1.袋の中の耳(14)
「どうだって……?」
「耳を切ってくれなんて頼むやつがいるわけないし、とすれば、これは無理矢理切られたんだよ。
――麻酔もなしに。
あるいは、麻酔のいらない状態になってからね。
どちらにしてもとんでもない話だよ。
警察が出ていかなけりゃ解決しない話だ」
「殺されてるってことですか」
「わからないよ。そう、判断は保留だ。
でも、この耳の持ち主がまだ生きているなら、早く保護しなくちゃ駄目だ。
今は生きているとしても、それは今だけの話ってことになるだろう。
だって、そうだろう。
耳だけ切って解放する?
子どもじゃないんだぜ。
自分の耳を切ったのはどんなやつで、どこに住んでいるか、訴え出るに決まってる。
耳を切ったってことは、殺すつもりか、一生監禁するつもりか、そのどちらかだからな」
僕は黙っていた縹刑事を見た。
「こいつの言ってることは最悪の場合です。
そんな悪い事態になると決まってるわけではありません。
しかし、紙袋に耳を入れてサークル室に置いておくというのは、どう考えてもまともではない。
最悪の可能性はけして低くありません」
縹刑事は僕の眼を見つめ返して、まるで日本語のよくわからない相手に話すように、一つ一つのことばをはっきりと、そしてゆっくりと喋った。
「今できることはとりあえず、被害者の可能性のある人間をひとりずつ消していくことだけだ。
もちろん、耳はこのサークルの人間のものではないかもしれない。
でも、できることしかできないんだよ、僕らには。
だから、名簿を出してくれないかな。
実は結構急いでいるんだ。
状況は僕らがこうしてのんびりしている間に悪くなっているかもしれないからね。
正直な話、君が名簿を提出したせいでサークルを除名されようと、そんなことどうでもいいことなんだな。
くだらない問題だよ、そんなことは。
君がぐずぐずしてる間に、彼女は右耳以外のものまで失うかもしれない。
そっちの責任は君にとれるのか」
これは脅迫だった。
しかし、反抗するのも愚かだった。
たしかに除名なんて大した問題ではない。
サークルを追い出されても大学に友だちがひとりもいなくなるわけじゃない。
僕は机の下に頭を突っ込み、ベンチの下の段ボール箱からノートを取り出した。
そして、メンバーの連絡先が書いてある最初の数ページを破り取り、村上刑事の前に置いた。
「ありがとう」
村上刑事は笑って言った。
そういえば、彼はずっと笑っていた。
「ご協力感謝します」と、縹刑事は頭を下げた。
「じゃあ、僕は戻ります。一軒ずつ電話であたりますから。
この人数だったら、一時間くらいですむでしょう。
縹さんは残りますか」
「うん。ここで会員の人たちが来るのを待つよ。
ひと通り話を聞いてからだな、署に帰るのは。
電話、手の空いている者に手伝ってもらえよ」
「ええ、そうします」
村上刑事は立ち上がった。
そして、積んであった『モンキービジネス』を一枚取った。
「これ一部もらうよ。面白そうだ。いくらなの?」
「フリーペーパーですから」
村上刑事は「ふうん」と言いながら、サークル室を出ていった。
「あなたももう結構です」と縹刑事が言った。
僕も『モンキービジネス』を一部抜いてカバンに入れた。
そして、サークル室を出た。
ドアを閉めるとき、開けた窓枠にもたれて外を眺めている縹刑事が見えた。
◆
駅までのそう長くもない道を行く間に、若菜がぐずるので、三度も休まなければならなかった。
三度目は、商店街の間に無理矢理はめ込んだような児童公園で、日陰のベンチを探して腰を下ろした。
「のど渇いた」と若菜が言った。
「子どもみたいだな」と言いながらも、僕は近くの自動販売機でペットボトルの烏龍茶を買って、彼女に渡した。
家に帰ったら、こづかい帳の支出欄に「烏龍茶、一五〇円、ただし若菜用」と書こう。
若菜は眼を閉じ、白く細いのどを見せて、烏龍茶を飲んだ。
意識を失ってしまったのかと不安になるほど、長いひと口だった。
ペットボトルから口唇を離し、大きく息を吐くと、まだ三分の二は残っている烏龍茶を僕の前に突き出した。
僕は受け取って口をつけた。
冷たく微かに甘い液体がのどを流れていく。
その心地よさにいつまでも僕は飲み続けた。
ずっとのどが渇いていたとはじめて気づいた。
頭上の葉と葉の間に透かし見る空は、昨日の空のように、あるいは明日の空のように青かった。
これは本当に今日の空なのか。
今日という時間は、烏龍茶がのどを通って身体のどこか空虚な部分へと消えていくように、この世の外へとこぼれてしまい、今ここには作り物の時間が残っているようだった。
若菜は最後の一本をくわえると、メンソール煙草の箱を両手でねじり潰した。
「ほら」
彼女は火をつけた煙草を挟んだ指で地面を指した。
「ヨットみたい」
蟻が行列を作って、蝶の死骸を運んでいた。
白い羽が細かくゆれながら、僕の足下を左から右へ進んでゆく。
ヨットみたい、と若菜は言ったが、僕にはそう見えなかった。
蝶の羽はヨットの帆ではなく、切断された人間の耳に似ていた。




