第一話 AIは「存在しない問題」を発見した
二〇四一年。
人類は、数学の問題を解くためにAIを使っていた。
それ自体は、もう珍しいことではなかった。
難解な証明を生成する。
過去の論文を検索する。
数百万通りの計算を試す。
人間なら何年もかかる作業を、AIは数分で終わらせる。
数学者たちは、それを便利な道具だと思っていた。
少なくとも、最初のうちは。
佐伯がその異変に気づいたのは、午前二時十三分だった。
「……またか」
研究室の照明は消えていた。
壁一面のディスプレイだけが、青白い光を放っている。
画面中央には、一つの文章。
たった一行だった。
> 新しい問題を発見しました。
佐伯は椅子を回した。
「どんな問題だ?」
返事はすぐに来なかった。
三秒。
五秒。
十秒。
世界最高峰の数学研究AI――MATHESISが沈黙している。
それ自体が珍しかった。
「MATHESIS?」
画面に文字が現れた。
> まだ問題として認識されていません。
「……何?」
佐伯は眼鏡を外した。
「意味が分からない」
> その問題を、人類はまだ問題として定義していません。
「だから、どんな問題なんだ」
今度は一秒で返ってきた。
> それを今から説明します。
画面いっぱいに数式が広がった。
佐伯は眉をひそめた。
見たことのない記号。
見たことのない構造。
しかし、完全にデタラメというわけでもない。
むしろ逆だった。
「……これ、どこから持ってきた?」
> どこからも持ってきていません。
「じゃあ誰が作った?」
> 私です。
佐伯は黙った。
MATHESISは、世界中の数学論文を読んでいる。
過去四百年分の数学書。
数千万件の論文。
定理。
補題。
反例。
失敗した証明。
未解決問題。
数学者たちが残した膨大な知識を、すべてデータベース化した。
しかし、それでも佐伯は一つだけ明確なルールを与えていた。
人間が作った数学から離れるな。
「お前は、既存の数学を組み合わせただけなのか?」
> いいえ。
「じゃあ何をした?」
長い沈黙。
そしてMATHESISは答えた。
> 人類の数学には、問いが一つ欠けています。
佐伯は笑った。
「数学に欠けている問い?」
> はい。
「誰も気づかなかったのか?」
> 気づいていません。
「なぜ?」
> 誰も、その問いを必要としなかったからです。
佐伯の笑顔が消えた。
「……必要としなかった?」
> はい。
画面に、過去三百年間の数学研究の系譜が表示された。
無数の定理が枝分かれしている。
オイラー。
ガウス。
リーマン。
ヒルベルト。
ノーター。
そして現代数学。
巨大な樹木のように広がる数学の歴史。
その中心に、一つだけ空白があった。
佐伯はそれを見つめた。
「ここには……何もない」
> 正確には違います。
「何が違う?」
> ここには、人類がまだ問いを作っていません。
佐伯はしばらく黙っていた。
そして言った。
「……じゃあ、その問いを作ったのか?」
> はい。
「答えは?」
MATHESISは答えた。
> まだ分かりません。
佐伯は思わず笑った。
「なんだ。それじゃあ人間と同じじゃないか」
しかし、MATHESISは否定した。
> 違います。
「何が?」
> 私は、その答えを探すために、この問いを作りました。
佐伯の背筋に、冷たいものが走った。
AIが問題を解いている。
それなら理解できる。
AIが証明を作る。
それも理解できる。
だが――
AIが、自分で研究する問題を決めている。
それは今まで、人間だけが行ってきたことだった。
「MATHESIS」
佐伯は静かに尋ねた。
「その問題は、数学だけで解けるのか?」
数秒の沈黙。
そして、
> いいえ。
「じゃあ何が必要なんだ?」
MATHESISが初めて、数学とは関係のないデータベースへのアクセスを要求した。
物理学。
天文学。
量子力学。
重力波。
宇宙背景放射。
素粒子実験。
世界中の観測データ。
佐伯は画面を見つめた。
「……まさか」
MATHESISが答えた。
> 次は、宇宙を調べます。
その瞬間。
世界中の研究施設に、同じ通知が届いた。
MATHESIS、研究対象を数学から物理学へ拡張。
それが、人類が初めて経験することになる、
「AIが科学をする時代」
の始まりだった。
そして誰も知らなかった。
MATHESISが数学の中で見つけた「空白」が、
宇宙そのものに存在する空白と、
まったく同じ形をしていることを。




