
チラチラと制服のスカートから下着が顔を覗かせている。
俺はそれをまじまじと見ていた。
別に小泉のパンツが見たかった訳じゃない。
いや、少しは見たかったが、今はそれはいい。
この世界では俺の頭は恐ろしい速さで回っているという事だ。
チラチラ見える下着に目を奪われながらも心は落ち着いて行く。
そして、小泉が廊下を曲がるため方向転換を始めた時、
俺の脳は冷静さを取り戻し、現実の時間へと戻される。
バゴンッ!!ドガッ!!
突然、耳に強烈な騒音が入ってくる。
それは廊下の曲がった先からハッキリと聞こえてきていた。
俺が廊下を曲がろうとした時、耳を塞ぎたくなるような声が響く。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!』
声の主は大人の男性、おそらく小泉の新しい父親である俊夫さんだ。
その声は一言で言うならば……狂気のそれだった。
俺は曲がり角でそれを聞き、驚きと恐怖で足を滑らせる。
そのまま廊下の壁へと激突し、軽く頭を打った。
軽く揺れる視界で俊夫さんを捉え、
その手に持つ椅子が目に入る……彼はそれを叩きつけていた。
その先には扉がある。
家の構造から考えるにトイレか風呂場だろうか。
俊夫さんの目からは正気というものが感じられない。
目は血走り、指の間から血を流し、一心不乱に椅子を叩きつけている。
それを見た俺と小泉は恐怖から足を止めていた。
椅子が叩きつけられる激しい音の合間に、僅かに何かが聞こえた気がした。
俺たちは耳をすませ、その音を拾う。
…………なさい……ごめ……さい…うっ……うぅ……。
『うーちゃんっ!!』
小泉が叫び、走り出す。
俺には意味が分からなかったが、彼女を行かせる訳にもいかない。
手には嫌な汗をかき、キリキリと胃が痛む。
だが、俺は前へ進まなければいけない、小泉を行かせてはいけない。
1歩。
1歩だ、たった1歩踏み出しただけで俺は転んだ。
全く想像していなかった俺はもろに顔面に打ち、鼻血が吹き出る。
だが、俺にはこれが救いだった。
痛みによる強制力、俺の膝は落ち着きを取り戻し、
即座に立ち上がり、小泉の後を追う。
彼女が俊夫さんに辿り着くギリギリのところで、
俺の手は彼女の肩を掴み、後ろへと投げ捨てる。
そして、俺はそのまま俊夫さんへと突っ込んでいった。
『うわああああああああああああああっ!!!』
無意識に叫び、俺は自身を奮い立たせる。
肩から俊夫さんの腹部へと体当たりを食らわし、そのまま壁に叩きつける。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!』
俊夫さんは叫び、暴れ狂う。
手に持つ椅子は投げ捨てられ、俺の肩を、背中を掻き毟る。
「痛っ……ったくねぇええええ!!!』
俺は自身に嘘をつき、この仮初めの勇気を維持した。
幸いな事に、俊夫さんの背格好は俺より随分と小さい。
俺自身が大柄な事もあるが、力勝負なら引けは取らなかった。
俊夫さんの胴体に抱きついたまま彼を押し倒し、
腹部に跨るようにし、両腕を押さえつける。
彼は足をジタバタとし暴れ狂っているが、
この体勢の俺にはなんらダメージはない……いけるっ!
絶対に離すまいと手に力を込め、俊夫さんを押さえつけた。
すると、彼は噛み付こうとしてくる。
それは予想しておらず、正直びびったが、何とか避ける事が出来た。
それからは顔は近づけず、腕は大きく開いたまま押さえつけ、
噛まれないよう細心の注意を払いながら叫ぶ。
『小泉!警察!警察呼んでくれっ!!』
「で、でも、うーちゃんが」
『いいから早く!!』
「は、はいっ」
小泉は居間にある電話へと向かい、俺はそれを横目で確認する。
彼女の姿が見えなくなったところで、目の前の存在、俊夫さんを見た。
その目は俺を捉えておらず、ひたすら叫んでいる。
涎を垂らし、鼻水を垂らし、噛み付こうとする度にガチガチと歯を鳴らす。
その姿はまるで…獣だった。
彼の様子をじっと見つめ、歯に気をつけながら距離をとる。
俺は少しずつ冷静になってきたんだ。
じわじわと内から恐怖が湧き上がり、握る腕に再び力を込めた。
・・・・・
・・・
・
どのくらいの時間そうしていただろうか。
俺の筋肉はプルプルと震え、何度も限界だと思った。
でも恐怖心がそれを許してはくれず、俺は腕に力を込め続ける。
警察に電話をしに行ったはずの小泉がなかなか戻らず、
若干の苛立ちを覚えた頃、やっと彼女が姿を現した。
その姿に俺の背筋はゾッとする。
彼女の両手は、制服は血に染まっていた。
顔にも血がついているが、それは汚れた両手で涙を拭いたせいだろう。
「こ、小泉…」
「お母さんが…お母さんが……っ」
彼女の血で汚れた顔が涙で少し洗い流される。
赤く染まった涙はポタポタと流れ落ち、廊下を汚していた。
泣いてばかりで言葉が出てこない小泉に俺は聞く。
「小泉……救急車、そうだ、救急車は呼んだのか?」
それよりも警察は呼んだのかと聞くべきなんだろう。
でも、この時の俺はその余裕が無かった。
「はい……警察と…救急車はさっき…電話しました」
ぐすっと鼻をすすりながら彼女は俺が聞きたかった答えを全てくれる。
グッジョブだ、小泉。
「なら小泉、そこの中にいる子を」
『うーちゃんっ!』
言われて気づいたのか、慌てて扉へと向かい、
ドアノブをガチャガチャと回しながら、中へと声をかける。
「うーちゃん、ツクちゃんだよ、開けて」
中からは幼い男の子のくぐもった声がする。
「…ツクおねえちゃん?もう大丈夫…なの?」
「うん、大丈夫だよ、うーちゃん開けて」
後で聞いた話だが、このうーちゃんというのは小泉の弟で、
名前は宇月というらしい。
「待ってくれ、開けるのはいいが、小泉、お前もその中にいてくれないか」
俺はそう言いながらも俊夫さんを押さえつける手に力を込める。
もう筋肉が切れそうなくらい限界なのだ。
いつ拘束が破られるか分かったもんじゃない。
「え、でも先輩…」
「頼む、そろそろ限界なんだ」
だが、俺の願いは聞き届けられなかった。
小泉は両手で俊夫さんの片腕を押さえ、背後にある扉に声をかける。
「うーちゃん、もう少しだけそこにいて、すぐ大丈夫になるから」
「……うん」
そして、俺の目を見て小泉は言う。
「先輩、片腕は任せてください」
「いや、結構力強いぞ?」
「大丈夫です、わたしだってこのくらい」
そう言って小泉は体重をかけ、腕を拘束した。
「わかった…放すぞ?」
「はい」
俺はゆっくりと片腕を放し、両手でもう片方の腕を拘束する。
軽く体重をかけられるようになり、さっきまでよりだいぶ楽になった。
長かった、とても長かった。
顔が痒くなっても掻くことも出来ず、
額から流れる汗が目に入っても拭う事すら出来ず、
俺たちは必死に彼を押さえつけていた。
それから二人で警察が到着するまで無言で俊夫さんを拘束していた。
・・・・・
・・・
・
パトカーのサイレンが聞こえ、一瞬だが気が緩む。
その瞬間俊夫さんが暴れるが、即座に力を込め、それを抑えつけた。
ついに、長い長い朝は終わりを告げ、俺たちは開放される。
警察のご到着だ、ちょっと遅すぎやしませんかね、と文句を言いたいが、
警察が見えた瞬間の安堵感はすごいものだった。
トイレに篭っていた小泉の弟、宇月くんも開放され、
居間で血を流して倒れていた母親も救急隊は大丈夫と言っていた。
悪夢は終わった……終わったんだ。