2.もう存在しない指(6)
父はうなだれ、母は両手で顔を覆って啜り泣いた。
猫は僕の足に首の後ろを擦りつけて気持ち良さそうにしていた。
こうして僕とカツの人生は分岐した。
一ヶ月ほどして、僕らは今住んでいるアパートに移った。
1DKに大人四人の生活の始まり。
猫は若菜の家に貰われた。
父の借金はだいたいメルセデスの新車くらい残っていた。
春が来て、僕はどうにかすべりどめの私立大学に合格し、進学した。
カツはプレス工場に就職した。
彼はそこを自分で見つけてきた。
弁護士をしている若菜の父親――僕らが健オジと呼ぶ人がそれを知って、もっと良いところを世話すると言ってきた。
申し出を受けた方がいいんじゃないか、と僕が言うと、カツはブルブルと首を振った。
「そんなことになったら、若菜はきっとお姫様気取りで、おれたちを下僕扱いするぜ」
「それって今と変わらない」と僕は答えた。
しかし、カツは健オジの話を断った。
プレス工を選んだ。
どうやらカツはネクタイを締めたくないという理由だけで断ったらしい。
初出勤の朝、彼はアロハシャツにジーンズにスニーカーという恰好で、口笛を吹いて出ていった。
カツは一年中アロハシャツを着ている。
ハワイに義理でもあるかのように、真冬でもジャンパーの下はアロハだ。
さすがに今のアパートに引っ越して以来、そうそう新しいのを買うわけにはいかなくなった。
それでも、買いためたぶんだけで、ひと月近くはとっかえひっかえ毎日ちがうのを着られる。
アロハはカツのトレードマークだった。
おかげで僕はアロハを着られない。
「おまえは非Aなんだよ」とカツが言う。
ヴァン・ヴォークトじゃない。
一般意味論協会でもない。
AはアロハのAだそうだ。
人は僕らをAか非Aかで区別しているらしい。
両親ですら例外ではなかった。
もっとも、カツが人指し指を失ってからはだれもまちがえなくなった。
カツが「兄弟の区別がつく」と言った通りだった。
みんな、まず僕らの右手を見る。
指の五本ある方が弟で、一本足りない方が兄。
それはカツの引け目で、僕の負い目だ。
僕らの選択はまちがってなかったと今でも断言できるが、そのために失ったものもたしかにあるのだ。
ときどき考える。
あのとき、もし、僕がジャンケンに負けていたら――。
あれこれ想像してみるが答えなんか出ない。
ただ、僕ならきっと健オジに仕事を世話してもらっていただろう。
そこがどんなに気色悪い職場でも、指を失くすことだけはなかったはずだ。
◆
僕はカバンから教科書やノートを出して、自分の整理ボックスにしまった。
部屋の隅に、プラスチックのボックスを四つ積んである。
家族それぞれの私物を入れておくためのものだ。
僕ら家族にとって、その箱だけが唯一のプライヴェート空間。
かつて兄弟それぞれに与えられていた個室も、いまや幅四十三センチ×奥行六十六センチ×高さ二十三センチにまで縮小したわけだ。
整理ボックスから「こづかい帳」と表紙に書いたノートを出した。
今月のページを開き、支出の欄に「烏龍茶一五〇円」と記入する。
バイトの給料日まで残額八千五百二十七円なり。
まあ、だいたい平均ペースだった。
「おふくろには言うなよ」
カツは本から顔も上げずに言った。
「耳のこと?」
「また寝込んじまう」
「またって、カツ、最初に寝込ませたのはおまえだろ」
カツはうつぶせたまま、四本指の手をひらひら振ってみせた。
「馬鹿だな」
僕は吐き棄てるように言った。
自分が責められているような気がして、腹が立った。




