Mirabilis 4
おそらく今日も最初にして唯一の来訪者である彼女の様子を横目に、高雄はカウンターの奥へカバンを置きノートパソコンの電源を入れる。
「……あっ」
そこで彼は思い出した――忘れてはいけない用事。とりあえず慌てても仕方ないので落ち着いてカバンを開き、中から一冊の本を取り出した。
「……はいこれ。返すよ」
彼女の前、テーブルの上にその本を置いた。昨日の放課後にこの場所で彼女から預かり、借りて帰った本だ。
彼女は「どうも」とたった三文字の感謝の言葉を口にし、『「?」の童話』という名の、その本をそっと手に取った。
「一応聞いておきますが」
凛としてやや鋭く、それでいて熱のない視線が向けられる。
彼が一瞬目を逸らしたくなったのはおそらく気のせいではないだろう。
「この本、中を見ましたか」
「……いや。見てない」
「そうですか」
「……え? ……それだけ?」
取調べのような雰囲気に高雄はたじろいだが、彼女はその受け答えだけで視線を手元の本へと戻した。彼からすれば若干の拍子抜けである。もっとしつこく追求されるか、疑われはするであろうと心の中で身構えていたから。
「私には確かめようがありませんが、平然と嘘をつくならあなたはその程度の人だというだけです」
「あ、そう……」
「それに、読んだところでおそらくは意味がわからないと思います」
彼にとっては今の彼女の発言……いや、彼女という人そのものの方が、よっぽど意味がわからなかった。しかし深く追及する気は起きず、彼はカウンターに戻っていつも通りただ本を読むだけの――名ばかりの図書当番に戻ろうとした。
だが目の前の少女は鞄の中に手を突っ込んだかと思うと、なにやらかわいげな小袋を取り出して「どうぞ」と彼へ差し出す。
「……なに? 爆弾とか?」
「自爆する気も、その予定もありません」
彼女の手からその袋を受け取ってみる。中身は市販のクッキーであった。バニラビーンズの甘く優しい香りが鼻腔をくすぐってくれる。
「お口に合うかわかりませんが、本を借りてくださったお礼です」
「はぁ……どうも」
好意を無にするのも何である――だがどちらかといえば、彼女の雰囲気に飲み込まれたままであったことが大きいだろう。高雄は素直にそのお礼を受け取ることにした。渡し終えた彼女はといえば実に彼女らしく、ほとんど音を立てずテーブルへと戻っていく。
そうして彼女は再びあの本を読み始め、開いたページに夢中な様子である……貰い受けたクッキーの包み紙を片手に、さてどうしたものかと彼は思慮した。
(……そうだ)
思い立ち、彼はおもむろにカウンターの奥の部屋、司書室へと移動した。この部屋にはテーブルに水道設備まで揃っている。
まずカップを二つ、皿を一枚テーブルの上へ用意する。棚に常備してあるインスタントコーヒーとコーヒーミルクの粉をカップの中に、受け取ったクッキーを皿の上へと広げ……はたして彼の予想通り、一人で食べるにはちょっと多い量であった。
準備を終えた彼は図書室へと戻って彼女に声をかける……が、無視された。いや、意図的な無視ではない。彼女は昨日と同じく、あの本に夢中になっていただけだ。現に肩をつつけばきちんと振り返ってくれたのだから。
「なんでしょう」
やはり彼女は無表情。しかしそんなこと程度ではめげず、彼は誘いの言葉をかける。司書室に用意した、小さなお茶会へと。
「さっき貰ったクッキーだけどさ。一人だと多いし、一緒にどうかな? って思って……」
予想通りであったが、彼女は即答することなく思慮に耽る。そこまで必死にというわけではないが、彼はもう少し粘って誘ってみることにした。一人では多すぎるクッキーの消費についてもそうではあるが、それ以上に彼女自身へ質問したいことがあるというのが大きい。
「コーヒーもいれるしさ。それに……その本のこと、まだ説明されてなかったし」
「そうでしたね」
テーブルの上に開かれたままとなっているその本を高雄は指差し、そこでようやく彼女から答えが得られ、ついでに質問も返された。
「ですが、いいのでしょうか?」
「……それはどういう意味で?」
「二つです。あなたに差し上げたお礼に私も手をつけていいのかという事と、図書室での飲み食いをしていいのかという」
後者の疑問については、生徒会長みずからが図書室内での飲み食いを実行しているのだからいまさらな気がした。しかし彼女のように善良な一般生徒からすれば、やはりそれは問題行動と認識されるのだろう。
高雄はまず時計を指差し、次に背後を指差し、それに答える。
「ここは今日も閑古鳥で来る人なんて風紀委員の見回りくらい。それにはまだまだ時間があるし……図書室での飲食は禁止だけど、司書室なら問題なし。もう一つの疑問については、ノープロブレムというよりもウェルカム」
「そうですか。ではお言葉に甘えることにします」
彼女も無事承諾し、二人はカウンター奥に覗く司書室へと移動することにした。この部屋には常にコーヒーや紅茶といったお茶類と多少の菓子が常備してある。委員会特権というやつだ。
しかし室内に入るなり、彼女は当然にして適切な疑問を口にした。
「ここは酒場ですか」
司書室内には至る所に空となった酒瓶が転がり、彼女の言葉通りと言っていい状態であった。
もちろん犯人は高雄ではなく、この部屋の主である加賀教諭によるものであるが。
「未成年者の飲酒は法律で禁止されていますが」
「残念ながら僕は未経験の下戸だよ。この部屋のボスがね……そのうち解る日が来ると思うけど」
「そうですか」
背を向け、お湯の入ったポットを持ってくるまでに彼女は椅子に座っていた。椅子を引く音すらしなかったのは礼儀正しさの表れか、はたまたそういう特殊能力か。おそらくは前者であろうが。
高雄はコーヒー入りのカップと、角砂糖の入った瓶を彼女の前に置いた。
「どうぞ。ご自由に」
「ありがとうございます」
彼女は礼儀正しく一礼。透明な硝子瓶の蓋を開き、真っ白な角砂糖をつまんでコーヒーの中へ入れる入れる入れる入れる入れる。
「ちょちょっ、ちょっと待った……!?」
「なんでしょう」
「それ……飲むの? っていうか、飲めるの?」
「はい。私、甘党なので」
それにしたって彼女が肉体を有する人間であるならば、いくらなんでも限度というものがあるだろうと彼は思った。コーヒーの水面から角砂糖のタワーが顔を出している様子など、産まれてこの方見たことがない。眺めているだけで血糖値が上がってしまいそうな光景である。
「ではいただきます」
「はぁ……どうぞ。クッキーも」
「いただきます」
砂糖満点なコーヒーを飲みつつ、クッキーにも手を伸ばす朝日。健康的な面と味覚的な面で心配になる対面の彼をよそに、まったくもって普通に食べ進めている。その味に満足しているのかどうかは、無表情のままなので彼からは推し量ることが出来ず。
「おいしいです」
だが感想からして、味覚という器官は機能しているようである。高雄は思わず安堵する心境を覚え、自身も皿の上のクッキーを口に放り込んだ。
風味、甘味、食感とも絶妙な一品。近所のスーパーに並んでいるような安物ではおそらくないのだろう。
「……ところで、その本についてなんだけどさ」
そしてコーヒーを飲みつつ、本題について切り出してみた。もちろん彼が手にしているコーヒーはブラックだ。目の前の少女の真似などしたら確実に寿命が縮まる。体内のインスリンがいくらあっても足りない。
「えぇ。詳しく話すんでしたね」
「……覚えておいてもらえて助かるよ。昨日の、あの後に聞きたいことも増えたし」
「そうですか。ではどこから話せばよろしいのでしょうか」
「とりあえず最初から……その本との出会いとか?」
質問したいことはいくつかあったが、まずはそこから教えてもらうことにした。彼女が全ての質問に答えてくれるという前提でだが。
「むかしむかしあるところに」
「……そこからですか」
「お爺さんとお爺さんとお爺さんが」
「なにその組み合わせ……ちょっと先が気になるんですけど」
「というのは冗談です」
「その試し、まだ続いてたのか……っていうか冗談は抜きでお願いします」
「わかりました。真面目に話すことにします」
高雄へと向けられる彼女の表情は変わらず。
けれどほんの少しだけ残念そうな顔をしていたようにも見えた気がした。
「この本はこの図書室で見つけました」
「……でも、バーコードないよね? その本」
「はい。それは私もすぐに気付きました。読み出す前に確認したのですが、本の中にもバーコードはありませんでした。それから作者名も」
この図書室の本ならば、図書委員の手によって――と言っても、実際に仕事をしているのはほとんど高雄だけだが、貸し出しの際に読み取るバーコードが貼られているはずである。しかしこの本にはそれがない。背表紙のシールもまた然り。
「ほんとにタイトル通りの謎な本だな……でもそんな本、どこの棚に? 今まで全然気付かなかったけど」
「いえ。テーブルの下に落ちていたんです。拾ったのは昨日でした。誰かの落し物か忘れ物だと思ったので拾っておいたのですが、好奇心に負けて読み始めてしまいました」
たしかにこのような謎に包まれた書物など、読書を趣味としている人間が拾ったのならばその中身を確認せずにはいられない。高雄自身、昨夜は幾度も「読んでみたい」という衝動に駆られていた。朝日との拘束に近い約束があったために事なきを得たが。
「これが図書室の本じゃないってのはまぁいいとして……なんで俺に預けたっていうか、借りさせたの?」
「それについては落し物として申告するべきだったのではないかと反省しています」
べつに責めてなどいないというのに、朝日は高雄に向けて深く頭を下げた。まるで生徒指導室での、教員と生徒のやりとりのようである。
「いや……僕に謝ってくれなくても。自分で借りていけば良かったんじゃないのかなぁって」
「私の性格からして、そうするべきではないと判断したので」
「……どゆこと?」
「その説明については、まず私自身について話すことになるのですが」
これから話し始めるんだぞという合図なのか意気込みなのか、彼女はわずかに残ったコーヒーを飲み干した。カップの底に残った角砂糖の溶け残りが、彼女の飲んだコーヒーの糖度の高さを表している。まるで砂金採取のようだと高雄は嫌な意味で生唾を飲んだ。