Mirabilis 3
高雄が、朝日から謎の本を預かった翌日の放課後。
帰りのホームルームもつつがなく終了し、彼は教室を出た足でまっすぐ職員室へと向かう。
「失礼しまーす」
形式的なノックを三回。扉を開け軽く一礼してから入室する。放課後すぐという時間帯もあってか、室内にいる教員は数名であった。
べつに個人指導を受けたり進路相談をしたりするわけではない。理科室や音楽室といった特別教室の鍵は、ここ職員室に保管されているのだ。これから向かおうとしている図書室の鍵もここにあり、いつも通りそれを借りに来たわけである。
「図書委員ですが図書室の鍵を借りに来ました」
いくら自分が善良な一般男子生徒だからといって、用件を済ます以上にこの場所で長居はしたくない。テンプレート通りの挨拶をし、扉のすぐ横に掛かっている鍵をスリには劣る速度で拝借。退室の挨拶をして扉へと手を伸ばしたときだった。
「あ、おーいタカちん。ちょっとちょっとぉ」
残念ながら彼は捕まってしまった。それも現状では一番捕まりたくない相手に。
室内にいくつも並ぶ、教員たちの机。そのおよそ中央の奥側にその人物の机はある。
高雄はため息を吐きつつ呼び声のした方へ目を向けた。文字通り山積みになっている雑誌やら教科書やらプリント類の向こう側から伸びた右手。高雄の姿が見えているとは思えないが、手首をゆるく稼動させて「おいでおいで」のジェスチャーをしていた。
仕方なく声の主のもとへ移動すれば、やはりというべきか。ノートパソコンのキーボード部分を枕代わりに、部活動で疲れた生徒でもここまでにはならないだろうグダグダな体勢の美女が一人。
「……何の用ですか、先生」
「んもー。タカちんてば硬いぞぉ? いきなり用件聞くんじゃなくて、まずは世間話から入るとかしないと女ウケ悪くなるぞー?」
「今のところ、そんな予定はないですから……っていうか相変わらず酒臭いですよちょっと」
居酒屋から出てきたところだと言われても疑われないであろう、アルコールの混ざった吐息を撒き散らしているこの人物。なんとれっきとしたこの学園の教員である。それだけ説明されても嘘だと言う者がほとんどであろうが、残念ながら真実だ。
「ちょっとぉー? うら若き乙女に、いきなり臭いとかヒドくないっすかゥィーップ」
「若いってのは否定しませんけど、酒臭いのは事実っていうかお願いですからここで吐かないでくださいよ?」
「はっはっは。酒は飲んでも飲まれるニャーってか? はっはっは」
「……まさか授業中にでも飲んだんですか?」
「いんやぁー? さすがに授業中は我慢したんだニャンニャンニャンゴロー。にゃーっはっはっは」
もはや会話にならぬ対話に高雄は閉口し、軽い頭痛を覚えて自身の眉間を押さえた。「こちらの女性は教員です」と紹介したらどこぞの団体のお偉いさんが発狂しそうなこの酒浸り教師。
彼女の名は、加賀音羽という。
三十路より少し手前……と本人は豪語している美人教師。美人と連呼しているがどの程度美人なのか。本人同伴で街角アンケートを行えば、十中八九美人だと誰しもが認定するだろう。
赤薔薇のような艶のあるロングヘアー。顔立ちも、スタイルだって抜群だ。ハイヒールいらずの高身長に見せびらかすように豊満なバストとヒップ。街でモデルにスカウトされたこともあるらしいが、スカウトマンがいやらしい視線で見てきたからブッ飛ばしてやったとは本人談である。
彼女の最大と言ってもいい魅力に、非常に女らしい外見でありながら女らしくしていない中身だろう。竹を割ったような、悪く言えばオッサンっぽい性格。ひょっとすると並の男より男らしいかもしれない。けれどそのミスマッチさも合わせて彼女という人間全体の魅力となり、外見内面問わずその虜となる男子生徒や男性職員は後を絶たない。「レディーカガ」なんて呼ばれ方をしていたのも高雄は何度か聞いたことがある。秘密のファンクラブまで設立しているという噂だ。彼にとっては興味のないことであるが。
「いやはや聞いてよ? 昨夜近くの店でちょーっと飲んだらさ、朝起きたら気分わりぃーのなんの……そんでもさっきまでは頑張ったんだけどさ、どーにも気分すぐれねぇってもんでコイツをイッキしたわけでさぁ大佐」
この人が自分で「ちょっと」ということは、小さな居酒屋なら店内がカラッポになる位は飲んだんだろうなと想像しつつ、傍らに転がっていた酒の空き瓶を拾ってみる。ラベルには禍々しいドクロのイラストが描かれていた。
「アルコール度数八十六パーセント……火つきますよこれ」
「んー? やっぱ九十パーは越えてないとねぇ。楽しめないよねぇ?」
もはや迎え酒というレベルを超えている、苦行と呼ぶすら生温いその所業。体内に何ガロン溶け込んでいるのだろうかと高雄は不思議に思うばかりである。
「どーせアンタこれから図書室だろぉ? ついでに一本買ってきておくんなまし。適当なラムでいいからさ」
「買いませんし買えませんよ」
「りょーしゅーしょーの金額欄は白紙でよろしくー。えへへー」
「聞いてないし……」
今こうして酒に溺れている姿はいつもの事なのでとりあえず置いておくとして、これでも彼女は一応史書教員。要するにこの学園の高等部における図書室のボスなのだ。一応というのは他の教科と掛け持ちだからである。
真っ白なロングコートもどき……もとい、白衣という姿を見れば一目瞭然なのだが、彼女は化学の教員でもある。本人は日々怪しい実験を化学準備室にて行っており、よく爆発音が聞こえてくるとか。
「ボマーカガ」なんてあだ名もいつだったか聞いたことがあった。
とにかく、美人ではあるがオヤジ趣味で日々酒浸り。迎え酒の迎え酒を繰り返し、水の代わりにアルコールを摂取している危ない化学教師というのが、彼女である。
「……用件はそれだけですか? だったらもう行きますよ」
「なんだぁーよ、つれないねぇ。せっかくたまには図書室に顔出してやろうかと思ってたのにさー」
「せめてアルコールが抜けてから来て下さい。図書室に酔っ払いはカンベンですよ」
「へいよぉー。んじゃ、あたしゃぁもう少し寝ますかねーっと……」
これでよくクビにならないものだと感心するが、本人曰く「働きやすい職場は自分で作るべし。そのためには上司や同僚の弱みを握るのが手っ取り早い」とのことで、まぁ色々と握っているということだろう。詳しくは知らないほうがいい気がしてならない。
これでも平常運転である酔っ払った彼女の相手を切りあげ、高雄は今度こそ職員室を後にしようとする。情けなく開かれた彼女の口から、これまた情けなく垂れ広がった涎がパソコンを濡れさせているのが少々気掛かりだが、長く関わっても損しかしなさそうなので放っておくことにした。
「あー。タカちーん? ついでにスモークチーズもぉ」
「……買ってきませんってば」
もはや引くが得策。一名のせいで酒臭い空間と化してしまっている職員室を後にし、高雄は当初の目的であった図書室へと寄り道せずに向かう。
それから数分の後。場所は図書室前の廊下。
見れば、施錠されたままの図書室の前には既に常連さんが一名。高等部棟では滅多に目にしない中等部の女子制服に身を包み、置物のようにちょこんと立って待機していた。近付いてくる高雄の足音に気付いたのか、振り向いてこちらを見つめる……相変わらず綺麗だが無表情な視線。
「ごめんごめん。遅くなって……」
「いえ」
図書室の開錠が遅くなって申し訳ないという姿勢をとりあえず朝日へと見せ、彼は謝罪しながら鍵を回して扉を開ける。返ってきたのは何の感情もこもっていないとしか思えない、彼女らしい端的な返事だったが。
「ちょっと先生につかまっちゃって……あの、もしもし?」
「はい」
扉を開けて室内へ。喋りながら三歩ほど進んだところで彼は振り向いて尋ねた。いや、尋ねてしまった。
「……入らないの?」
「入ります」
ならば何故、彼女は扉が開く前に立っていた位置から一歩も動かないのだろうか。金縛りに遭っていると言われても納得出来てしまいそうな直立不動ぶりであった。しかしどうしたのかと訊ねる前に、彼女からそれを答えた。
「考え事をしていました」
「はぁ……」
「あなたの顔を見たら、ふと疑問が浮かびまして」
「……どんな?」
「ハムスターはなぜあんなに回し車に夢中になれるのでしょう」
「……知らないです。そんなの」
「ですよね」
だったら聞かないでよと彼は言いかけた……表情には表れてしまっていたかもしれない。そもそも人の顔を見てそのような疑問が浮かぶというのはどういうことなのだろうか。ハムスターか回し車を連想させるような顔ということか……はたしてそれは人間の顔だろうか。実際に「あなたの顔はそうなのです」と言われたら、それはさすがに傷つくが。
「冗談です」
高雄は心底安堵した。本気でないことは祈っていたが、その言葉で少しだけ報われたような気がした。顔面的に。
「その疑問が浮かんだのは、あなたが来る前です」
(ハムスターと回し車については、考えてたのか……)
やはりこの少女、どこまでも謎であると彼はあらためて思った。しかし意外でもあった。彼女の口から冗談が飛び出すとは、今の今まで考えもしていなかったから。
「家の者から、たまには冗談の一つでも言ってはどうかと言われたので、試してみました」
「あ……ああ、そう……」
「では失礼します」
ちょこんと可愛らしい会釈をしつつ、彼女も図書室内へ。そしていつもの……もはや彼女の指定席となった、テーブル最奥の席へと腰を下ろす。もちろんその表情には微塵も変化というものが見られなかったが、それもいつものことである。




