2.もう存在しない指(1)
大学を出たのは二時間目が終わる寸前だった。
若菜を家に送り届けてアパートに戻ってもまだ二時前だった。
玄関の鍵が開いていた。
玄関にはかかとの潰れた汚いスニーカーが転がっていた。
双子の兄は六畳間の窓を全開にし、窓枠に尻を乗せて黒い表紙のハードカバーを読んでいた。
その薄汚れ方は、僕が大学の図書館から借りてきた、ジャック・ラカン『エクリ』の第二巻だった。
「なんだよ、妙に早えじゃん」
カツは本から顔も上げずに言った。
「そっちこそ仕事はどうしたの?」
「釜が壊れて早仕舞い」
「え?」
僕は冷蔵庫を開けて麦茶のポットを出した。
「飲む?」
「半休取らされた」
カツは麦茶には首を振ったが、本を閉じると台所へやってきて、扇風機の前にしゃがみ込んだ。
強風に合わせてスイッチを入れ、赤地にオウムのアロハシャツの前を開けて、胸に風を受けた。
「暇な時期なんだよ」
眼を合わせようとしないのが気になる。
カツが半休を取るなんて初めてだ。
暇な時期?
昨晩は十時過ぎに帰ってきて、残業だと言っていた。
酔っていたからずっと働いていたわけじゃない。
仕事のあとだれかに奢ってもらったらしい。
それにしたって七時くらいまでは働いていたんだろう。
昨日残業させておきながら今日は半休なんて変だ。
しかし、追求はしなかった。
話す必要のあることならカツは訊かなくても話す。
「それで、おまえの方は授業さぼったのかよ?」
つっかかるような言い方は、いつものカツだった。
「若菜が階段から突き落とされて、足を挫いちゃってさ。家まで送ってきたところだよ」
「突き落とされたあ?」
「と、若菜は言ってる」
「ああ、いつもの思い込みか。馬鹿じゃねえの、あいつ」
「それはどうかな」
「馬鹿だよ、ありゃ」
「いや、そうじゃなくてさ。思い込みって方。
もしかしたら本当に突き落とされたのかもしれない。
実はさ――」
僕は耳の一件を打ち明けた。
カツは興味無さそうに聞いていた。
説明を聞き終えると扇風機のカバーに額を擦りつけてなにか言った。
壊れかけた扇風機のモーター音と風にまぎれて、なにを言ったか聞き取れなかった。
「オニギリ屋のある風俗店って言った?」
「ニューギニアのある部族では、って言ったんだよ、ニューギニアな」
「そのニューギニアがどうしたのさ?」
「うん。ニューギニアのある部族では自分の身体を使って数を数えるんだ。その部族では右耳は九を表すんだったかな」
「それで?」
「それだけ。知ってることを言ってみただけ」
僕は肩をすくめた。
やはり、カツはいつものカツかもしれない。
とっ散らかった頭から、なんの脈絡もなくことばが出てくる。
「あの耳が九を表していたのだとすると、九人目とか九日とかそういうことを意味しているのかな」
「関係なんてねえよ。
おれが言わなきゃ、九と耳の間に関係があるなんて知らなかったろ?
ニューギニアに親戚がいたって普通知らねえよ、そんなこと。
九だってことを知らせたいなら、ほかにもっとわかりやすいもんがあるはずだし」
僕はコップに二杯目の麦茶を注いで、ちびちびなめるように飲んだ。
カツは扇風機の前に腹這いに寝そべり、また本を開いた。




