第17話 奇妙な依頼④
意識が戻る。
それは浅いまどろみから覚めるようなものではなかった。
深海の底に沈んでいた意識が、ゆっくりと気泡を伴って浮かび上がるような感覚。
「……っ」
最初に動いたのはユズハだった。
重い上体を強引に起こし、反射的に周囲を見渡す。
だるさも痛みもない。だが、肌にまとわりつくような違和感が先に来た。
「……なにこれ。あたしたち、いつの間に」
すぐ隣で、ディルクも顔を上げた。
職人らしい鋭い視線を室内に走らせるが、そこに敵の姿はない。
「……寝てたのか? 俺としたことが」
「おい、何も盗られてねぇぞ。荒らされた形跡も、争った痕もな」
バルトもゆっくりと立ち上がり、机に手をついて呼吸を整えた。
状況を一つずつ拾い上げるが、そこに繋がる過程が抜け落ちている。
「落とされた、か。気づかないうちに」
「生きてるわ。みんな」
エマの声が静かに響いた。
彼女はすぐ傍らで、三人の状態を冷静に観察していた。
「全員、身体に問題なし。ただ深く眠らされていただけ。……不自然なほどに心地よい眠りだったはずよ」
アルファのリーダーであるレオンが一歩前へ踏み出した。
その双眸が、覚醒したばかりの三人を順に射抜く。
「ノアはどこだ」
問いは、それだけだった。
ユズハが戸惑ったように眉をひそめる。
「え? ……ノア? さっきまで、そこに――」
言いかけて、ユズハは言葉を失った。
そこにいるはずの、静かな少年の姿がない。
その事実だけが、遅れて心臓を叩いた。
レオンは猶予を与えず、次の問いを投げかける。
「ここに『小島』の依頼は来ていたか」
「……来てた。だが、あいつには見せてねぇ。隠してたんだ」
「見せる訳ないじゃん。ノアにだけは絶対っ!」
バルトが苦々しく答えた。
ユズハも断固として否定するが、現実は否定できない。
衣服に付着した僅かな繊維に目を落とし、小さく息を呑んだ。
「……これ、前と同じ。あの時の、藁の匂い」
一拍の沈黙。
「いつもはパッと目が覚めるのに……」
レオンが、その言葉を短く引き継いだ。
「分かっていたはずだ。あいつがその気になれば、この程度のことは容易い」
否定も反論もなかった。
ただ静かな事実として、ノアの異質さがその場に置かれた。
レオンは視線を外した。
「今日がその日だ。ノアは港か。……お前たちはここに残れ。あいつはアルファが確保する」
その冷徹な判断に、空気が張り詰めた。
ユズハが、迷いなく立ち上がる。
「あたしも行く!」
彼女は力強く一歩を踏み出した。
「ノアはあたしが守るって約束した。今さら置いていかれるなんて、嫌だし!」
視線が激しくぶつかり合う。
レオンは眉一つ動かさず、ユズハもまた一歩も退かない。
激しい呼吸音だけが部屋に響く。
「勝手にしろ。揉めている暇はない」
レオンは一瞬だけユズハを見つめ、それ以上は何も言わなかった。
止める理由がないことを、彼自身が理解していたからだ。
「行くぞ」
短い号令。
全員が同時に跳ねた。
石畳を激しく蹴る音が重なり、夜のマルシェリアを駆け抜けていく。
西へ。最短のルート。
ユズハは流れていく街の灯りを見つめ、走りながら言葉を吐き出した。
「なんであいつが……! ノアがあんな無茶をする理由なんてないのに!」
「神話の遺物に固執していた。お前も知っていたはずだ」
レオンの声が、風を切り裂いて届く。
「捨てた割に随分詳しいじゃない。あんた、あいつを切り離したことを後悔してるの?」
「後悔などしていない。切り離しただけだ」
「同じじゃない!」
「違う」
レオンは即答し、迷いなく続けた。
「本気で冒険を続けていたからこそ、俺は止めた。ノア以外の冒険者と組めと言ったはずだ」
ユズハは言葉を詰まらせた。納得はできない。
だが、その不器用な突き放しに込められた意図を、今は理解できてしまう。
隣を並走するエマが、静かに口を開いた。
「レオンはね、ユズハ。ノア君のために、極楽鳥の羽毛布団をずっと探そうとしていたの」
ユズハの足が一瞬だけ止まりかける。
「……は? どういうこと?」
「だから、最短でランクAに登り詰めたのよ。彼に安眠を届けるために」
「でも、そこから先のミッションは、あの子の身に余るほど危険すぎる。だから、私たちは彼を切り離した」
リリアの冷徹な補足が、ユズハの胸に重くのしかかる。
アルファは悪くない
前を行く彼の言葉だった。
「それでも……! それでも、あいつを一人で行かせちゃダメでしょ!」
誰も否定しなかった。
ただ風の音だけが背後へ抜けていく。
やがて、潮の気配が混じり始めた開けた空間。
マルシェリアの港。
灯りが揺れている。人の気配はある。だが、どこか緩慢だった。
動いているだけの群衆。焦点の定まらない流れ。
レオンが足を緩め、全員が同時に視線を上げた。
——いた。
ノアだ。
人混みの中に混じり、周囲に流されるように歩いている。
視線が誰とも合わず、焦点がない。ただ虚ろに、進むべき方向へ足を運んでいる。
「……あれ」
ユズハが、絞り出すように呟いた。
ノアの背中に視線を向け、決定的な欠落に気づく。
「……持ってない。ノアの、藁がない!」
「ああ、持っていないな。背負子を欠かさないあいつが」
レオンの声に、戦慄が走った。
ユズハが弾かれたように踏み出す。
「――ノア!」
その叫びと同時に、別の音が混ざった。
最初は、波の音に紛れるほど小さな震え。
弦を弾く、柔らかく澄んだ一音。
瞬間、大気がわずかに歪んだ。
身体が、粘り気のある水の中に沈んだように重くなる。
一歩が。踏み込みが。思考の速度から半拍遅れて届く。
「……なに、これ。身体が動かない……」
ユズハが眉を寄せ、必死に足を動かそうとする。
レオンが鋭く視線を動かした。
「……遅延魔法。いや、旋律による認識阻害……お前っ!」
もう一音。
今度は、はっきりと空気を震わせて鳴り響く。
どれほど足を動かしても、距離が詰まらない。
ノアまでの数メートルが、果てしなく遠い。
「……この音。あたし、知ってる。中央平原の、あの時と同じ音だ」
リリアが桟橋の先を睨みつけ、鋭く反応した。
「エリオット、貴方……!」
灯りの隙間。桟橋の先端で、弦を弾く影があった。
エマが、悲鳴に近い声を漏らす。
「アナタ……何をしているの」
「あの時もそうだったよね」
どこからか、柔らかい、それでいて芯の冷え切ったエリオットの声が響く。
「僕だけ除け者で。僕だけ、何も知らされていなかった」
ノアは止まらない。
振り返りもせず、虚空を見つめたまま桟橋の先端へと進む。
一歩。また一歩。
用意された船へと足をかける。
「待って! ノア!」
ユズハの手が空を掻く。
届かない。
音がもう一度鳴り、さらに強く、全員の時間を奪っていく。
レオンが静かに、そして苦渋を込めて吐き出した。
「……もう、間に合わない」
船が、ゆっくりと岸を離れていく。
黒い海の上を、揺れる灯りだけが遠ざかる。
その甲板の上に、ただ一人……
いや——
手を引く……影
「嘘……、なんで?」
ノアの影ともう一人。
「どういうことだ……、マリー・ド・オルレアン」
白い髪の老女が、夜の闇に吸い込まれるように立っていた。




