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第二章、盗難事件

 十影はしばらくの間なんと応答したらよいのかまったくわからず、その場に呆然と突っ立っているだけだった。正直なところ、急展開過ぎてまったく状況についていけていない。旧美術準備室を出てから十分も経っていないにもかかわらず、十影の回りには怖い顔をした複数の生徒がいて、全員がそろいもそろってなぜかはわからないが十影に向かって疑いの眼差しを向けている。これで状況を理解しろという方に無理があるだろう。

「何の話だ?」

「とぼけるつもり?」

 何か言おうとすれば、即座に非難の言葉が返ってくる。状況は思ったよりも深刻らしい。だが、何がどうなってこんな状況になっているのかまったくわからない。今ここで自分を詰問しているこの女子生徒は何者で、どうしてこんなに詰問されているのかさえ不明だ。

「ふざけるも何も、何の事かさっぱりわからない。そもそもお前は誰だ? それくらい教えてくれてもいいだろう」

 とにかく、それがわからない限り話が進まない。すると、十影の言葉に対して彼女自身も確かにそうかと思ったのか、厳しい表情を崩さないまま言葉を発した。

「私は三河律子。五組の副委員長よ。あなたは四組の十影君でしょ。こっちはそのつもりでこうして質問しているつもりよ」

 彼女……三河律子はそう言ってキッと十影を睨んだ。

「とにかく、何がどうなってるのか説明してくれ。俺も何を答えたらいいのかわからん」

「あくまで白を切るの? いいわ」

 そう言うと、律子は後ろに控えている別の女子生徒の方を示した。示された女子生徒はどこか当惑した表情をしている。

「えっと、あなたは……」

 どこかで見たような気がする。彼女を見た瞬間に最初に十影の頭に浮かんだのはそんな思いだった。が、十影が思い出す前に律子が答えを告げる。

「一組の委員長の玉村早苗さん」

 言われて十影も思い出した。特徴的なブラウンの髪の毛。昼休みに話題になっていた一組の委員長その人ではないか。

「彼女が何か?」

「白々しい」

 律子は憎々しげに十影を見ながら断定するように言った。

「あなた、玉村さんの財布を盗んだでしょ。さっさと出しなさいよ!」

 一瞬何を言われているのか十影にはわからなかった。そして、その意味がわかった瞬間、十影の頭は真っ白になってしまった。

「な、何を言って……」

「とぼけるのもいい加減にしなさいよ! あなたが玉村さんの財布を盗んでしょ!」

「冗談じゃない!」

 十影は思わず叫んでいた。事情はまったくわからないが、自分はどうやら財布泥棒の疑いをかけられているらしい。

「言い逃れする気?」

「言い逃れも何も、覚えがない! 大体、どうして俺がやったって事になってるんだ?」

 ある意味当然過ぎる疑問だった。

「ねぇ、三河さん。やっぱり、間違いじゃないの?」

 と、ここで初めて早苗が不安そうに発言した。だが、律子は当の被害者であるはずの早苗の言葉を聞き入れる様子もなく、十影に詰め寄る。

「残念だけど、状況的にあなたしかいないのよ。彼女の財布を盗めたのはね」

「だから、その状況を説明してくれ。それがわからないと俺としても何も言えない」

「この期に及んで……」

「待って」

 律子の言葉を止めたのは意外にも早苗だった。

「このままじゃ、話が全然進まないわ。確認のためにも、もう一度状況を整理しようよ」

「必要ないわよ。やったのはこいつなんだから。下手に説明して付け入る隙を与えたくないし」

 取り付く島もない。完全に犯人扱いだった。律子は最初から十影が犯人であるという可能性以外考えていないようだ。むしろ被害者の早苗の方がまだ冷静に物事を見ている。

 だが、周りの女子たちは律子の意見に賛成らしく、「そうよそうよ」とはやし立てている。だんだん騒ぎが大きくなり、野次馬も集まり始めていた。

「だったら、いくらでも身体検査してくれよ。それで財布がなかったら疑いは晴れるはずだ」

 しかし、十影の妥協案に対しても、律子は一歩も引かない。

「盗まれたのは財布よ。現金だけ抜いて財布を捨てられていたら意味がないわ」

「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

 十影はだんだん気持ちがイライラしてきていた。話がまったく通じない。どころか、相手は一切事情を話さないまま自分を追い詰めようとしているように見える。とにかく、このままではまずいというのはよくわかっているのだが、打開策がまったく見えない。

 それに対し、律子がした要求は単純明快だった。

「簡単よ。盗んだお金を玉村さんに返しなさい」

 十影は一瞬呆気にとられ、次の瞬間には本気で腹が立っていた。

「ふざけるな! 盗んでもいないものを何で返さないといけないんだ」

「あなた以外に盗めた人間はいないのよ。だったら、犯人のあなたが返さないでどうするの」

「だから、いったいどういう状況で盗まれたんだよ」

「私が言う必要ないわ。自分の胸に聞きなさいよ」

 だんだん回りに生徒たちが集まってきた。しかも、今の会話から十影財布を盗んだという事が事実として伝わっているらしく、十影に対する冷たい視線が強くなっていく。同時に、「あいつ財布盗んだんだ」とか「最低」とか、明らかな悪口が出るようになっていた。当の十影自身、いつの間にか壁際に追い詰められ、何がどうなっているかわからなくなってきている。

「今返してくれたら先生にも言わないであげる。あなたもこれ以上大事になるのは嫌でしょ?」

 律子が勝ち誇ったように言った。

「俺は……」

「三千円。彼女の財布に入っていた金額よ。早く出しなさい。それで丸く収まるんだから」

 律子は有無を言わさずに要求する。当の早苗はただどうしたらいいのかわからないというようにその場に立っている。

 その他の生徒たちは、皆一様に十影の方を見て非難の言葉を口に出している。十影に味方は一切いない。そんな中、十影の心は崖淵まで追い詰められていた。

 十影の頭の中には、あの二年前の光景が蘇っていた。誰も味方をしてくれず、周囲の人間すべてが敵だったあの事件の……。

 十影の思考がだんだん麻痺をしていく。今、自分がどんな状況に置かれているのかさえわからなくなっていく。気がつくと、十影は無意識のうちにポケットからノロノロと財布を取り出していた。もうどうなってもいい。とにかく、この状況から一刻も早く抜け出したい。もはや、十影の頭の中にはそれしかない。

「さぁ、早く」

 律子が催促し、十影はどこか青ざめた表情のまま言われるがままに財布から千円札を取り出そうとする。これで勝負は決まったかのように思われた。

 まさにその瞬間だった。

「あなたたち、何してるの!」

 突然、廊下の向こうから誰かが走ってくると、十影の前に立ちふさがったのだ。急な出来事に、その場にいる誰もが反応できずにいる。

「せ、先生……」

 最初に我に返ったのは十影だった。目の前に十影のクラスの担任、宮下亜由美が立っていた。

「これはどういう事なの? 十影君が何かしたの?」

 亜由美は普段通りの声のトーンでありながら、それでいながらどこか厳しさのようなものが含まれた声色で周りを囲んでいる生徒たちに尋ねる。

「ええっと、実は……」

「十影君が玉村さんの財布を盗んだんです」

 早苗が説明する前に、律子が断定するように亜由美に申告する。

「財布を盗んだって……本当なの?」

 これに対して、亜由美は少し驚いた様子で律子に聞き返した。

「間違いありません。だから、こうして十影君にお金を返してもらうように言っているんです」

 自信満々に律子は言う。十影は思わず目を閉じて絶望に打ちひしがれた。これだけ断定的に言われれば、普通の先生なら何の疑いを抱く事もなく自分を犯人だと決め付けてしまうに違いない。十影は亜由美から厳しい言葉が投げかけられるのを覚悟した。

 ところが、亜由美の口から発せられたのは思いもよらない言葉だった。

「目撃者でもいたの?」

 その言葉に律子は虚を突かれたような表情をした。当の十影自身も驚いて亜由美の方を見る。亜由美の口調は普段と変化はなく、まるでHRで誰かに質問したときとほとんど同じだった。

「いえ、それはいませんけど……」

「だったら、どうして彼が犯人だとそこまで断定できるの?」

 亜由美は淡々と問い続ける。ただ一方的に律子たちの意見を聞いているというわけではない。あくまで客観的に、第三者として意見を聞こうとする姿勢が、そこにはあった。

「だって、十影君しか財布を盗むのは無理だから……」

「でも、彼が直接財布を盗むのを見たわけじゃないのよね?」

 亜由美はソフトに問いかける。律子は完全にペースを崩されているようだった。

「それは、そうですけど……」

 そこまで聞くと、亜由美は十影の方を振り返った。

「十影君、聞いてもいい? あなたは、三河さんが言うように財布を盗んだの?」

 亜由美は、十影の目をしっかり見て聞いた。その態度に十影は思わず本音を口走っていた。

「盗んでいません。本当です」

 その言葉に、亜由美はしばらく十影の目をジッと見ていた。が、やがて微笑んでこう告げる。

「だったら、その財布はしまっておきなさい。やってないのにお金を返したら、自分がやったと認めたのと同じになるわよ」

 十影は慌てて財布をポケットに戻した。一瞬でも亜由美の到着が遅かったら、あのままやってもいない事を認めてしまうところだった。その事実に、十影は改めて背筋を凍らせる。

「先生! 犯人を庇うんですか?」

 律子が信じられないといった表情で亜由美を見る。

「別にそんなつもりはないわ。でもね、彼が犯人だなんてまだ決まっていないわよね。だったら庇うも何もないと思うけど」

 静かに、だが、しっかりした口調で亜由美は言った。

「だって、今まさにお金を返そうと……」

「これだけの人間に取り囲まれて詰問されたら、やってもいない罪を告白する気にもなるわ」

 亜由美は小さくため息をつきながら告げる。しかし、律子は納得できない様子だった。

「そんな事あるわけないです。私だったら絶対認めるわけがない」

「残念だけどね。人間の心っていうのは自分が思っているほど強くはないのよ」

 亜由美はなぜか少し重苦しい表情でそう言った。何か思うところでもあるようだが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。

「で、でも、状況的に十影君しか財布を盗むのは無理なんです」

「どんな状況?」

 律子の反論に亜由美は聞き返す。律子が一瞬詰まった。

「……三河さん。先生も来た事だし、せっかくだからここで一度話しておいた方がいいんじゃないかな。多分、十影君もそれを聞きたがってると思うし」

 と、早苗が提案する。さすがの律子も、この状況ではそうするしかないというのはわかっているようで、唇を噛み締めるようにしながら、

「わかったわ……」

 と、早苗に話を促した。それを受けて、早苗は財布紛失の流れを話し始める。

「私、放課後部活見学に行くことにしたんです。けど、今日は運動部を中心にいくつも周るつもりだったから貴重品が心配になって……」

「置いておく事にしたのね?」

 亜由美が確認するように聞き、早苗は小さく頷いた。

「どこに置いたの?」

「旧校舎の二階にある部活用の共同ロッカールームです。いくつか並んでいる教室のそれぞれに鍵付の個人ロッカーがあって、運動部の女子は部活前に貴重品をそこに預けるんだそうです。男子の個人ロッカーは向こうの部室棟にあるみたいですけど」

 そう前を帰して、早苗は事の次第を話し始める。

「十五時半頃に放課後になって、それから委員長の仕事が少しあったから……十六時くらいに私は旧校舎のロッカールームに向かったんです。それで財布だけをロッカーに預けてそのまま部活見学に行ったんですけど……終わって帰ってきたらロッカーから財布がなくなっていて」

「それで、どうして十影君が犯人だという話になったのかしら?」

 亜由美が当然の質問をする。

「それは、旧校舎に続く渡り廊下の前で蛍光灯の修理業者の人がずっと作業していて、その人に聞いたら、玉村さんたちが旧校舎を出た後に渡り廊下を渡っていったのは、一年生の校章をつけた男子が一人だけだってわかったんです」

 律子の言葉に、十影は渡り廊下を渡った時に見た修理業者の人の姿を思い出していた。

「旧校舎にあるのは問題のロッカールームと、いくつかの部活の部室、それに空き教室だけです。女子専用の個別ロッカー室はもちろん、旧校舎に部室を置く部活も全員勧誘活動に出ていて部室には誰もいないから、入部希望者があの旧校舎に行く事はない。つまり、あの旧校舎に一年生の男子生徒が入る事自体がおかしいんです」

 律子は興奮した様子で自分の推論を言う。確かに、客観的に見てみれば十影の行動は不自然としか言いようがない。十影はようやく自分がなぜ疑われる事態になったのかを理解した。

「空き教室に用があったとは思えないし、鍵のかかっているそれぞれの部活の部室になんて入ることさえできない。となると、残るは女子のロッカールームしかないじゃない。盗み以外に男子のあなたが女子のロッカールームに何の用があるっていうのよ?」

 律子は厳しい表情で十影を詰問する。

「だから、俺はロッカールームなんて行ってない!」

「じゃあ、他にあの旧校舎でどこに行く場所があるのよ! まさか空き教室に用があったなんて言わせないわよ」

 そのまさかなのだが、それを言ったところで納得してくれそうな雰囲気ではない。十影は荒廃した空き教室の様相を呈している旧美術準備室の光景を思い浮かべながら反論した。

「そもそも、どうしてその生徒が俺だってわかったんだ?」

「簡単よ。私たちが渡り廊下の新校舎側の前で大騒ぎしていたら、あなたが渡り廊下の向こうからやってきたんだもの。ちょうどあなたと同じクラスの子がいて、すぐにあなただとわかった。だから、あなたに気づかれないようにみんなで昇降口に先回りしたってわけ。校舎から出るには必ずここに来ないといけないから……」

「ちょっと待って」

 と、ここで突然亜由美が律子の発言を止めた。

「どうも時系列が判然としないわね。ここで一回今までの流れを整理したいんだけど」

「整理、ですか?」

 早苗が戸惑ったように言った。

 その様子を見て、当の十影自身も少し不思議な感じがしていた。亜由美の言動は何となくこういう事に手馴れているという感じがする。ただでさえ年齢の割には大人びていてミステリアスな先生という印象だが、ますますその正体が謎に包まれていくような感じがした。他の面々も同じように感じているのか、誰もが不思議そうな表情を亜由美に向けている。

 だが、亜由美はそれを知ってか知らずか話を先に進める。

「まず確認するけど、玉村さんが財布を旧校舎の個人ロッカーに預けたのは何時のこと?」

「十六時少し前です。三河さんや他に何人かと一緒に行きました」

 律子や近くにいた女子生徒が頷く。そこで、亜由美は十影を振り返った。

「十影君、はっきりさせておきたいんだけど、あなた旧校舎に行ったの?」

 その言葉に十影は少しためらったが、ここで嘘をつくのは逆効果にしかならないと判断して、

黙って正直に頷いた。これに対し、亜由美は気にする様子もなくすぐに十影に質問する。

「十影君が旧校舎に行った時間は?」

「えっと、十六時過ぎくらいでした」

「三河さんは玉村さんが旧校舎から出た後の人の出入りを修理業者の人に聞いたのよね?」

 突然呼びかけられて律子も戸惑った表情をする。

「そうですけど。そもそも、業者の人は授業が終わってから五分くらい経ってから作業し始めたらしいんですけど、その間に旧校舎に入って行ったのは、荷物を預けに来た私たちとそこの十影君だけだそうです」

 その言葉に十影は違和感を覚えた。律子の話が本当だとするならば、旧美術準備室にいた彼女……金津麟五はいつ旧校舎に入ったというのだろうか。授業が終わるまでは確かに教室にいたはずだ。だとするなら、その業者が来るまでの五分間の間に旧校舎に入ったという事になる。どれだけあの場所が好きなんだよ、と、十影は思わず心の中で突っ込んでいた。

 と、そこまで考えたところで十影はふと思いつく。犯人が自分でないなら、他に旧校舎にいた人間が犯人という事になる。ということは、当然麟五も容疑者の一人になるのではないか。

 十影の頭の中に、まだ見ぬ共同ロッカールームに忍び込んで、こっそりと財布を盗もうとしている麟五の姿が浮かぶ。が、はっきり言って、その姿はあまりにも似合っていない。十影は思わず頭を振ってそのイメージをかき消した。

 そうこうしているうちに、亜由美が続けざまに早苗に質問する。

「なら、玉村さんが出て行った直後に入れ替わるように十影君が旧校舎に入った事になるわね。それで、玉村さんが財布を盗まれた事に気がついたのは?」

「十七時半頃です。参加していた部活が終わったので、財布を預けたのと同じメンバーで旧校舎に戻ったら、財布がなくなっていて……」

「それで、慌てて渡り廊下の前にいた修理業者の人に、人の出入りを聞いたんです。何か見ているんじゃないかと思って」

 律子が早苗の言葉を引き継ぐように言い、亜由美が小さく頷きながら話をまとめた。

「そしたら十影君が旧校舎から出てきて、そのまま昇降口で待ち伏せした、と。なるほどね」

 改めて考えると、やはり麟五が犯人というのは無理があるようだ。肝心の財布がなければ盗みなどできないから、盗みが起こったのは財布が預けられた十六時から発見される十七時半までの間。その間、麟五は十影自身と一緒にいたのである。十影は十六時頃から十七時半まであの部屋を出ていない。つまり、彼女にも犯行は絶対不可能という事になる。

 麟五が犯人ではなかったという事に、なぜかホッとしつつ、十影はふと思い浮かんだ別のことを考えていた。これはそのまま自分のアリバイにもなるのではないだろうか。

「それで、肝心なことを聞くけど、あなたは一時間半も旧校舎のどこにいたの?」

 その瞬間、亜由美は突然十影の方に振り返って聞いた。一瞬、麟五の事を言っていいものかという思いが頭をよぎる。だがこのまま話さないと自分は財布泥棒の容疑者のままだ。何より、彼女の存在はそのまま自分のアリバイ立証になる。だとするなら、むしろ積極的に話すべきだ。

 十影はそんな風に心の中で言い訳じみた理論構築をして頭の中で麟五に謝ると、改めて自分の行動について話し始めた。

 

 ドアをノックしたが、相変わらず向こうから返事はない。だが、そんな事に文句を言っている暇もないので、十影は普段通りに旧美術準備室のドアを開けた。

 ドアの向こうには、さっき別れたときの姿から微動だにしないまま、夕日をバックに彼女……金津麟五が本を読んでいた。

「……何?」

 麟五は本から顔を上げる様子もなく、さっきと変わらない平坦な声で短く聞いた。

「もうここには来ないようにって、私はさっき言ったはず」

「いや、それが少し厄介な事になってだな」

 その言葉に、麟五は本から顔を上げると、十影の方を不快そうな顔で一瞥した。

「何かは知らないけど、騒がしいのは嫌いなの。こういう大人数で押しかけられるのは特に」

 十影の後ろには、亜由美を筆頭に、早苗や律子、それに彼女たちと一緒に十影を取り囲んでいた女子生徒たちが、やや呆れた様子で部屋の中を覗き込んでいた。

「金津さんよね。こんなところで何をしているの?」

「部活です。ドアの上に張り紙があります」

 担任である亜由美の問いにそう答えると、麟五は興味をなくしたように再び本に没頭し始めた。そんな麟五に対し、亜由美は怒るでもなく落ち着いた声で尋ね返す。

「あなた、ずっとここで本を読んでいるの?」

「ここに入りたいけど休部中。だから誰か他の部員が来るまで待ってる」

 麟五は本から顔を上げることなく答えた。

「ミステリー研究会……こんな部活あったんだ」

 早苗は驚いた声を出して教室内を見回している。それを尻目に、亜由美は十影に向き直った。

「つまり十影君、あなたは旧校舎に来てからずっと彼女と一緒にこの部屋にいたという事?」

 その言葉に、十影は深く頷いた。と、不意に律子が問い詰めるように会話に割り込んでくる。

「待ってよ。こんな子のことなんて修理業者の人は言っていない。どこから入ってきたの」

 その問いに対しては、麟五が声色を返ることなくただ淡々と答えた。

「授業が終わってすぐにここに来た。私が来たとき、そんな業者はいなかった」

「それって、授業終了から業者の人が渡り廊下に来る五分以内に旧校舎に入ったって事よね」

 早苗が恐る恐る聞くと、麟五は黙って頷いた。つまり、さっき十影が予想した事がそっくりそのまま正解だったという事らしい。誰もが呆れた様子で彼女を眺めていた。

「十影君がこの部屋の来たのは何時頃で、出て行ったのは何時頃だったかしら?」

「来たのが十六時頃で、帰ったのが十七時半頃。一度も部屋を出ていない」

 亜由美の問いに、麟五は淡々と答えていく。

「だったら、いくら旧校舎にいても財布を盗むなんて無理なんじゃ……」

 早苗の気まずそうな言葉に、律子は狼狽した表情をしている。

「でも……そんな……だって……」

 と、十影は不意に視線を感じた。振り返ると麟五が本から顔を上げジッとこちらを見ている。

「何があったの?」

「ああ、実は……」

 十影は今までの騒動の一部始終を麟五に話した。

「……そう」

 聞き終えると、麟五は短くそう言って、何の感想もないままそのまま本に目を戻そうとした。どうやら、本当に興味がないらしい。とはいえ、とにかく聞くべき事は聞けたので、十影としてはそれでも別に構わないと思っていた。

 だがその時、律子が叫ぶように言った。

「待ってよ! そもそもこの二人がグルだったらどうなのよ」

 その言葉に、麟五はピクリと体を動かした。

「考えてもみてよ。結局、財布を預けてから財布がなくなるまでの間にこの旧校舎に入っていたのがこの二人しかいないのは間違いないはずでしょ」

「確かに、その点は間違いないみたいね」

 そう言ってから亜由美は麟五に聞いた。

「金津さん。あなた、授業終了後すぐにここに来たのよね。他に旧校舎に入った人はいた?」

「いない」

 即答だった。

「つまり、業者の人が来るまでの五分間も、この旧校舎に入ったのは彼女一人だった。だったら、財布を盗んだのは二人のどちらかしかありえないじゃない」

「でも、この二人には一緒にいたっていうアリバイが……」

「そんなの、二人で言い合わせているだけかもしれないじゃない。だって、それを証明できるのは、この二人だけなんだから」

 早苗の言葉をさえぎっての律子の告発に、麟五はしばらく本に目を落としたまままったく動かなかった。奇妙な沈黙がその場を支配する。しかし、しばらくした後、麟五はまたゆっくりと顔を上げて、前髪の奥から律子を見据えた。

「私がやったという事?」

「違うの?」

「……答える必要もない」

 簡単な答えだった。

「大体、こんな場所にいる時点で怪しいのよ。空き教室に隠れていると怪しまれるから、わざわざありもしない部活の名前を書いた紙を張っただけなんじゃないの?」

 律子の挑発とも取れる言葉に対して、麟五はただ無言で律子を見つめているだけだ。

「ねぇ、さすがにそれは考えすぎなんじゃ」

 早苗が言うが、律子も引っ込みがつかなくなっているのか追求をやめようとしない。

「だって、他に考えようがないじゃない! どうしてこんなやつの言う事なんか信じるのよ!」

 ついさっき会ったばかりなのに「こんなやつ」呼ばわりとは、ずいぶん嫌われてしまったようだ。十影は少し自嘲めいた感想を抱いていたが、それに対する麟五の答えは短かった。

「理解できない。そんなに十影君を犯人にしたいの?」

 端的で、でも的確な一言だ。だが、律子は言い返してくる。

「だったら、他に誰がやったっていうのよ!」

 その言葉に、麟五は顎に手をやって、しばらく何か考え込むような動作を示した。が、それからしばらくして、黙ったまま本を椅子の上に置いてその場に立ち上がり、スカートから埃を払うと、そのままスタスタと部屋を出て行こうとした。

「どこ行くの?」

 早苗が不思議そうに聞く。それに対する麟五の答えは簡単だった。

「共同ロッカールーム」

 唖然とする十影たちを尻目に、麟五は背中を向けたままこう付け加える。

「疑われるのは性に合わない。疑いは自分で晴らす。それが私のやり方」

 そのままさっさと歩いていく麟五を見て、十影たちも一瞬顔を見合わせると、慌てて後を追った。何かが動こうとしている。そんな不思議な予感を十影は無意識に感じ取っていた。


 共同ロッカールームは旧校舎の二階にある。渡り廊下を渡り終えたすぐ左手に階段があり、そこを上がるとすぐ右手の窓から渡り廊下の屋根の部分が正面に見え、新校舎にいる生徒たちがここからでもよく見える。そして、左手に廊下を進むと問題のロッカールームが並んでいる。

 当然の事ながら十影は入った事はないのだが、中にはいくつものロッカーが整然と並んでいた。ただし、そのロッカーは駅などにあるコインロッカー式の小ぢんまりとしたタイプではなく、教室の掃除ロッカーのような縦長のそれぞれが独立したタイプだった。

「おかげで一つ一つのロッカーが場所をとって、三部屋も必要になったって、見学した部活の先輩が言っていました。中古品をあちこちから集めたもので、マスターキーもないそうです」

 律子が解説する。その間にも、麟五はさっさと部屋の中に入っていく。

「場所は一番奥よ」

 早苗の言葉に、麟五は教室の一番奥……一番窓際のロッカーの前に立った。ロッカーは扉が開けっ放しになっていて、中には何も入っていない。

「鍵は?」

 麟五の問いに、早苗はポケットから小さなバンドつきの鍵を取り出した。周りのロッカーを確認すると、鍵穴から鍵がぶら下がっているロッカーとそうでないロッカーがある。問題のロッカーの周辺のロッカーは鍵がなく、十影が試しに手近な扉を引っ張ってみても開かなかった。という事は、誰かが使っているのだろう。

 つまり、平常は鍵が刺さった状態で扉が開いていて、使うときには荷物を入れてから鍵をかけて抜き、それぞれが管理するという方式なのだろう。要するに、誰がどのロッカーを使うのかは完全なランダムという事になる。

「この扉はあなたが開けたの?」

「いいえ、戻ってきたときには開いていたの。それで中を探ったら財布がなくて」

 麟五の問いに、早苗は首を振って答えた。

「つまり、盗んだやつは鍵なしで扉を開けたって事か?」

 だとするなら旧校舎にいた云々の話より、むしろそっちの方が問題になりそうなものである。マスターキーもないという話であるし、鍵の開け方はかなり重要なポイントになりそうだ。

 だが、それについては律子が軽く首を振った。

「鍵穴を見なさいよ」

 言われるがままに十影が鍵穴を見ると、針金か何かで引っかいたような傷が確認できた。

「こじ開けられたんだと思うわ。つまり、どうやって鍵を開けたかは問題にならない」

 そう言いながら、律子は十影を睨みつける。どうやら彼女の中では鍵の問題は解決済みで、あくまで十影たちしか犯行可能な人間がいないという事が最も重要とされているらしい。

 とはいえ、自分たちが犯人でないと証明された場合、後々この問題も考える必要があると十影は感じていた。律子はまったく疑っていない様子であるが、素人目で見ても鍵穴の近くに傷がついているだけで、はっきり言えば針金で簡単に開きそうな鍵には見えなかったからである。

 だが、そんな事を気にする様子もなく、麟五はジッとロッカー見つめている。つられて十影もロッカーの方を見るが、残念ながら何かひらめくというような事はなく、ただ漠然と麟五の動きを見ているだけに終わった。

「金津麟五……そうだ、思い出した。あんた、『殺人マニア』でしょ?」

 と、律子が不意にそんな事を言い始めた。

「推理小説ばっか読んでて、わけのわからない事ばかり言ってるからそう呼ばれてるって、あなたと同じ中学の子が言ってたわ。まさか、だからって探偵の真似事をするつもりなの?」

 律子の馬鹿にしたような言葉に対し、麟五は無言のままロッカーを見続けている。

「あのね、空想と現実を一緒にするのはやめてよね。こっちは真剣に困ってるんだから、遊びでそういう事をやられるのは不愉快よ。それとも、自分がやったのを隠すためにわざとそんな事をやっているのかしら?」

 律子は続けてそんな事を言うが、麟五は一切気にしていないようで、そのまましゃがんでロッカーの下の方を見ていたりした。十影もチラリとその方を見てみるが、古い校舎だけあって床も傷だらけで、何かあるようにはとても見えなかった。

「ねぇ、変な時間稼ぎはやめてよ! そんな事をしているくらいだったら、自分たちの無実の証明でもしたらどう?」

「何の話?」

 と、不意に麟五が言葉を発した。

「何の話って、あのね、さっきの話聞いてた?」

「わからないから今こうして聞いている」

 淡々としているが、明らかに挑発するような言葉である。律子の声が険しいものになった。

「だから、この旧校舎にいたのはあなたたち二人だけ。だったら犯人はあなたたちのどっちかか、あるいは二人が共犯の可能性しかない。探偵の真似事をする前に、まずはそれに対して反論したらどうなの?」

 そこで初めて、麟五が十影たちの方を振り返った。その表情は前髪でよく見えないが、十影はそこに一つの感情を見て取っていた。平たく言えば、驚きや呆れと表現すべき感情である。

「……まだその話?」

 それが麟五の発した言葉だった。

「まだって、その話以外他に話すことがあるの?」

 はぐらかすような答えに、律子はイライラした調子で吐き捨てる。

 そして、それに対する麟五の答えは至極簡単なものだった。

「そんな話、部室で話した時点でとっくに解決済みだと思っていたけど」

 その答えに、その場が静まり返った。ただ一人、麟五だけが周囲の状況など目に入っていないといわんばかりの態度で、ロッカーの周囲を黙々と調べ続けている。

「……何を言ってるの?」

 それが、律子がようやく発した言葉だった。

「同じことを二度言うのは嫌い」

 そう言うと、麟五はあっさりとロッカーの扉を閉めてしまった。早苗が尋ねる

「えっと、それってつまり、財布を盗んだ人がどうやって旧校舎に入ったか、もうわかっているって事よね?」

「考えたらすぐにわかる話だったから」

「ふざけないでよ!」

 叫んだのは律子だった。

「何? 本気で探偵気取りなの? マニアかなんだか知らないけど、そんな小説みたいな事があるわけないじゃない!」

「とりあえず、落ち着きなさい」

 そう声をかけたのは亜由美だった。温和な雰囲気を崩す事なく、亜由美は麟五に問いかける。

「でも、だったらどうしてここに来たの? 侵入方法がわかっているんだったら、来る必要もなかったはずだけど」

「確認」

 麟五の答えは短かった。

「確認って、侵入方法の?」

「違う」

 麟五がそう答えて十影たちを見た、その瞬間だった。

 開けっ放しだった窓から風が吹き込み、麟五の前髪を吹き上げた。そして、その下から彼女の目元があらわになり、一瞬だが十影は初めて彼女の素顔をまともに見ることになった。

 髪に隠れて見えなかった目はパッチリと大きく、以前思ったようにどちらかといえばかわいい部類に入るだろう。だが、その視線はどこか冷めていて、十影はなぜか思わず息を呑んでしまった。他の全員も、その光景にハッとしたような視線を彼女に向けている。

 だが、その直後に放たれた衝撃的な言葉によって、その硬直が一気に解けることになる。


「犯人の確認」

 不意打ちもいいところだった。


「え、えぇぇぇ!」

 十影も含め、その場にいたほとんどの人間が思わずそう叫んでいた。

「は、犯人の確認って……犯人がわかったか?」

 十影は思わずそんな言葉を発していた。すると、風が吹き止んで前髪が元に戻った麟五は、周りの騒ぎがまったく耳に入っていなかったかのように小さく頷いた。

「ちょ、ちょっと待てよ! 今までのどこにそんな要素があったんだ?」

 十影は混乱しながら彼女に尋ねた。なにしろ、彼女がやった事といえば、十影たちから事件の話を聞いて、現場であるこの部屋でロッカーを少し見ただけだ。それで犯人がわかったというなら、それこそ小説に出てくる探偵そのものではないか。

「あなた、いい加減なこと言ってるんじゃないでしょうね?」

 十影が振り返ると、律子が顔を引きつらせて麟五を睨んでいた。

「私はいい加減な話が嫌い」

「それはつまり、犯人はあなたでも十影君でもないという事かしら?」

 亜由美が聞いた。亜由美だけはこの状況の中でもなぜか平静を保っていて、少し真剣な表情で麟五に質問をしている。

「当然」

「だったら、ぜひ話してくれないかしら。この場にいる全員が聞きたがっているだろうし。三河さん、それでいいかしら?」

 先生は律子にも声をかけた。亜由美にそう言われては、律子としても引き下がるしかない。

「……いいわよ。私を納得させられるものならね」

 その時だった。突然廊下が騒がしくなって、ドアが開くと誰かがなだれ込んできた。

「み、宮下先生! こんなところにいましたか」

 それは、校長とこの旧校舎の管理をしている用務員の二人だった。

「いや、何やらこの部屋で盗難事件があったとかで学校中で騒ぎになっていましてな。宮下先生が対応しているとかで、ずっと探していたんですよ。何でも、犯人は一年生の男子生徒らしいじゃないですか。まずはその子の話を聞きたいんですが」

 校長の言葉に、十影は体を震わせた。校長の一言がすべてを指し示している。亜由美と違って、他の教師陣は絶対に自分の話を信用しない。律子の話を鵜呑みにして、十影がやったという前提で話を進めるだろう。十影にしてみればそれは最悪の状況だ。

「あぁ、こんな事が起こってしまうなんて、どうしたらいいんだ……」

 管理責任者の用務員が頭を抱えている。気の毒ではあるが、十影にしてみれば用務員を気にしている場合ではない。

「それで、問題の子は?」

 校長のその言葉に、律子が反応しようとする。が、それを亜由美がさえぎった。

「その前に、そこにいる彼女の話を聞いてくださいませんか? 何でも、心当たりがあるそうなんです。どうでしょうか?」

「いや、しかしね……」

「お願いします。責任は私が」

 亜由美が頭を下げる。校長と用務員は戸惑ったように顔を見合わせていたが、

「まぁ、宮下先生がそうおっしゃるなら……。じゃあ、少しだけですよ」

 と、しぶしぶ承知した。

「……話してもいいですか?」

 そんな空気を読んでいないのか、麟五が無感動に聞く。

「ええ。じゃあ、さっそくだけど、あなたたち二人が犯人でないというなら、犯人がどうやって旧校舎に侵入したのか教えてくれないかしら?」

 亜由美が、まるで麟五を試すように質問する。これに対し、麟五は相変わらず単調な声で、自分の考えを語り始めた。

「要するに、渡り廊下の前に業者の人がいたから旧校舎に侵入が不可能という話になって、結果的に中にいた人間が疑われている。でも、私が犯人でない事は私がよくわかっている。だとするなら、他の可能性を考える必要がある」

 麟五は右手の人差し指を立てながら言葉を続けた。

「一つ目の可能性は、犯人が業者の人のいた渡り廊下以外の場所から侵入した可能性」

「だから、それは無理よ」

 律子が呆れたように言った。

「新校舎から旧校舎に入るのは一階にあるあの渡り廊下だけ。他にどこから入れるのよ?」

「窓は駄目なのか。一階の窓からなら入れそうだが」

 十影が咄嗟に思いついた考えを言う。でも、それは用務員に否定された。

「無理だよ。一階の施錠されている教室は全部窓に鍵がかかってる。人がいる教室なら開いていたかもしれないが……」

「旧校舎にいたのはあなたたちだけ。つまり、窓が開いていたのもあなたたちがいた旧美術準備室だけ。まさか、旧美術準備室の窓から犯人が入ってくるのを見たとでも言うの?」

 律子の挑発に、麟五は小さく首を振る。

「だったら、窓も使われていないと考えるしかないじゃない。つまり、侵入経路はあの渡り廊下しかないってことよ」

 律子は勝ち誇ったように言う。だが、麟五は一切動じる様子もなく、淡々と先を続けた。

「なら、二つ目の可能性が考えられる。この事件そのものが、あなたたちの狂言である可能性」

 さらりととんでもない事を言われ、当の早苗や律子たちはギョッとしたように麟五を見た。

「何よ、自分が疑われたからって、私たちにまで疑いを吹っかけるつもり?」

 律子が今にも詰め寄りそうな剣幕で麟五を睨む。が、麟五は動じない。

「可能性は検証しないといけない。何より、この状況だとそう考えるのが一番合理的。最初からないものを盗まれたと言っても、誰も嘘だとは思わないから」

 氷のように冷たい声だった。早苗が息を呑む。十影自身、自分が疑われているという事実で頭が一杯で、そんな可能性などまったく考えていなかった。

「な、何でそんな事をする必要があるのよ!」

 律子がすごい剣幕で問い詰める。だが、麟五は声の調子を変えることなく推理を続けた。

「あなたか玉村さんが十影君に何らかの恨みを持っていたとする。で、十影君の評判を落とすために事件を起こして十影君を追い詰めた。人間の心は想像以上に弱い。みんなで一斉に問い詰めれば、やってもいない罪を白状する事は充分にありえる」

「本気でそう思っているの?」

 早苗が青ざめた表情で尋ね返した。ところが、当の麟五は急に声を和らげる。

「まさか」

 固唾を呑んで成り行きを見守っていた十影は、その返答に拍子抜けしてしまった。

「あなたたちは複数人で行動していた。つまり、本当に狂言なら全員共犯ということになる」

「そんなわけないでしょ!」

 早苗と一緒にいた女子生徒たちが必死に主張する。と、麟五はあっさり首を縦に振った。

「私たちは入学して一週間も経っていない。同じ中学出身ならともかく、こんな短時間で共犯関係になるほど親密になれるとも思えない。だから全員が共犯だったという推理は見当はずれ」

 女子生徒たちはホッとしたような表情をする。だが、麟五は容赦しなかった。

「ただし、玉村さんが一人で狂言計画した場合でも、この仮説は充分に通用する。つまり、玉村さんが財布を盗まれたと一人芝居をしている可能性は現時点では否定できない」

 指名された早苗は息を呑んだ。

「わ、私は本当に……」

「だから聞かせてほしい」

 その瞬間、麟五はジッと早苗を見た。

「今、示されている可能性は三つ。犯人が私や十影君の可能性。犯人が外部から侵入した可能性。そして、事件があなたの狂言である可能性。どうあがいても、真相がこの三つのいずれかであることに疑う余地はない。となると、真相にたどり着くには一つずつ可能性をつぶしていくしかない。だからこそ聞いている。玉村さん、あなたは財布を盗まれたと断言できる?」

「断言って……」

「この『狂言』には意図的でない事も含んでいる。例えばロッカーを間違えたとか、鞄の中に入れっぱなしだったとか。それも含めて、本当に財布が盗まれたと断言できるか聞いている」

 麟五は真剣だった。早苗はしばらくこの麟五のトンデモ発言に思考が追いついていなかったようだった。だが、すぐに気持ちを整理したようで、軽く息を吸うとはっきり断言した。

「私は狂言なんてやってない。それに、鞄に入れっぱなしだったとかロッカーを間違えたとか言う事もない。私は間違いなくそのロッカーに財布を預けて、そして帰ってきたらロッカーが開いていて財布がなくなっていた。それだけは間違いないわ」

 二人の視線が交錯し、両者無言のまま時が流れる。だが先に口を開いたのは麟五だった。

「わかった。あなたを信じる」

「信じるって……」

「単にその方が合理的だから信じるだけ。ただ、その代わり私たちの言い分も信じてほしい。私たち二人は間違いなく旧美術準備室にいた。それを前提にこれから話を進める」

「ちょっと、そんな都合のいい話が……」

 律子が割り込もうとしたが、これには早苗が律子をさえぎって答えた。

「わかった」

「ちょ、わかったって……」

 律子の抗議をよそに、麟五は話を続けた。

「さて、玉村さんの狂言でもないとすると、第三の可能性は消える。そして、私たちは自分たちが犯人だなんて認めるつもりはないし、犯人でない事は自分がよくわかっている。つまり、私の推理の中では第一の可能性も消える。これで、残るは一つ。第二の可能性……つまり犯人が外部から侵入したという可能性。ただし、これが否定されたらそれこそ私たちが疑われても仕方がない。けど、それまではこの可能性を徹底的に検証すべき」

 麟五の淡々とした言葉に、亜由美が口を出す。

「でも、さっき三河さんとの話で、渡り廊下以外の場所から侵入するのは不可能という結論になっていたんじゃなかったかしら?」

「そうよ。財布を預けた後、渡り廊下をあなたたち以外の人間が通っていないのは、さっきから嫌ってほど言っているし、一階の窓はあなたたちがいたって主張している部屋以外は閉まっていた。この状態でどこから……」

「でも、この旧校舎は真の意味での完全な密室だったわけじゃない」

 突然麟五はそう言った。

「真の意味での完全な密室って……」

「文字通り、蟻の這い出る隙間もないほど密閉されていて出入りが難しい密室。そういう密室は推理小説ではよく出てくるけど、少なくとも今回の一見密室に見えるこの旧校舎はそこまで厳しい条件ではない」

「だって、窓には全部鍵が……」

「かかってない」

 麟五は断言した。

「少なくとも、二階以上の窓の鍵はかかっていない。現に、この部屋の窓は開いている」

 そう言って、麟五は背後で開きっぱなしになっている窓を示した。確かに、何気なく見過ごしていたが、入ってきたときからこの部屋の窓は開きっぱなしになっていた。だからこそ、さっき吹き込んできた風が麟五の前髪を吹き上げたわけだが、今にして思えば確かに二階以上の窓が所々で開いていた心当たりが、十影にもあった。が、律子は馬鹿にしたように反論する。

「まさか、二階の窓から旧校舎に入ったとでも言うつもり? この部屋はグラウンドに面しているのよ。少なくとも、二階の部屋の窓から侵入するには梯子か何かがいる。新歓で人がいっぱいのグラウンドから見たら、すぐばれるじゃない」

「それに、私たちも梯子の可能性は考えたわ」

 今度は早苗が反論する。

「でも、旧校舎周辺の地面に梯子を使った形跡なんかなかったし、そもそも校内に唯一ある梯子はそのとき渡り廊下であの業者さんが使っている最中だった」

 その言葉に、十影は心の中でアッと声を上げていた。問題の業者はそもそも蛍光灯の交換をしていたはずで、つまり梯子は問題の時間の間、業者の手元にあったことになる。

「要するに、犯人が梯子を使った可能性はないの。だからこそ、私たちは開いていた窓を問題視しなかったんだけど……」

「いくら二階以上の窓が開いていても、梯子がなかったら侵入なんかできない。つまり、あなたの推理は……」

「そう考えるから真相に到達できない」

 不意に麟五が言った。

「どういう意味?」

「『梯子がないから二階に侵入できない』。そこで考えるのをやめたら何も考えていないのと同じ。真相に到達にするにはそこからさらに考えを切り替える必要がある。推理小説で解決編までに犯人を推理するときの定石」

「考えを切り替えるというのは?」

 十影の問いに、麟五はこう答えた。

「『梯子で二階に侵入できない』なら、『梯子なしで二階に潜入する方法』を考えればいい」

 十影は呆気にとられた。シンプルな発想だ。だが、それだけに問題がさらに難しくなってしまっている。傍から見れば本末転倒とも言える理論だ。

「それこそ難しいんじゃないのか?」

「でも、可能性がまったくないわけじゃない。例えば、ある程度の建物には必ず非常階段を設置することが義務付けられている。当然、この旧校舎にもあるはず」

 その言葉に十影は一瞬納得しかけたが、その意見は律子が瞬時に否定する。

「あのねぇ、あなたに言われるまでもなく、そんなこと真っ先に考えたわよ。確かに非常階段はあるわよ。でもノブのところに鎖が巻きつけてあって、とても出入りなんかできなかったわ。だいたい、そんなに簡単な答えだったら、私だってここまで大騒ぎしないわよ」

 その言葉に、校長が管理人である用務員の方を見る。

「そうなのか?」

「え、ええ。旧校舎の非常階段は金属製の外付け階段なんですが、錆びたりしてかなりガタがきていて危険なものですから、しばらく立ち入り禁止にしておいたんです」

 用務員が冷や汗をかきながら弁明する。

「だから非常階段は使えないの。それでも、まだ他に可能性があるとでも言うつもり?」

「最初から可能性が一つのものなんかない。可能性をより絞ることができたと考えるべき」

「詭弁よね。じゃあ、言ってみなさいよ。二階に侵入する他の可能性って何?」

 律子の皮肉めいた口調の発言に対して、麟五は無表情のままあっさりと答えた。

「窓も駄目、非常階段も駄目。なら残る可能性は一つ。あなたの言う通り、渡り廊下だけ」

 その言葉に、その場が白けたように十影には思えた。というより、十影自身もどこか拍子抜けしてしまっていた。律子がイラついたように反論する。

「あのさ、私たちをなめているの? 渡り廊下を通ったのはあなたたち二人だけだって、さっきから何回も言ってるでしょ! そもそも、私は梯子なしに二階に侵入する方法を聞いているのに、どうしてここでいきなり渡り廊下が出てくるのよ! あの渡り廊下は一階にしか接続していないでしょ!」

 だが、そこまで言われているのに、麟五の態度に変化はない。むしろ余裕すら感じられる。

「だからこそ、あの渡り廊下は最適」

「だから、何度同じことを言ったら……」

「渡り廊下の上」

 鶴の一声だった。

「……は?」

「確かに、渡り廊下の中は誰も通っていないのかもしれない。では、渡り廊下の上は?」

「上って……」

「あの渡り廊下は一階にしか接続していない。ということは、本来二階に接続している場所は渡り廊下の屋根になっているはず。新校舎の窓から渡り廊下の上に出て、そこを通って旧校舎の二階の窓から侵入すれば、外部の人間でも梯子なしに二階への侵入が可能」

 反論はなかった。

「そんなの……証拠はない……」

「それを言うなら、あなたの主張する私たちの共犯説にもまったく証拠はない」

 鋭く切り返されて、律子が詰まる。これに対し、亜由美が頬に片手を当てて考えながら言う。

「……確かに、あの渡り廊下は新校舎と旧校舎の間にあって見にくくて、グラウンドからはちょっとした死角になっているから、そばにでもいない限りは誰かに見られる心配もなさそうね」

「そう言えば、渡り廊下の近くに窓があったな」

 十影はここに来る途中の事を思い出しながら言った。確か、階段を上がってすぐ右手の場所に、渡り廊下の屋根が正面に見える窓があったはずだ。犯人が渡り廊下の屋根の上を通ったというなら、あの窓はまさに侵入するのに最適の場所だ。

 おまけに、あの窓からは新校舎の方も見えていて、その新校舎側にも窓があった。だからこそ旧校舎からも新校舎にいる人の姿がよく見えたわけだが、言われるまでまったくその可能性に気づかなかった。

「つまり、渡り廊下の上から侵入できる以上、一階を通らなかったかどうかは問題にならない。私たちだけじゃない。誰にでも旧校舎に侵入する事は可能だった事になる」

 麟五のその言葉に、その場が緊張に包まれた。

「しかも、わざわざそんなルートを通ったという事は、出来心とかじゃないわね。最初から盗み目的でこの旧校舎に侵入した、つまり計画的な犯行と考えるべきじゃないかしら」

 亜由美はあえてここで「犯行」という言葉を使った。それでその場にいる全員が事の重大さに気づく。最初から狙っていたなら、これは単なる内輪の問題ではない。立派な計画犯罪だ。

 亜由美の言葉に校長が青ざめたのが、十影のいる場所からもよく見えた。

「でも、三河さんが言うように根拠がないのは弱いわね。何か証拠は考えてあるのかしら?」

「警察を介入させるなら、問題の屋根を調べれば靴跡が出ると思う。拭いている暇はなかったと思うし、あんな場所に足跡があること自体不自然だから、まず犯人の足跡とみて間違いない。それさえ出れば、少なくとも誰かがあの屋根を通って旧校舎に侵入した事実は証明できる。しかも、昨日まで雨が降っていたから、それ以前の痕跡は全部消えている。足跡があったとすれば、それは間違いなく雨がやんで以降、つまり今日ついたということに他ならない」

 もう誰も口を挟めない。あれだけ反論していた律子も完全に押し黙ってしまっていた。さっきまでとは違って、誰もが真剣に麟五の言葉を聞いていた。

 と、不意に早苗が麟五に声をかける。

「……金津さん、さっきこう言ったよね。『犯人がわかった』って。その人は、この中にいるの?」

 その言葉に麟五は一切躊躇することなくこう言った。

「いる」

 その場の空気が一気に張り詰めた。

「……教えて、それは誰なの?」

 推理の核心を突く質問だった。全員が固唾を呑んで麟五の答えを待つ。

 ところが、その答えはあまりにも予想の斜め上をいった。

「……わからない」

 一瞬、誰もが彼女が何を言ったのかわからなかった。

「何よ、いきなりギブアップでもするつもりなの?」

 律子が少し皮肉をこめて聞く。だが、麟五は黙って首を振ると、こう言った。

「だって、私はその人の名前を知らないから」

 その言葉の意味するところを十影が察するより前に、麟五はおもむろにある人物に指を突きつけた。その瞬間、前髪の下にある瞳が鋭くその人物を刺し貫く。彼女はそのまま今までと変わらない単調な口調で犯人の正体を告げた。

「そこにいる用務員の人。犯人は……あなた」

 それは、あまりにも意外すぎる告発だった。


 麟五の告発に対し、当の用務員はただポカンと口を開けていた。

「き、木佐貫さん、あなたが犯人ですって?」

 校長が驚いた表情で用務員……木佐貫という名前らしい……を見つめていた。

「い、いきなり何の話だ?」

「だから、犯人はあなた」

 麟五の告発は変わらなかった。ただ、まっすぐに木佐貫に指を突きつけている。

「冗談じゃない! なんでわしが犯人にならないといかんのだ!」

 次の瞬間、木佐貫は慌てた様子で叫んだ。

「じゃあ、犯行があった時間、何をしていたの?」

「何って、確かに中庭でずっと掃除をしていたからアリバイはないが……」

 その瞬間、少しだが麟五の口が緩むのを十影は見た。

「私、あなたがこの教室に来てから、犯行時間がいつかなんて言っていない」

 その言葉に、木佐貫の顔が真っ青になる。その瞬間、その場にいる誰もが確信した。間違いない、こいつが犯人だ。全員が薄気味悪そうな顔で木佐貫の方を見ている。

「は、話から放課後だと思っただけだよ。大体、私が盗んだとして、どうやってロッカーから財布を盗んだんだね?」

「だから、針金か何かで鍵をこじ開けて……」

 律子の言葉に、木佐貫は必死に言いつくろう。

「安物の鍵じゃあるまいし、ちょっとやった程度でロッカーの鍵がそんなに簡単に開くわけがないじゃないか。それこそプロの泥棒でないと無理だ。私にそんな技術はないよ。嘘だと思うなら実際にやってみてくれ」

 木佐貫の必死の言葉に、全員が顔を見合わせた。

「……じゃあ、ちょっとやってみましょうか」

 と、そんな事を言い始めたのは亜由美だった。その手にはいつの間にか針金が握られている。

「もしかしたらと思って、旧美術室から拝借しておいたの。じゃ、さっそくやってみるわね」

 全員が呆気にとられて何も反論できないでいるうちに、亜由美は手近な空きロッカーの鍵を閉めて、針金でこじ開ける作業を開始した。が、そのまま五分、十分と経っても何も起きない。

「……駄目ね」

 誰もが固唾を呑んで見守る中、しばらくして亜由美はそう言って針金を放り出した。

「やってみるとわかるけど、かなり堅固な鍵よ。針金なんかじゃ絶対に開きそうにないし、ドライバーとかでもまず無理そうね。専門の道具を使えば開くかもしれないけど、その場合はもっと鍵穴が壊れているはず。そうじゃなかったら、それこそ鍵穴そのものを叩き壊しでもしない限り、多分開かないと思う」

 亜由美の言葉に、早苗は戸惑ったように自分のロッカーを見た。

「じゃあ……犯人はどうやってロッカーを開けたの?」

 その場に困惑が広がるのが十影にもわかった。律子は鍵穴についた傷から簡単に「針金か何かで開けた」と判断していた。律子が主張していたように、犯人が十影たちだと考えるのには、そう考えるのが一番妥当だったから何の疑いもなくそれに飛びついたのだろう。

 だが、実際は先程十影が思ったように、そこまで簡単な話ではなかったようだ。侵入方法という謎で手一杯だったが、やはり犯人がどうやってロッカーの鍵を突破したのかという事も問題なのである。新たに謎が生まれたようなものだった。

「ロッカーをどう開けたかがわからない限り、犯人の指名どころの話じゃないわね」

 亜由美が結論付け、問題のロッカーに近づく。

「確かに傷はついているけど、鍵そのものが破壊されている様子はない。実際に鍵でも使わない限りはここまできれいにはならないと思う。なぜかはわからないけど、多分、針金で開けたと偽装するために傷だけつけたんでしょうね」

 だが、このロッカーにはマスターキーも合鍵もない。亜由美もそれは理解しているようだ。

「つまり、鍵は玉村さん自身が持っていた一本だけ。それを使うしかないけど……。玉村さん、あなたは鍵をずっと肌身離さず持ってたの?」

「もちろんです」

 亜由美の質問に、早苗は鍵を示しながらしっかり答えた。

「そんな感じらしいけど、金津さんの意見はどう?」

 亜由美はそこで麟五に話を振った。十影が振り返ると、新たな謎が出現したにもかかわらず、麟五に動じた様子はまったくなかった。

「ロッカー見た段階で、これが針金で開けられたとは私も思えなかった。それにしてはあまりにもきれい過ぎたから。だからこれはそれらしく鍵穴の周りに傷がついているだけだと思った。だからこそ、私は最初に玉村さんに聞いた。狂言の可能性はないかって。それで、私は玉村さんの答えからその可能性がないと思った。でも……」

 麟五はこう言葉を続けた。

「だからこそ、犯人は用務員さんしかありえない」

 ほとんど断言に近かった。

「あの、俺たちにもわかるように言ってくれないか?」

 十影は麟五にそう頼んだ。その言葉にかぶせるように、木佐貫がわめきたてる。

「わししかありえないとはどういう意味だ! だったら、鍵がない状態であのロッカーを開ける方法を、今すぐ説明してくれ!」

「開けなければいい」

 唐突で、あまりにも簡単な答えだった。だがその答えに、その場にいた全員がポカンとする。

「ここで無理やりにでもロッカーを開ける方法を考えるのは犯人の思う壺。だから発想を逆にする。どうやってもロッカーが開かないなら、そもそもロッカーを開けなければいい」

「意味がわからないんだが」

 十影がみんなを代表して遠慮がちに言った。

「つまり、あなたはロッカーを開ける事なく財布を盗もうと考えた」

「何言ってるのよ。現にロッカーはこうして開けられて、財布が盗まれているんじゃない」

 律子が反論するが、肝心の木佐貫はなぜか青白い表情をしている。

「その答えは簡単に証明できる」

 麟五はまっすぐ早苗を見た。

「玉村さん、その鍵、事件発覚後に問題のロッカーに使った?」

 早苗は首を振る。当然の話だろう。財布が盗まれて開けっ放しになっているロッカーにわざわざ鍵をかける人間はまずいない。

「じゃあ、その鍵をあのロッカーに使ってみて。鍵そのものは壊れていないから使えるはず」

「いいけど、どうして?」

「それですべてわかる」

 早苗は訝しげな表情でロッカーに近づくと、鍵穴に鍵を入れようとした。周りの人々も麟五の意図がわからず、何とも言えない表情をしている。

 だが、次の瞬間、早苗が声を上げた。

「あ、あれ?」

 何度やろうとしても、彼女の持っている鍵は穴に入る様子がなかった。

「どういうこと? 確かにこのロッカーの鍵なのに……」

「その鍵はそのロッカーの鍵じゃない。それ以外に考えられない」

 思わぬ麟五の答えに早苗は目を白黒させた。

「で、でも、私、確かにこのロッカーに財布を入れて、このロッカーからこの鍵を抜いたよ?」

「それだと鍵が合わないことに説明がつかない」

 麟五は真相を明かした。

「つまり、このロッカーは事件前と後で違うものになっているという事。ここまで言えば、犯人が何をしたかわかるはず」

 十影は思わずアッと叫んでいた。

「ま、まさか、ロッカーそのものを入れ替えたのか」

 他の人々は皆衝撃を受けたかのような表情をしている。

「例の方法で旧校舎に侵入した犯人は財布を盗むのではなく、ロッカーごと別の空きロッカーと場所を入れ替えた。コインロッカータイプじゃなくて、掃除ロッカータイプの動かせるロッカーだからこそできる裏技」

 もう誰も麟五の話を止めなかった。確かに今ここで鍵が合わない理由は、そうでも考えないと説明がつかない。同時に、先程麟五が床を見ていたのは、ロッカーが引きずられた痕跡がないかどうかを調べるためだという事を、十影は今になって気がついた。

「つまり、犯人はその場では財布を盗んでいない。単純に財布入りロッカーAと空のロッカーBの場所を入れ替えて、入れ替え済みのロッカーBの鍵穴をいかにも針金か何かで開けたかのように傷つけて開けっ放しにしていただけ。こうすれば、財布をロッカーから出さずに財布を盗むことができる」

 そして、その言葉の意味することに十影は気がついた。麟五も推理を畳み掛ける。

「つまり、真の意味で財布はまだ盗まれていない。ここのロッカーのどれかに、玉村さんの持っている鍵が当てはまるロッカーがある。その中に、問題の財布があるはず」

 その言葉に、早苗は一瞬絶句すると、すぐに手近なロッカーを調べ始めた。

「動くとはいえロッカーを動かすのはかなりの重労働よ。多分、すぐ近くのロッカーね」

 亜由美の助言に、早苗は開けっ放しのロッカーの近くを探していたが、しばらくして斜め前のロッカーで反応があった。

「嘘……」

 鍵穴に鍵がしっかり刺さっていた。そのまま一回転させると、その一見関係ないと思われたロッカーはすんなり開いた。ドアを開ける。

「あ、あった!」

 早苗が声を上げる。その手には、かわいらしい財布がしっかり握られていた。

「そんな……」

 今度は律子が絶句した。財布があった以上、麟五の推理が正しいのは間違いない。だが、律子にはそれがまったく信じられないようだった。

「ロッカーをあえて開けっ放しにしておいたのは、鍵穴に鍵を刺されるのを防ぐため。鍵を刺されてしまったら、このロッカー入れ替えはあっさり気づかれてしまう。入れ替えたロッカーBの鍵穴にわざわざ傷をつけたのは、針金か何かで鍵を開けたと錯覚させ、このロッカー入れ替えの事実を隠すため。あとは玉村さんが持っている本物の鍵を手に入れて、機会を見て入れ替えたロッカーから財布を入手すれば財布を手に入れられる。そこで、問題が一つ」

 麟五はそう言うと、今やガタガタ震えている木佐貫に正面から対峙した。

「いくらロッカーを入れ替えても、肝心の鍵が手に入らない限り永遠に財布を手に入れる事はできない。だから、事件後に本物の鍵を手に入れる事ができる人間が犯人という事になる。この状況下で玉村さんが持っている本物の鍵を手に入れるチャンスがあるのはただ一人」

「ロッカーを管理している用務員ってことか!」

 十影はようやく事件の全てが見えた気がした。

「盗難事件があった以上、問題のロッカーの鍵はほぼ間違いなくロッカーの管理者に預けられる。この場合、鍵を預かるのはこの部屋の管理者である用務員。逆に言えば、それ以外の人には鍵を手に入れるチャンスがないから、こんな犯行をする意味がない」

 麟五は臆することなく木佐貫を見据えた。

「だからこそ、犯行がロッカー入れ替えによるものだとわかった時点で、犯人は管理人であるあなた以外にはありえない。これが、私があなたを犯人だと指名した理由」

 すでに、全員が木佐貫を疑いの目で見ていた。

「何ならロッカーBの鍵を探してもいい。財布を盗んだ後に鍵を入れ替えないとトリックがばれるから、そのためにも絶対にまだ持っているはず。それが見つかったら、もう言い逃れできない。用務員室に隠しているか、あるいは手放す事なく今も身につけているかだと思うけど」

 麟五のその言葉に、木佐貫は息を荒くしてしばらく脂汗を流し続けていたが、やがて突然天を仰いだかと思うと、その場に崩れ落ちてしまった。

「も……申し訳ありませんでした……」

 木佐貫はひどく弱々しい声で誰に言うでもなくそう言うと、そのまま床に突っ伏して嗚咽を漏らし始めた。麟五以外の全員が重苦しい表情でその様子を黙って見ている。

 それが、この事件の……つまり、金津麟五最初の事件のあまりにも呆気ない結末だった。

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