第1話:嵐の夜
風雨が吹き荒ぶ嵐の晩、招かれた館の入り口を潜り抜けながら、霧江冬は溜息を一つ落とした。
濡れそぼったコートを脱ぐと、控えていた使用人が恭しくそれを受け取り、無駄のない所作で奥へと下がっていく。
多くを語らず先へと促され、冬も黙して頷きを返した。
よく手入れこそされているが豪奢とは呼べず、数もまばらな調度品を横目にし、床板を踏む。
生活感の希薄な館だ。人の匂いがしない。一歩進むごと、何も感じないことを感じつつ、冬はまた溜息を吐いた。
嫌な予感がしている。面倒事の気配と言い換えてもいい。
僻地の館に呼び出され、しかも人目につかぬよう来て欲しいと注文された。この時点で怪しさは拭えない。
厄介な何かに関わるだろうと分かるからこそ、無意識に溜息がこぼれる。
それでも自ら足を向けたのは、呼び出し人の名前に覚えがあったからだ。本人なのか、それとも騙りなのかは判然としない。
ただ悪戯として無視できない程度には、その名前に思う所がある。警鐘を鳴らす自分がいる一方で、強く興味もそそられた。
結局、胸の中に重しを抱えたまま、自分の選択で此処へ来てしまった。
最後に自嘲的な笑みを口元へ刷き、冬は正面の扉を開く。
「このような嵐の中、わざわざ出向いてもらいすまなかったな」
押し開けた扉の先で、一つの部屋へ足を入れた時、鈴音のように澄んだ声が飛んできた。
冬の視線は声の主へ吸い寄せられる。室内に立つ、凛々しい女性へと。
年齢は20代後半、身長は160cm程度。ほどよく日に焼けた肌を持ち、栗色の髪を首筋まで及ばせていた。
瞳が赤く、双眸の目尻はつり上がる。涼しげな眼差しに意志の強さが窺えた。
品良く並んだ眉と長く生え揃った睫毛、整った鼻梁に引き結ばれた桜色の唇。顔貌は美しくも、毅然とした精悍さが宿る。
身に着けているのは修道服を思わせる白が基調とされた長衣、その上から首元より伸ばされる真紅の前垂れだ。
足には脛まで覆う黒く艶めくレザーブーツが履かれていた。
「いえ、かまいません。それよりも本当に四啓将軍からの呼び出しだったことへ驚いています」
冬は目の前の女性、西葛勇魚をまじまじと見やる。
日本統制帝国に於いて皇帝と宰相に次ぐ最高位権威者。
軍事国家の要として兵権を統括する四名が一角。
個人戦力としても帝国最強格と呼び声高い一騎当千の実力者。
帝国建国に深く関わった名家の血統。
強力無比な啓示を誇り、心技体全てに秀でた生え抜きのエリート。
それが四啓将軍であり、彼女が頂く官位でもある。
一介の軍人が面と向かって語らうなど本来ならありえない、雲の上の存在だ。
冬が遥か上官への礼儀も忘れ、思わず不躾な視線を送ってしまうのも無理からぬことだろう。半信半疑だったからこそ余計に。
「ふふ、四啓将軍の名を騙る不届き者が待っていると思ったか」
「ええ、まぁ、正直に言いまして。誰かにからかわれているだろうなとは」
唖然と驚嘆の混同している冬の目を真っ向受け止め、勇魚は微かに口の端を吊る。
不快感や怒りは彼女の顔に微塵もない。寧ろ少し愉快そうな毛色があった。
「確かに異例なことだ。疑う気持ちも分かるな」
「結果としては真実だったわけですが」
「しかし貴君は訝しみつつも此処へ来てくれた。そのことには感謝している」
「将軍がそのような……勿体ない御言葉です」
凛然とした面差しを浅く緩ませ、勇魚は微笑を浮かせる。
鋼めいた雰囲気が僅かなりとも和らぐ姿を見て、冬は咄嗟に頭を下げた。
かつて遠く窺い得た柔和の様が、記憶の奥から鮮明に甦る。自分の顔が締まりを忘れることを恐れ、表情を隠す必要があった。




