第1話【その時】
【その時・・】
電車はトンネルをぬけて、大阪の街全体を見下ろしながら長い下りの坂をゆっくりと走っていた。
朝の通勤時間帯。
この電車の前にも、満員の電車が走っていて、ちょっとした交通渋滞を線路上でおこしてる。
だから窓の外の風景もゆっくりかわっていく。
私は気持ちに余裕がある時はこんな風景の移り変わりが大好きだ。
その日は天気もよく、遠くまで続く青空の下に白っぽいビルたちが大きさを争っているかのように乱立している市内がはっきりと見えた。
大阪にしては珍しく、もしかすると海までもが見えそうな気配を感じるほど空気が澄み切っていた。
そんな風景を今でもはっきり思い出すのは、ぎゅうぎゅうの満員電車が嫌いな私は、いつも通りの1本早い各駅の電車に乗り、ドアを背もたれがわりにして立っていたから。
今となってはそれが何月の何日であったかは思い出せないけど、夏から秋になる頃だったと思う。
思い出される青空がそんな青空だから。
いつもとかわらない電車・・
いつもとかわらない時間・・
いつもとかわらない風景・・
なんら私のまわりは変わっていなかった。
なのに、私の前を何者かがかけぬけて行ったかのようにそれが頭をよぎった。
その瞬間、急に私の目にいつ溢れてもおかしくないほどの涙が溜まり、それを留めるために息をこらしている呼吸が苦しかった。
少し乾いた唇を開けてそこから空気をいっぱい吸い込み、そして静かに吐いていく・・
呼吸なるものを意識したことなんてなかったが、今はそれが自分には必要だと感じた。
吸って・・
吐いて・・
大きくな深呼吸はできない。
だから1回、1回をすごく意識して、呼吸を調整した。
それは周りにいる人に「私」という存在を特別に気にして貰いたくなかったから。
自分でも恐かった。
今私の近くに私の心の中を見れる人がいたら・・・。
考えたらちょっとぞっとした。
こんなにも普通の顔のまま、すごいことを心の中で考えてる私に自分でも驚いていた。
そして偽善者のように、どきどきする心をあやすかのような優しい声でそっと自分に問いかけてみる。
なぜ、今なの?
なぜ、その答えなの?
なぜ、それを幸せと感じるの?
こんな「なぜ」に対する答えを、私自身が用意してるわけもないので、「なぜ」がおもちゃのボールのように音もなく、心の中を行ったり来たりしてた。
この言葉がよぎった瞬間の気持ちを言い換えると、まるで、ややっこしい数学の問題にぶち当たって、自分の知っている中で一番難しい方程式を使ってその問題を解こうとしたけど、行き詰まり、投げ出した。それが、ある日ふっとしたことで簡単に答えを見いだしていた。
そんな感じだった。
「離婚」を決めた瞬間だった。
その日の朝、私はいつも通りに起きて、主人を起こし、娘を起こして朝ご飯を一緒に食べた。
特に主人の好きな物を作りもしなかったが、嫌々作った記憶もない。
ただ、小さい娘が食べやすいものをと思って用意したにすぎなかった。
7時を過ぎたころ、玄関で先に出勤する主人を見送った。
娘は小さい手を一生懸命ふって見送った。
主人は自分こそ幸せな人間の代表選手であるかのように胸を張って、笑みを浮かべて娘と私に手をふって角を曲がった。
私は食事の後かたづけをし、娘の小さい口の歯磨きをして、保育園へ娘を送った。
ホントに、いつものことを、いつものようにしただけの朝だった。
人生ってこんな風に答えをみつけるものなのだろうか。
いとも簡単に・・
いとも自然に・・
この瞬間、私は自分の人生に大きな節目をつける決心をしたのだった。
主人が憎いわけではない。
嫌いなわけではないが、答えはもうそれしかない・・という確信すらあった。
人様から見れば、その時の私は十分に幸せに見えるはずであった。
何不自由なく暮らせる生活は、なにごとにも代え難いものであることを私自身も十分に知っていた。
でも、だめなのである。
今のままでは絶対に私は幸せになれないのである。
自分の人生を間違ったまま進んでいくような感じが心の奥底でしていた。
電車はゆっくりと坂道を降りきって、大阪の市内へと入って行った。
心臓の鼓動は少しはやく打っていたし、目の前の風景はどんどん変わっているのに私の目にはまだ坂の上から見下ろすように見えたあの大阪市内の街がはっきりと残っていた。