プロローグ
息が、続かない。喉の奥が焼けるように熱く、心臓が肋骨の内側を激しく打ち付けている。
白峰遥は、走っていた。アスファルトを蹴る自分の足音だけが、異様なほど大きく周囲に響き渡る。
逃げなければならない。それ以外の思考は、とっくに麻痺していた。背後から迫る「何か」に対する極限の恐怖だけが、泥のように重い両足を無理やり動かしている。なぜ自分がこんな目に遭っているのか、なぜ追われているのかを考えても悔やみきれなかった。どうして、実行してしまったのだろう。
だが今できることは、逃げること。ただ「それ」から逃げること、それだけだった。
視界をよぎる景色は、見慣れたはずの地元の街並みに酷似していた。しかし、決定的に違っている。立ち並ぶ電柱、見覚えのある看板、並ぶ自動販売機。その全てがそこにあるというのに、世界の「音」が完全に消え去っていた。車の一台も通らず、風の音すらしない。何より、自分以外の人間が誰一人として存在しなかった。
世界から自分とあの追跡者だけを残して、すべての生き物が切り取られてしまったかのような圧倒的な静寂と孤独。空間そのものが微妙に歪み、現実の皮を被った偽物の街に入り込んでしまったかのような、強烈な夢の違和感が遥を包み込んでいた。
曲がり角を抜けた時、視界の隅に緑色の筐体が飛び込んできた。歩道の脇にぽつんと佇む、古びた公衆電話ボックスだ。
──ジリリリリリリリンッ!
鼓膜を突き刺すような鋭い呼び出し音が、誰もいない街に鳴り響いていた。まるで、自分がここを通ることを知っていたかのようなタイミングだった。
遥は引き寄せられるようにボックスの扉を開け放ち、狭い空間に滑り込んだ。追いつめられた獣が穴ぐらに逃げ込むように、すがりつく手つきで受話器を取り、耳に押し当てる。
「もしもし……っ!」
激しい息切れの隙間から、声を絞り出す。受話器の向こうから聞こえてきたのは、酷い砂嵐のようなノイズだった。ザザ、ザザザと鼓膜を揺らす不快な音の向こう側で、かすかな気配が揺れる。
『……あ……て……』
それは、少女の声だった。ひどく遠くから響いているようで、けれど同時に、脳裏のすぐ近くで響いているようでもある。遥はその声に、なぜか奇妙な聞き覚えがあるような気がした。しかし、それが誰なのかを思い出すより早く、ノイズがひときわ大きく弾ける。
『──にげて!!』
鼓膜が破れんばかりの、必死な叫び声だった。会話を交わす間などなかった。直後、ツーツーという無機質な切断音が冷たく響き、通信は完全に途絶えた。
「え……?」
呆然と受話器を握りしめたまま、遥の身体が凍りつく。電話ボックスのガラス窓のすぐ向こう。背後の空間が、急速に冷え切っていくのが分かった。生物的な直感が、最大の危機を告げて警報を鳴らしている。
そこに、いる。
ゆっくりと、首を後ろへと巡らせた。
ガラス越し、数歩も離れていない静寂の闇の中に、「それ」は佇んでいた。人の形をしているようで見えるが、絶対に人ではないと本能が理解する。輪郭は陽炎のように曖昧で、どれだけ目を凝らしても正体を視認することはできない。ただ、凝固した絶対的な悪意だけがそこにあった。
一瞬、恐怖のあまり瞬きをした。
その、ほんのわずかな隙。目を離した刹那の瞬間に、「それ」との距離がゼロになった。
「あ──」
ガラスが割れる音すら聞こえなかった。冷徹な闇が遥の視界を塗りつぶし、彼の意識は深い底へと引きずり込まれていった。




