第1話 三百億円
バスが地下へ入り始めてから、真鍋理人は三度目の耳抜きをした。
窓の外には景色がない。コンクリートの壁に埋め込まれた白い照明が一定間隔で後方へ流れ、たまに壁面の継ぎ目が黒い線となって横切るだけだった。
ずいぶん下りている。
勾配は緩い。それでも五分以上続けば話は別だ。
理人は座席に背中を預けながら、エンジン音とは別に床下から伝わる低い振動を足裏で拾っていた。舗装路というより、もともと作業車両を通すために造られた坑道に近い。壁の湿気も気になった。
隣の席には誰もいない。
応募者同士の会話は禁止されていなかったが、車内で積極的に声を出す者はいなかった。
前方に座っている大柄な男が一度だけ咳をした。
それだけで、静けさが少し形を持った。
二十四人。
応募総数は知らされていない。
理人が知っているのは、自分がその二十四人に選ばれたことと、ゲームを最後まで突破すれば九条玄蔵の遺産を手にする権利が得られることだけだ。
三百億円。
数字として見ると現実感がなかった。
三億でも同じだったかもしれない。
三千万になると少し違う。家がいくらで、残っている債務がいくらで、父が最後まで手放さなかった機械を買い戻すならどれくらい必要なのか、途端に頭の中で引き算が始まる。
三百億になると、また分からなくなる。
人間が生活の中で扱う金額ではない。
だからこそ応募できたのかもしれなかった。
バスが止まった。
ドアが開く前に天井灯が青から白へ変わる。
冷えた空気が入ってきた。湿った石と油、それに新品の樹脂が混ざったような匂いがする。古い場所へ新しい設備だけを押し込んだ時にする匂いだと、理人は思った。
「降車してください」
女性とも男性とも判別しづらい合成音声だった。
一人ずつ立ち上がる。
理人の少し前で、五十代くらいの大男が通路を塞いだ。
「お先に」
後ろの小柄な女性へ身体をずらしたのだ。
女性は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
大男は返事をせず先に降りた。
階段の横で、若い男が肩を回している。
「思ったより寒いな。もっとこう、金持ちの地下室って暖房効いてるもんじゃないの」
誰に言うでもなく呟いた声に、何人かが振り向いた。
「地下だからでは」
別の男が答えた。
姿勢がいい。四十前後だろうか。灰色のジャケットに皺がなく、こんな場所でも襟元が整っている。
若い男が笑う。
「それ、分かってますって」
「なら結構です」
冗談を返す気はないらしい。
二人の間を抜けながら、理人は胸に貼られた名札を見た。
若い方が柏木晴斗。
もう一人が二階堂隆雅。
覚えるつもりはなかったのに頭に残った。
案内された先は円形の大空間だった。
天井は高い。
元からこの形だったとは思えないほど壁面は滑らかで、黒い鋼板が十二枚、円周に沿って並んでいる。それぞれの中央に閉じた扉があり、床は灰色の樹脂で覆われていた。
空調の風が上から静かに落ちている。
温度は十八度前後。湿度は高いが肌寒く、照明は白すぎるほど白かった。影が薄いため、人の顔だけが妙に平面的に見える。
中央には二十四脚の椅子。
そして一方の壁に、巨大な黒いスクリーン。
「席、決まってるみたいですよ」
すぐ横から声を掛けられた。
振り向くと、三十代くらいの女性が床を指していた。
理人の足元に、
《MANABE RIHITO》
と表示されている。
「本当だ」
「気づかなかったんですか」
「床より壁を見てました」
「壁?」
女性もつられて見上げた。
「何かあります?」
「いや。新しい設備だなと思って」
一瞬だけ間があり、女性の目が理人の指へ落ちた。
爪の横に薄い油汚れが残っていた。
洗ってきたつもりだったのだが。
「そういう仕事ですか」
「設備点検です」
「なるほど」
女性は自分の席を探しながら言った。
「私は有川汐里です」
「真鍋理人です」
「書いてあります」
床を見られた。
理人は少し口を閉じる。
汐里の口元がわずかに緩んだ。
その向こうでは、先ほどの大柄な男が椅子を引いている。
名札は荒巻泰造。
椅子の脚が床の溝に引っ掛かると、荒巻は腰をかがめて溝を覗き込んだ。無理に引くのではなく一度浮かせてから動かす。
現場の人間だ。
反対側では細身の男が壁面の継ぎ目を見ていた。
鶴巻信也。
他の参加者が中央のスクリーンを気にしている中で、彼だけが天井の監視装置と扉の上部を順番に見ている。
理人と視線が合った。
鶴巻はすぐに逸らした。
全員が席につくまで三分ほどかかった。
二十四人。
老若男女と呼ぶには少し年齢層が偏っている。二十代から五十代までで、老人はいない。極端に身体の弱そうな人間も見当たらなかった。
選考基準がある。
そう考えたところで、スクリーンが点灯した。
老人が映った。
九条玄蔵。
テレビや雑誌で何度も見た顔だった。
実物より少し痩せているように見える。頬が落ち、皮膚の薄くなった首元がシャツから覗いていたが、目だけは映像の解像度とは別のところで妙に鮮明だった。
「ようこそ」
ざわめきは起こらなかった。
玄蔵は二十四人を見ているようで、実際にはどこを見ているのか分からない。
「君たちがここへ来た理由を、私は聞かない」
右側の席で誰かが鼻を鳴らした。
玄蔵は続けた。
「借金でもいい。家族でもいい。復讐でも、ただ金持ちになりたいだけでも構わない。金を欲しがることを恥じる必要はない。私もそうだった」
背後に金庫の映像が出た。
巨大な円形扉だった。
人間の背丈の三倍ほどある。
中央に《LAST VAULT》の文字。
その下に、
《¥30,000,000,000》
と表示された。
椅子が軋んだ。
誰かが身体を前へ出したのだ。
理人も数字を追った。
ゼロを確認する。
一度数えて、それでも足りない気がしてもう一度数えた。
三百億円。
「その金庫は、この施設の最深部にある」
玄蔵が言った。
「到達した者には、私の遺産を相続する権利を与える」
二階堂が手を上げた。
「到達者が複数の場合は」
玄蔵の口元が少し動いた。
「その質問への答えは、まだ君には必要ない」
「一人とは限らない、と」
「私は一人だとは言っていない」
二階堂はそれ以上聞かなかった。
理人は老人の顔を見た。
言葉の選び方が妙に引っ掛かった。
だが考える前に別の声が上がった。
「死人は出ますか」
荒巻だった。
部屋の空気が一段下がったように感じた。
玄蔵はすぐに答えた。
「可能性はある」
誰かが息を呑んだ。
「殺す気があるかって聞いてんだ」
「ない」
玄蔵は間を置かなかった。
荒巻の眉が動く。
「ただし、私が君たちの安全を保証する気もない」
沈黙が戻った。
嘘なのか。
理人は老人の目を見た。
映像越しでは何も分からない。
玄蔵の背後に別の表示が出た。
《BREAKER》
《MAKER》
「ここから先、君たちは二種類の役割を経験する」
BREAKER。
罠を突破し、先へ進む者。
MAKER。
ゲームの条件を決める者。
説明は短かった。
「条件?」
柏木が口にした。
「罠を作るってことですか」
玄蔵は首を横に振った。
「違う」
その一言だけが妙に明瞭だった。
「MAKERが決めるのは、人間が生き残るための条件だ。罠を作るのは、この施設だ」
理人の背中に冷たいものが触れた。
空調の風だと分かっている。
それでも肩を動かした。
「役割は固定ではない。次にBREAKする者が、その次にはMAKEすることもある」
汐里が小さく息を吐いた。
「つまり……」
理人は言葉の続きを待った。
汐里はスクリーンから目を離さない。
「自分が通った後で、他の人の条件を決めることもあるってことですよね」
「そういうことだろうな」
「嫌な仕組み」
声は平坦だった。
だが膝の上で重ねられた指先に少し力が入っていた。
玄蔵が最後に言った。
「覚えておいてほしい。私はゲームのルールについて嘘をつかない」
理人は顔を上げる。
「ただし、君たちが聞かなかったことまで説明する義務もない」
スクリーンが暗転した。
代わりに床の表示が変わる。
二十四人の名前。
そこから六人が青く染まった。
《MAKER》
二階堂隆雅。
鶴巻信也。
志摩由良。
八田周平。
柚原茉莉。
仁科昂平。
残る十八人。
《BREAKER》
理人の名前もそちらにある。
隣では汐里が自分の表示を見ていた。
同じBREAKERSだった。
円形壁のうち六枚が静かに開き始めた。
その向こうに細長い通路。
同時にMAKERの六人の席だけが床ごと沈んでいく。
柏木が声を上げた。
「ちょ、どこ行くんだよ」
二階堂は沈みながら彼を見上げた。
「役割を果たしに行くんでしょう」
鶴巻だけは返事をしなかった。
彼は最後まで、開いた通路ではなく壁の奥を見ていた。
やがて六人の姿が消える。
BREAKERSの正面に文字が浮かんだ。
《AREA 01》
《MARGIN》
その下。
《MAKER DECISION IN PROGRESS》
数秒後、表示が切り替わった。
文字はたった二語だった。
《DECISION ACCEPTED》




