107/120
ep76.侵入者
コーヒーの湯気が、横に流れた。
風じゃない。
空間そのものが、押された。
久我が顔を上げる。
「……来るぞ」
裏世界の空に、黒い亀裂。
細い線。
それが、縦に裂ける。
音はない。
でも、世界が悲鳴をあげている。
バキ、と。
境界が破れた。
咲の管理下。
その膜を、力任せに。
次の瞬間。
黒が落ちてくる。
霧じゃない。
影でもない。
質量。
塊。
都市の怨嗟。
数百万の“飢え”。
暴食。
完全体。
一切削れていない。
未分割。
未侵食。
圧だけで膝が折れそうになる。
美波が呼吸を失う。
「……でかすぎる」
零の瞳が凍る。
「……本物」
魅魅の笑みが消える。
「冗談でしょ」
春の腹が、鳴る。
空腹じゃない。
本能の警報。
“喰われる側だ”
そう理解する。
今の春は王じゃない。
捕食対象だ。
暴食が、ゆっくりとこちらを見る。
目はない。
でも確実に見ている。
その中心で、
巨大な口が、開く。
都市の残骸が吸い込まれる。
裏世界の黒が、悲鳴もなく飲み込まれる。
咲の声が鏡の奥から響く。
「……あーあ」
少し楽しそうに。
「管理、崩れちゃった」
暴食が、一歩踏み出す。
地面が消える。
存在が削れる。
空間が欠ける。
これは戦いじゃない。
災害。
春は立っている。
だが、理解する。
今ぶつかれば、死ぬ。
零も。
魅魅も。
全員。
暴食が、息を吸う。
それだけで、
世界が引き寄せられる。
甘い朝は、
完全に終わった。




