第25話 境界の世界⑧
王の間を出た直後の騎士団。
重厚な扉が閉ざされた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに軽くなった。
「……」
だが、その代わりに得体の知れない重圧が背中にべったりと貼りついている。
すぐには口を開かず、ただ冷たい石造りの廊下に乾いた足音だけが響いていた。
やがて、シエラが耐えきれずに声を漏らした。
「ねぇ……おかしいでしょ。ノアが原因って、何よそれ。話が飛びすぎだわ」
低く、抑えきれない苛立ち。
隣を歩くフィナは、青ざめた顔で小さく首を振った。
「確かに変わった子だけど。ノア君を殺せだなんて……ライガ、嘘だよね。そんなの、ありえないよね」
縋るような問いかけに、ライガは答えなかった。
前だけを見つめる彼の拳は、わずかに、だが激しく震えていた。
シエラが逃がさないように視線を刺す。
「でも、アタシたちは冒険者でもあるのよ。王命には従わないって、さっき決めたばかりじゃない。だったら、選べるはずよ」
その言葉を遮るように、ハルトが冷静に口を開いた。
「だが、あの王の口ぶりは嘘とは思えなかった。それに。……ノアのあのベッドだ。普通の人間に、あんな真似ができるのか?」
一同の動きが止まる。ロイドが重々しく同意した。
「理屈は通る。あそこまでの精度、私も長く現場にいるが一度も見たことがない」
シエラは舌打ちをした。
「だからって、“悪魔の子”は飛躍しすぎでしょ!」
反論しながらも、彼女の声には微かな迷いが混じり始めていた。
そのとき、廊下の向こうから重い足音が近づき、騎士団長ガストン・ベルンブルグが姿を現した。
ファンション冒険者が流行していたルガイア王国でh、ある意味で最も騎士をやっていた、オールド騎士の男だ。
「ならば、捕らえて本人に直接聞くべきだ。王命は“始末”だが、現場での最適解は別にある。何より、あまりにも情報が足りん」
彼は、そう断定した。
騎士としての合理的な判断であり、同時に彼らにとっての救いでもあった。
フィナが小さく息を吐き、希望を繋ごうと頷く。
「ですよね。問答無用に殺すとか」
「……でも、この空気はおかしいわね」
シエラの読み通り。
その裏では別の巨大な流れが動き出していた。
「え?」
「家族の為、家の為。何より、自分の為……」
冒険者ではない、土地と財産を守ることを第一とする貴族出身の騎士たちが、すでに動き出している。
「子ども一人で済むなら安いものだ。我らの財産は守られ、しかも我々は英雄になれる」
歪んだ合理が囁かれ、共有されていく。
彼らの頭には、同じ像が浮かんでいた。
藁束を背負った、どこにでもいるような無力な子供。
「遠くには行っていないはずだ。隠れきれるはずがない。草の根を掻き分けてでも探せ」
「……いや、探すのは藁だな」
乾いた笑いが一瞬だけ広がり、すぐに消えた。
彼らは本気だった。騎士たちは一斉に散り、街へ、そして外へと溢れ出していく。
すべては、たった一人の少年を狩るために。
「どういうことだよ」
「ここにいるのは、冒険をせずに騎士になったものばかり」
「自分も。あの黒点に入る勇気は……確かに」
◇
噂は、瞬く間にマルシェリアを駆け抜けた。
人から人へ伝わる伝承などよりも遥かに速く。
速馬の蹄の音が、そのまま断片的な情報となって街を汚していく。
黒い天体。悪魔の子。討伐命令。
歪んだまま繋がったその情報は、人々の目に「狩る側」の光を宿らせた。
その包囲網の中を、ユズハ、ディルク、ノアの三人は潜んでいた。
人混みの影、路地の隙間。翡翠の瞳を鋭く光らせ、ユズハが小さく舌打ちをする。
「……広がるのが早すぎるし。何なん、これ」
「……」
「貴族どもが本気で動き出したな。情報の回り方が異常だ」
ディルクが周囲を睨みつけながら吐き捨てる。
鈍色の髪を揺らし、ノアが静かに呟いた。
「足が速い。馬の音」
「こっちは徒歩だってのに……最悪じゃん。馬とか今まで出なかったじゃん」
ユズハが焦燥に顔を歪めるが、ディルクは首を振った。
「いや、違ぇよ。広がり方が綺麗すぎる。こういうのって普通、情報は伝言ゲームでズレるだろ。でも、今は連中の動きに一切の迷いがない。的確に広げてる」
「……まるで、最初から決まっていた……みたいに?」
「そういうことだ。絞られてるんだよ、ノア」
ディルクの言葉に、ノアが頷く。
「範囲が絞られてる。僕たちが逃げる方向を、決められてる」
ユズハの顔色がさっと変わった。
「……じゃあ、逃げ道を誘導されてるの?」
「西に行くしかないと考えてるって動きだけが……」
重い沈黙。
だが、ユズハは歯を食いしばり、即座に断じた。
「……それでも行くし。パパが西にいるなら、そこしかないじゃん」
バルトは馬車を用意している。
マルシェリアからの脱出の手筈は整っている。
「うん」
この包囲網を突破するだけ
「……だな」
三人は再び駆け出す。
その最中、ディルクがノアに視線を向けた。
「ノア。さっきの話だ。婆さんに連れられて行ったんだろ。あの島で、何を見た」
ユズハが息を呑む中、ノアは走りながら少しだけ考えた。
「……夢を見た。あれは、お父さんとお母さんじゃなくて……誰、だったんだろ」
ディルクの顔が苦渋に歪む。
「シャルルも言ってたじゃねぇか。お前はノクスの加護を受けてる。ノクス・マテールがお前を此の世と繋ぐために返したんだって――」
「――今の声だ! そこにいるぞ!」
遠くから鋭い叫び声が上がり、空気が裂けた。
ユズハの翡翠の瞳が見開かれる。
「走るわよ! ノア!」
彼女はノアの手を強く掴み、路地へと飛び込んだ。
ディルクもそれに続く。
背後からは「いたぞ!」「追え!」という怒号が重なり、包囲網は一気に狭まっていく。
曲がり角を抜け、壁を跳ぶ。
その最中、ノアの足がわずかに遅れた。
「ノア! それ、置いていきなさい!」
ユズハの視線が、ノアの背中の藁束を射抜く。
ノアは迷わなかった。すぐに紐を解き、背から落とす。
藁が石畳に散らばるが、そのコンマ数秒の遅れが距離を詰めさせた。
「あたしの背中に乗りなさい!」
「え……」
ユズハが踏み込み、ノアの腕を引いてそのまま背負い上げた。
ディルクが前衛を担い、道を切り開く。
「先に行くぞ!」
ユズハがノアを背負い、騎馬よりも速度を上げた。
足音は重くなるが、その足取りに迷いはない。
背後で重なる蹄の音。増え続ける追手の影。
それでも、彼女は前だけを見た。
「……絶対に、落とさない」
小さく、だが鋼のような意志を込めて呟く。
ノアは何も言わず、ただユズハの揺れに身を預けた。
父が待つ西へ。ただそれだけを目指して。
包囲網が仕組まれた流れの中へ、三人はあえて深く踏み込んでいった。




