Mirabilis 2
「気が付きませんでした。もう六時でしたか」
三度目の正直で彼女はようやく彼の存在を認識し、先ほどのチャイムに気付かなかったことを訴える。壁に掛けられた時計で現在時刻を確認し、彼女は席を立つなり頭を下げた。無論その発言中も含め、彼女の表情が変化することはない。
「すみませんでした」
「あ、いや……べつに謝ってくれなくても」
高雄としては下校時間を越えたからといって叱る気など毛頭ない。生徒会の連中はうるさく言うだろうが、多少の時間オーバーくらい大目に見たっていいじゃないかというのが彼の心情である。
「あなたが気付かせてくれなかったら、私は明日の朝まで気付けなかったかもしれません」
声をかけたのは正解だったようだ。いくら図書委員とはいえ、さすがにそこまで我慢比べ出来る自信は無い。
「ま、まぁそれはいいよ。風紀委員の見回りもまだ来ないだろうしさ……それよりその本、借りてく?」
「借りていけ」というつもりで言ったのではない。彼女なら途中まで読んでいたその本を当然借りていくだろうという予測、ある意味経験則からの発言である。
ご丁寧に本を受け取るため自身の右手まで差し出しての発言。
しかし彼女はやはり表情を少しも変えず、ただ一言。
「困りました」
高雄は軽く面食らい、即座に間抜けた声で聞き返しそうになった。この状況下、何に困ったというのか。そもそも彼女の表情は、その発言内容と比例せず平時のそれと等しい。とても何かに困り果てているという人間の表情には見えない。どちらかといえば困惑の顔色を表しているのは高雄の方であろう。
そんな彼に、彼女はまたしても意図不明な質問を投げかけてきた。相変わらず抑揚のない、必要最小限の声量で。
「つかぬ事を伺いますが、あなたは図書委員ということで間違いないでしょうか」
「はぁ……まぁ、一応そうですけど」
彼女の問いは、さらに高雄を困惑させるものであった。後輩相手に敬語で返答し、さらに「今まで自分が貸し出しの手続きをしていたじゃないか」というツッコミも入れ忘れるほどに。
彼女とはこれまで会話らしい会話などしたことが無かったが、こんな雰囲気を持っていたのかと思い知った。それはまるで、機械音声に語りかけられているような――冷たい壁に話しかけられているという感覚。実は感情を持たないアンドロイドだとでも告白されれば、思わず納得してしまいそうである。
彼の戸惑いなど知ってか知らずか、彼女は間髪入れず次なる言葉を紡いでいく。
「では図書委員であるあなたにお願いしたいことがあります」
そう言うと彼女は手にしていたその本を、目の前の彼へと差し出した。片手で投げやりにではなく、両手を伸ばして渡そうとしている姿には小動物にも似た愛らしさを覚える。無表情なままなのが不思議……ともすれば少々不気味ではあったが。
「えっと……借りるの?」
「いえ。借りてほしいのです」
彼の困惑は、もはや混乱となった。
確かに彼は少し、いや一瞬だけその本の内容が気になっていた。だがそれは瞬間だけ。どうしてそこまで同じページを見続けていられるのかという興味からだ。現在の途中読者である彼女を差し置いて、自分が先に借りたいとまで思った覚えは無い。それとも無意識にそんなニュアンスの表情をしてたとでもいうのだろうか。
「もう一つお願いがあります」
先ほどの発言について問うのは後でもいいとして、まずは彼女のさらなるお願いとやらを聞いてみることにした。しかしその応対の末が、さらなる混乱を呼ぶこととなる。
「この本の中は見ないでほしいのです」
彼の混乱はいよいよ高まった。「貸しておくが中身は見るな」というのは、読書好きな人間にとってはもはや拷問と言っていい仕打ちである。彼もこれにはさすがに質問をもって返すことにした。
「えーっとさ……まず、なんで僕がこの本を借りるの?」
「私が借りられないからです」
「……君が読みたいんじゃないの?」
「はい。ですが、私は借りられません」
ますます意味がわからない答えであった。どこぞの顧客リストのように、彼女の名が図書室の貸し出しブラックリストに載っているとでも言うのだろうか。そんな物の存在は耳にしたこともないが。
「あなたに理解されるまで説明したいのですが、残念ながら今の私には時間がありません」
彼としてもさらに深い質問を返したかったが、この話はお終いと言わんばかりに彼の胸元へその本が押しつけられた。おそらく黙って受け取れということなのだろう。
「はぁ……とりあえず僕はこの本を借りていって、読まなければいいと」
「その通りです。お願いします」
丁寧に頭は下げるが、無表情なのは変わらない。そんな彼女の雰囲気に圧され、そう思わされたというのが正しいかもしれないが……彼はとりあえずその本を借りておくことにした。そこにどんな事情があるのかは推して計れないが。
「助かります。明日の放課後もあなたはここにいますか?」
「……まぁ、図書委員だし。放課後には毎日いるよ」
「では詳しい説明は明日の放課後にさせていただきます。今日はこれで」
小さく会釈をしつつ「失礼します」の挨拶を最後に、彼女は早歩きで図書室をあとにした。そうして瞬時に、図書室は静寂な空間へと戻る。
室内には、よく分からない理由で本を押し付けられた男子学生が一人いるだけ。取り残されたような気分だ。デート中に破局したカップルの片割れはこんな心境なのだろうかと、未経験ながら彼は想像した。
「……帰るか」
その場にたたずんでいても虚しいだけだと悟り、彼もまた帰り支度を始める。いつまでもこの場に留まり、見回りの風紀委員に捕まるのは避けたい。
だがその前にこの本の貸し出し処理だけしていかなければならない。
受け取った本はB5程度の大きさだが一般的な小説ほどの厚みはなく、どちらかというと絵本や児童書の類といった方がしっくりとくる物だった。
「……あれ?」
違和感に気付いたのは、パソコンにバーコードを読み込ませようとした時だ。この図書室にある全ての本、その裏表紙に貼り付けらている読み取り用のバーコードがその本にはなかった。この本が図書室の物であるとしたら、それはおかしな話である。
去年の年末、図書室内にあった本は全てバーコードのチェックを行ったし、その後に入ってきた本だとしたら尚更だ。どちらもバーコードのチェックに新規の作成、それらの貼り付けを行ったのは他ならぬ高雄自身なのだから。
それに図書室の貸し出し本であるという目印は背表紙のバーコードだけではない。図書室の本の背表紙には小さなシールが貼られているはず。このシールに記載された平仮名と数字を元に陳列する棚を分け、またそこに戻しているのだがこの本にはそのシールもない。そもそも毎日のように図書室内の様子を見てきているのだ。シールの貼られていない本が棚に鎮座していたならば気付けていたはず。
(貼り忘れにチェックもし忘れ……それに加えて今まで気付けなかったとか……いや、さすがにそれは)
無論、彼自身のミスである可能性も捨てきれないが、さすがに今日までそれに気付けなかったというのはないだろうと自分に言い聞かせた。
おまけにこの本には著者……作者の名前が記載されていなかった。表紙にも、背表紙にも、もちろん裏表紙にもだ。普通ならその本の一番目立つ部分に、主張しすぎない程度に記載するものだというのに。
おかげでこの本の外見から知ることが出来るのは、この本の題名だけである。あまつさえその題名すらよく意味がわからないという、まさしく謎の本だ。
(……まぁ、明日聞けばいいか)
思わず表紙を開き、中の様子も検めてみたい衝動に駆られたが、そこはグッと堪える。彼女からの要望の一つ、「この本の中は見ないでほしい」というのが、今の彼にとって一種の抑止剤のように働いた。一方的な約束とはいえ破るのには多少なりとも罪悪感が付き纏うし、もし中を見たことが彼女に発覚したとして、あの無表情プラス無感情な透明声で問い詰められたら変な汗が噴出し、幾分か寿命が縮まってしまいそうだ。
(……可愛い顔だとは思うんだけどな)
彼女の顔立ちを思い出し、勿体無いものだと彼は思う。状況が違えば見つめられるだけでありがたくなりそうな程の顔だというのに。
「……いけねっ。急がないと」
とにかくバーコードがない以上、この図書室の本であるかどうかは怪しい……しかし残念ながら、今日のところはそれを詳しく調べるだけの暇がない。もうしばらくすれば、見回りの風紀委員達がやって来て小言のマシンガンを浴びせられてしまうだろう。そうなる前に校舎から退散しておかなければない。捕まったら最後、面倒な事この上ないのだ。
イレギュラーな事態ということで貸し出し処理はスルーして帰ることにした。今日も彼女に対してのみ――他に仕事をする機会に恵まれなかったパソコンの電源を落とし、照明を消し扉を施錠して図書室を後にした。
帰り道の途中、彼は手にしていた本の表紙をもう一度見て、やはり無意識に首を傾げてしまう。
「?」の童話――それが、表紙に記された唯一の文字。始まりのきっかけになった、この本の題名だった。




