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第24話 境界の世界⑦

 ざわめきが、まだ波紋のように室内に残っている。

 熱を帯びた空気の中で、宰相オルレック・グランブルジュが一歩前に踏み出した。

 彼はセレナの手からひったくるようにして書面を掴み取り、その紙面に視線を走らせる。


 最初は、嘲るような軽い一瞥だった。

 だが、次の瞬間。

 宰相の動きが、彫像のように固まった。


「……は?」


 呆然とした声が漏れる。

 信じられぬといった様子で、もう一度、数字を追う。

 桁を一つ、また一つと数え直し、ようやくその意味を理解した。

 そして、彼の顔色から急速に血の気が引いていった。


「……ふざけているのか」


 絞り出すような低い声。

 だが、その指先は隠しようもなく震えている。

 対照的に、シャルルは優雅な微笑を湛えたまま、微動だにしない。


「大公の資産は、私が管理しています。大袈裟な金額ですか?これはその一部ですが……」


 ヴァルケンブルグ大公が、王よりも金を持っている。

 宰相だからこそ、百も承知だ。


「軽い……ですか? 国を、いえ世界を揺るがすかもしれない何かの調査です。一部かもしれませんが、それでも軽い」


 淡々と丁寧だが、優雅な態度は逆に不遜な響きとなった。


「こんな言葉を私が使う日が来るとは思いませんでしたよ。……ノブレス・オブリージュ。それが責任ある立場である、私の提示できる精一杯です」


 だが、その一言が、疑いようのない現実としてその場を支配した。


「あの子供ではなく、黒い天体に……?」


 宰相の指が、持っていた紙を強く握り潰す。


「それはおかしいです。ルガイア王国が貴ぶのは……」

「知っている……。だが——」


 理解してしまったのだ。


 これはもはや、自分の権限でどうにかできる範疇を超えている。


 王命による上書きも、法による差し止めも、この場では無力。

 ギルドが受理した以上、契約は成立し、誰もこの流れを止めることはできない。


 宰相の視線が、刃のようにシャルルを射抜いた。


「貴様、覚えていろ……」


 だが、その先が続かない。


「って、なんでシャルルが目立ってんだよ。ウチにも権利くらいあるだろ」

「てへ。お嬢は服を持ってないっす」

「セイン!」

「……いえ。ここは空気を読んだ方がいいかと」


 カリスの舌打ち。


 宰相の赤い耳には届くかもしれないが、……大した問題ではなかった。

 

 言葉を紡ぐより先に、眼前にある「財」という名の理不尽な現実が勝った。

 屈辱に歯を食いしばり、周囲に聞こえるほどの勢いで吐き捨てた。


「……陛下にお伺いを立てる。このようなもの、現場で判断できる範疇を遥かに超えている!」


 言い訳ではなく、事実だった。


 彼は踵を返し、荒い足音を響かせながらギルドの扉を叩き開ける。

 逃げるように飛び出したその後ろに、重く沈んだ空気だけが残された。



 王の間。


 重厚な石の扉が固く閉ざされ、外界の狂騒は完全に遮断されている。

 高い天井には古の意匠が施され、磨き上げられた床には左右に並ぶ巨大な柱の影が長く伸びていた。


 そこには、耳が痛くなるほどの静寂があった。


 その中央。


 一段高い場所にある玉座に、王レオナード三世・フォン・アルテンブルグが座している。

 王は片肘をつき、頬に手を当てたまま、身じろぎ一つせず眼下を見下ろしていた。


 その前に、膝をつく者たちがいた。

 騎士団長ガストン・ベルンブルグ。

 今しがた戻った宰相。

 そして――ルガイア王国の矛として名高い「暁紅蓮隊」と「青葉の剣」。

 さらに、金で雇われたランクA冒険者——多色の連携を誇る「五彩」の六人。

 それぞれが深く頭を垂れ、視線を床に落としている。

 だが、その場の空気は、張り詰めた弓の弦のように限界まで引き絞られていた。


 宰相が、意を決したように一歩進み出た。


「陛下。マルシェリアの上空にて、未確認の黒い天体が出現いたしました。現在、冒険者ギルドは独自の判断で特別ミッションを発令しております」


 言葉を選びながら、彼はさらに核心へと踏み込んだ。


「加えて……ノアという名の少年が、その事態を引き起こした原因である可能性があるとの報告が入っております」


 空気が、目に見えて揺れた。

 公の場を憚るようなざわめきこそないが、跪く冒険者たちの肩が、確実に動いた。


「は?」


 最初に声を漏らしたのは、暁紅蓮隊のライガだった。

 抑えきれない怒りと動揺が、その声を尖らせる。


「なんでだよ。なんで一人の人間で、あんなもんがどうにかなるんだよ!」

「ライガ、止しなさい」


 王の間に、彼の叫びが不敬に響き渡る。

 青葉の剣のハルトも、静かながらも鋭い問いを重ねた。


「……根拠を。それは、どこから得た情報なのですか」


 宰相は、僅かに顔をしかめて苦々しく答える。


「聞いた話だ」

「その……、グランブルジュ様?」

「根拠も確証もない。……だが、無視できる内容ではないのだ」


 確証のない不安。

 だからこそ、それは毒のように速く、深く浸透していく。

 王は、まだ動かない。

 深い沈黙が、場に長く、重く居座った。


 やがて。

 王がゆっくりと、その重い口を開いた。


「……調べは、既についておる」


 その一言で、王の間の空気が一瞬で凍りついた。

 宰相も、目を剥いた。

 跪いていた全員の視線が、吸い寄せられるように王へと向く。

 王は、感情を排した無機質な声で続けた。


「ノア。それは、古き神――ノクスの庇護者。普段、神話は民に語らぬようにしておるが、な。……あれはいわば、悪魔の子じゃ」

「悪魔の……」

「——子……」


 沈黙が、さらに深く落ちた。

 あまりに重い言葉。

 誰も否定することができないのだ。

 王の瞳には、歴史の闇を知る者特有の、暗い確信が宿っていたのだから。


「陛下!」


 宰相が、即座に身を乗り出すようにして踏み込む。


「ならば、直ちにギルドに討伐の正式依頼を出し、万全の態勢を――」


 騎士団など宰相の目には入っていない。

 そも、暁紅蓮と青葉の剣も、冒険者でしかない。

 だが、あの冒険者は、ヴァルケンブルグ大公の孫……


「何のための騎士団じゃ」


 そして、王が低い声で言葉を遮った。

 たった一言。だが、そこには絶対的な圧がある。

 宰相は言葉を失い、喉を鳴らして引き下がった。


「グランブルジュ卿の話では、まだマルシェリアにおる。悪魔の子を探せ。そして、速やかに始末しろ」


 王は一切の迷いなく、断罪の命を下した。


「演説を聞いた民に見せよ。ルガイアの民を守るため。その悪魔の子を――相応しきノクスの世界へと送り返せ」


 王命が、冷酷に下された。

 冒険者ギルドの独立性と国家の安寧は別。


 民を守る為と言われたら——


「時間はないぞ。早く行け」


 王の間に残されたのは、


 世界が音を立てて崩れ始めるような、重い静寂だけだった。

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