第八話
声をかけようとした言葉が、喉の奥で凍りつく。
その人影は、ただそこに立っているだけだった。しかし、生物としての本能が、全身の毛穴を開かせて叫んでいた。──あれに近づいてはいけない。あれと関わってはいけない。
人影が、すっと片足を前に踏み出した。
歩くような動作ではない。まるで地面を滑るように、けれど確実に、僕との距離を詰めてくる。顔は見えないはずなのに、凝固した圧倒的な悪意の視線が、僕の身体を射抜いているのが分かった。
「ひっ……!」
情けない悲鳴が漏れた。
僕は弾かれたように反転し、公園の出口とは反対の方向へ向かって全力で走り出した。
体の全細胞が「危険だ」と言っているようだった。後ろを振り返る余裕なんてない。アスファルトを蹴る自分の足音だけが、静まり返った街に異様に大きく響き渡る。プロローグの時ほどの絶望的な切迫感はまだないかもしれないが、それでも恐怖で心臓が破裂しそうだった。
とにかく遠くへ、あの影から離れなければ──。
そう願って必死に足を動かした瞬間、目の前の景色が急激に歪み始めた。地面がぐにゃりと傾き、視界全体が強烈な目眩とともに暗転していく。
「あ──」
足元がすっぽりと抜け落ちるような感覚のあと、僕は激しい衝撃とともに跳ね起きた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
激しい呼吸の音だけが、静かな自室に響く。
目を開けると、そこは見慣れた天井だった。窓の外からは、うっすらと朝の鳥の鳴き声が聞こえてくる。
僕は自分のベッドの上にいた。パジャマの背中は、嫌な汗でぐっしょりと濡れている。
「夢……だよな」
枕元に置いたスマートフォンを確認する。時間は朝の六時すぎ。いつも通りの、学校へ行く前の現実の朝だ。
時計の規則正しい秒針の音が、僕の荒れた呼吸を少しずつ静めていく。
ただの悪夢。そう割り切ろうとしても、手のひらに残るアスファルトの冷たい感触や、あの歪んだ人影の気配が、どうしても頭から離れなかった。
あれは、本当にただの夢だったのだろうか。
胸の奥に残る得体の知れない疑念を抱えたまま、僕は重い身体を起こした。




