第1節:重力の代償(グラビティ・コスト)
空を見上げても、そこには見慣れた星座のひとつもありはしない。
私がこの「バグだらけの世界」に迷い込んでから、三年の月日が流れた。
中世を模したような不便な文明、不条理な階級制度、そして理法を無視して発現する稀少な魔法。
現代という、高度に論理化された世界で生きてきた私にとって、ここは呼吸をするだけで知性が摩耗するような、耐え難い流刑地だった。
だからこそ、私は死んだように生きてきた。
経営コンサルタントとしての知見を隠し、ただの物静かな流れ者として、街外れの宿屋に身を寄せた。
現代知識は、この世界では魔法以上に異質で、危険な劇薬となることを理解していたからだ。
だが、この世界の重力――権力という名の理不尽は、静かに暮らそうとする者さえも容赦なく踏み潰していく。
「やめてください! そこは、お父様の……亡くなった父の大切な……っ!」
宿屋の入り口で、悲痛な叫びが響いた。
看板娘のリーザが、無骨な軍靴で踏みにじられ、泥の中に這いつくばっている。
彼女の目の前では、子爵の紋章を掲げた徴税官たちが、家財道具を無造作に荷馬車へと放り込んでいた。
「黙れ。この宿屋も、土地も、すべては子爵閣下の所有物だ。お前の父親が投資に失敗し、返済不能となった負債の代物弁済だ」
徴税官が鼻で笑い、一枚の羊皮紙をリーザの顔に叩きつける。
私は傍らで、その光景を冷徹な目で見つめていた。
リーザは、かつて絶望の淵にいた私を、温かいスープと飾り気のない笑顔で迎えてくれた唯一の人間だ。
彼女の父親もまた、身寄りのない私を雇い、この世界の「歩き方」を教えてくれた。
その彼が、三日前、絶望の中で首を吊った。
私は、泥にまみれたその羊皮紙を拾い上げ、目を走らせた。
『金鉱山開発・特別優先分配証書』。
そこに記された、複雑怪奇に組み合わされた配当利回りと、元本保証を謳う甘言の数々。
読み進めるほどに、私の胃の奥が熱く焼けるような感覚に襲われた。
これは、かつて私が現代で破滅した際に、敵対者が用いた手法の劣化コピーだ。
新規の出資者から集めた金を、既存の客に「配当」と偽って回すだけの虚業。
|ポンジ・スキーム《Ponzi Scheme》と呼ばれる、古典的かつ卑劣な詐欺。
子爵はこの未開な世界で、現代人が発明した「最悪の搾取術」を、無知な領民たちに振りかざしていたのだ。
「……稚拙だな」
思わず、呟きが漏れた。
私の専門領域を、こんな中途半端な知識で汚されたことへの職業的な嫌悪。
そして、私の支柱であった家族を奪われた怒り。
抑え込んでいた現代人としての矜持が、私の内側で音を立てて着火した。
「おい、何をぶつぶつ言っている、余所者め」
徴税官が威圧的に私に詰め寄る。私は、泥を払った羊皮紙を彼の手元に優雅に差し戻した。
「いえ、失礼。あまりに非効率な回収方法だと思っただけです」
「あぁ?」
「家を壊し、人を路頭に迷わせても、回収価値はたかが知れている。……ですが、この証書の発行主である子爵閣下なら、もっと効率的に『すべて』を失わせることが可能でしょう」
私の瞳に宿った、獲物を追い詰めるコンサルの色に、徴税官が一瞬たじろぐ。
「リーザ。……その涙は、奴を葬るための潤滑油に取っておけ」
私は動けないままの彼女の肩に手を置き、空を見上げた。
星座のない、暗い空。
だが今、私にはこの世界をひっくり返すための明確な支点が見えている。
独りでは不可能だ。
だが、この三年間で私が密かに目をつけていた、この世界に馴染めず、重力に押し潰されかけている「同類」たちがいる。
私は懐から、現代の精密な加工を施した、異世界の硬貨とは明らかに異なる銀貨を取り出した。
「始めようか。現代の知性という名の、反重力による復讐を」
こうして、私は各地に散った「部品」を招集するために、最初の一歩を踏み出した。




