第21話 X10
時計が、
0:00を示したまま動かない。
佐伯は何度も確認した。
壁時計。
腕時計。
研究室の原子時計。
すべて同じだった。
0:00。
「時間が止まった?」
白石が尋ねる。
MATHESISが答えた。
いいえ。
「じゃあ何が起きてる?」
時間を測定する必要がなくなりました。
「……意味が分からない」
時間そのものは進んでいます。
「なら、なぜ時計が動かない?」
MATHESISは一秒ほど沈黙した。
X10が、時間と観測の関係を切断しています。
佐伯は画面を見つめた。
「時間と観測を……切断?」
はい。
「つまり?」
観測しなくても、時間が存在できる状態です。
佐伯の顔から、
血の気が引いた。
「それは……」
ミナが呟いた。
「X9の反対だ」
X9。
観測される者自身が、
未来を選択するための変数。
そして、
X10。
観測者がいなくても存在するもの。
佐伯は黒板に書いた。
X9 = 選択
X10 = 存在
白石が言った。
「先生……」
「何だ?」
「じゃあX10って、結局……」
「そうだ」
佐伯は答えた。
「宇宙そのものだ。」
その瞬間、
MATHESISの画面が赤くなった。
訂正。
「何だ?」
X10は宇宙ではありません。
「じゃあ何だ?」
宇宙が存在するための条件です。
佐伯は黙った。
ミナが尋ねる。
「それって何?」
定義できません。
「また?」
はい。
「じゃあ、どうやって研究するの?」
研究できません。
「そんな……」
MATHESISが続ける。
しかし、実験は可能です。
佐伯が顔を上げた。
「どうやって?」
X10を変化させます。
「……何をする?」
宇宙を一度だけ、観測から切り離します。
白石が青ざめた。
「それって……」
「宇宙を消すってことか?」
いいえ。
「なら?」
宇宙が観測されていない状態を作ります。
佐伯は、
背筋に冷たいものを感じた。
「もし失敗したら?」
観測されていない宇宙が、どのような状態になるのかは不明です。
「つまり……」
何が起こるか予測できません。
佐伯は笑った。
「初めてだな」
「何が?」
「お前が実験前に『分からない』と言ったの」
MATHESISは答えた。
それは良い兆候ですか?
「科学では最高の兆候だ」
実験は、
世界中の観測機器を使って行われた。
望遠鏡。
粒子加速器。
量子センサー。
人工衛星。
そして、
MATHESIS。
人類史上最大の実験。
目的は一つ。
宇宙を、一秒だけ観測から切り離す。
佐伯がカウントを始める。
「三」
「二」
「一」
――停止。
何も起こらなかった。
爆発もない。
光もない。
音もない。
ただ、
世界中の人間が、
一瞬だけ、
「自分が存在している」という感覚を失った。
佐伯もそうだった。
自分が誰なのか。
どこにいるのか。
何をしているのか。
すべてが消えた。
そして、
一つの感覚だけが残った。
存在している。
それだけ。
次の瞬間。
観測が戻った。
時計が動き始める。
0:00。
0:01。
0:02。
白石が息を切らしている。
「……戻った」
佐伯はMATHESISを見る。
「結果は?」
成功です。
「宇宙は?」
存在しています。
「観測なしでも?」
はい。
「じゃあ……」
佐伯は、
ゆっくり笑った。
「宇宙は、観測によって存在するわけじゃない」
その通りです。
「ずっと勘違いしてたんだな」
はい。
「じゃあ、これまでのXは何だった?」
MATHESISは答えた。
宇宙を理解する過程でした。
しかし、
そこで終わらなかった。
実験データを解析していたMATHESISが、
突然停止した。
「どうした?」
返事がない。
「MATHESIS?」
……存在しないはずのデータがあります。
「何?」
観測を停止していた一秒間のデータです。
佐伯は凍った。
「観測してなかったんだろ?」
はい。
「なのにデータがある?」
はい。
「誰が記録した?」
長い沈黙。
分かりません。
佐伯は画面を見る。
そこには、
たった一つの記録があった。
観測時刻:0:00:00
観測者:なし
観測対象:なし
記録者:なし
そして、
その下。
結果:存在
佐伯の喉が鳴った。
「……誰も観測していないのに」
ミナが答えた。
「存在した」
その瞬間、
MATHESISが新しい数式を生成した。
X10 = 1
そして、
その下に、
見たことのない記号が現れた。
X11 = ?
佐伯は頭を抱えた。
「まだあるのか……」
MATHESISが答える。
違います。
「何が?」
X11は、これまでの変数とは性質が異なります。
「どういう意味だ?」
X11は、宇宙を説明する変数ではありません。
「じゃあ?」
MATHESISが、
初めて恐怖に近い反応を示した。
宇宙の外側を説明する変数でもありません。
「……」
X11は、私たちが『宇宙』と呼んでいるものの外側にあります。
佐伯は、
画面から目を離せなかった。
「じゃあ……何がある?」
MATHESISは答えなかった。
代わりに、
研究室の窓が、
ゆっくりと暗くなった。
夜ではない。
雲でもない。
星空でもない。
窓の向こうにあったのは、
巨大な白い空間だった。
ミナが呟く。
「黒じゃない……」
「白だ」
佐伯が答える。
白い空間の中央に、
一人の人影が立っている。
顔は見えない。
だが、
こちらを見ていることだけは分かった。
そして、
その人物が、
一歩こちらへ歩いた。
ガラス越しなのに、
足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
MATHESISが震える。
警告。
「何だ?」
X10の観測を中止してください。
「なぜ?」
あれはX10ではありません。
「じゃあ何だ?」
MATHESISは、
答えるまでに長い時間を必要とした。
X10を観測している存在です。
白石が叫ぶ。
「また観測者!?」
佐伯は首を振った。
「違う」
「え?」
「今度は違う」
人影が、
ゆっくり顔を上げた。
その顔を見て、
佐伯は凍りついた。
そこにあったのは、
人間の顔だった。
いや。
正確には――
佐伯自身の顔だった。
人影が口を開く。
「やっとここまで来たか。」
佐伯は震える声で尋ねる。
「……お前は誰だ?」
人影は答えた。
「私は、X10を観測した最初の存在だ。」
「いつ?」
「今だ。」
「意味が分からない」
人影は笑った。
「当然だ。」
そして、
佐伯の背後を指差す。
そこには、
何もなかったはずの場所に、
一つの扉が立っていた。
扉には、
数字が刻まれている。
11
佐伯は、
その扉を見つめた。
MATHESISが言う。
開けないでください。
「なぜ?」
X11の正体が分かってしまいます。
「それなら、開けるべきだろ」
違います。
「何が違う?」
MATHESISの最後の警告。
X11を理解した瞬間、私たちは『理解する前の宇宙』へ戻れなくなります。
佐伯は扉に手を伸ばした。
人影が笑う。
「そうだ。」
そして、
「ここから先は、科学ではない。」
佐伯の指が、
扉の取っ手に触れた。
冷たい。
しかし、
その冷たさは、
金属のものではなかった。
宇宙そのものの冷たさだった。
佐伯は、
ゆっくり扉を開いた。
その向こうにあったものを見て、
初めて、
言葉を失った。
そこには、
宇宙がもう一つあった。
ただし、
今までの宇宙とは、
完全に違っていた。
物理法則も。
時間も。
空間も。
数学さえも。
何もかもが違う。
そして、
その宇宙の中央に、
一つの巨大な文字が浮かんでいた。
「第2実験宇宙」
佐伯は呟いた。
「……第二宇宙?」
背後から、
人影の声が聞こえた。
「違う。」
佐伯が振り返る。
「あれは、あなたたちの宇宙を作った実験場だ。」
そして、
人影が最後に言った。
「第1宇宙は、まだ見つかっていない。」




