表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第一章、ミス研

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」

 体育館の壇上で年配の校長が挨拶をしている。ここ、東京都立朝之木高校で行われている入学式もすでに半ばを過ぎており、どこか気だるげな雰囲気が漂い始めていた。、体育館中央でパイプ椅子に座る真新しい制服の新入生たちは、壇上で熱弁をふるう校長の言葉を聞いている。

 十影潔もそんな新入生の中にいた。この「十影」とかいて「トカゲ」と読む珍しい名字に反して、見た限りは平凡な風貌でどこにでもいるごく普通の少年であるが、その表情はどこかパッとせず、入学式であるにもかかわらず、すでに何か白けたような表情をしている。長々と続く校長の言葉もそれほど真剣に聞いておらず、一応聞いておくふりだけでもしておかないと後々面倒なので、とりあえず正面を見ているというのが彼にとっての本音だったりした。

 二〇一一年の四月十一日月曜日。東日本大震災と呼ばれているあの地震からちょうど一ヶ月が過ぎた辺りで、今も原発だの津波だので日本というこの国は浮き足立った状態であった。

 だが、周りの新入生たちにそんな実感はないようだと、十影は何となく感じ取っていた。確かこの高校がある東京も震度五の揺れに襲われたと思うのだが、何だかんだ言って被災地の事より自分の生活の方が大事なのだろう。もっとも、無理はない話ではあるが。

 校長の言葉は佳境に入ってく。が、十影はぼんやりとした表情でそれを聞いていた。あんな地震の話でも、二年も経てば被災地以外の人間にとっては過去の話となるのだろう。人間というのはそういうものだ。十影は身をもってそれを経験していた。

 十影は何となくそんな事を考えながら、今までの自分の人生を回想していた。


 十影は元々東京生まれの人間である。引っ越したのは二年前。中学二年生の時だった。

 当時、十影の家には両親の他に、十影の父親の兄、すなわち伯父に当たる人物が住んでいた。名前は十影英太郎。十影も小さい頃からよく世話をしてもらっていたのを覚えている。

 十影英太郎は平凡な会社員だった十影の父と違い、法務省に勤務する官僚だった。もっとも、当時の十影にしてみれば法務省がどんなところなのかまったく知らず、何となく凄い仕事をしている人だという事くらいしか理解できていなかった。それでも、十影はそんな伯父のことを尊敬し、いつか英太郎のような人間になりたいとまで思っていた。

 だが二年前のあの日、十影のそうした思いは、平凡な日常とともにもろくも崩れ去った。十影が夏休みを楽しんでいた頃、杉並区の公園で十影英太郎が死体となって発見されたのだ。十影も、刑事が何度も自宅を訪れては両親に事情を聞いているのを見ている。伯父を殺した犯人は必ず捕まる。このときの十影はそう信じて疑わなかったものである。

 だが、その後事件は予想もしない方向へと動いた。最有力容疑者と目されていた七里蘭奈という少女が自室で首を吊って死んでしまったのだ。状況的に間違いなく自殺で、そこに残されていた遺書から犯行の一部始終、つまり蘭奈が英太郎を殺害した経緯が明らかになった。ところが、今度はその遺書が他ならぬ十影たちを追い詰める事になる。

 遺書によれば、彼女は塾帰りにあの公園を通りがかったときにいきなり男に襲われて、もみ合いになっているうちに男を突き飛ばしてしまったとの事であった。その男というのが被害者の十影英太郎であり、つまり遺書の内容が正しければ、十影英太郎は被害者どころか暴行の加害者だったという事になる。

 この事実が報じられるや否や、十影家に対する周囲の視線は一変した。終日マスコミが家を取り囲み、非難の電話が家にかかって。十影自身も学校では同級生から悪質ないじめを受けた。さらに、かかわり合いになりたくなかったのか彼を本来守るべき教師もそれを黙認した。

 そのうち、十影の家の壁は落書きだらけになり、嫌がらせとしか思えない張り紙が周囲に大量に張られるようになった。やっている本人は正義の鉄槌のつもりなのかもしれないが、十影からしてみればただの偽善者としか思えない。近所の人間は十影たちを支えるどころかこうした落書きや張り紙が景観的に不愉快だから出て行けと逆に十影家を攻め立てた。

 そして、ついに学校からの帰りに十影が見知らぬ男に襲われて大怪我をするという事件が起こってしまった。この事件が直接的なきっかけとなり、十影たちは家族で東京を離れる決心をする事となる。十影の父親も相次ぐバッシングで職を失っており、ちょうど地方に就職先が決まった事も要因の一つだった。

 十影を襲った男は英太郎の所業が許せなくて遺族である十影を襲ったらしいが、血はつながっているにしてもまったく何の関係もない自分を襲う事がどうして正義になるのか十影には理解できなかった。だが、恐ろしい事に世間の人々はその正義面した男を賞賛して、被害者のはずの十影に向かって口々に「ざまぁみろ」と罵った。十影はこのときほど絶望したことはない。中学生にして、十影は世の中の残酷さというものを、身をもって知る事になったのだ。

 十影には味方がいなかった。世間の人間すべてが敵だった。。地方に引っ越した後もこのトラウマはずっと続いて、転校先の学校ではほとんど人付き合いをしなかった。幸い、引越し先の地方ではこの事件はそれほど話題になっていなかったらしく、いじめられることはなかったが、いつばれるかと思うと十影は不安で仕方がなかった。

 そして、高校になって十影は再び東京に戻ってくる事となった。例の地震の影響で父親の会社が本社を東京に移した事による急なもので、子供が一人残って下宿するような金銭的余裕は十影家にはなく、十影は三月にもかかわらず高校を決め直す事となった。その結果、たまたま補欠入試枠があったこの朝之木高校への入学が決まったのである。そんなわけで、十影としてはこの高校に何か愛着があるというわけでもない。たまたま入れたから入れた。そんな感じだ。だから正直なところ、十影はこの高校生活にそれほど期待しているというわけでもなかった。

 十影が東京に帰ってきて衝撃だったのは、誰もあの事件を覚えていないという事だった。何事もがスピーディーに進んでいくこの東京では、何かあっても人々はすぐに記憶の片隅に追いやってしまう。あれだけバッシングをして、自分の人生を無茶苦茶にしておきながら、だれも自分のことを覚えていなかった。そのせいで自分たちは東京を離れる事になったというのに。十影はそんな思いを抱いて、今この場に立っていたのだった。


「では、新入生の点呼を行います」

 司会進行役の教頭の言葉で、一組から順番に各担任から点呼が行われていく。ちなみに十影は四組。良くも悪くも中途半端な組だと自分でも思っていた。

「玉村早苗さん」

「ハイ!」

 と、一組の点呼の途中で一人の女の子が他の誰よりも元気な声で答えて勢いよく立ち上がった。あまりに元気な声だったので十影は思わずそっちの方を見たが、後ろから横顔を見てもなかなかの美人に見えた。背は十影と同じくらいだろうか。長いブラウンの髪をポニーテールにまとめていて、パッチリとした目をしているのは何となくわかる。それ以上はわからないが、一つだけいえる事はあった。

 花の様なすばらしい笑顔だった。このけだるい雰囲気の入学式において、その笑顔はある意味目立っていた。それこそ、これから始まる学校生活が楽しみで仕方がないというような。ある意味、十影とは正反対にいる人間に見えた。十影にとってはそんな彼女はまぶしすぎ、思わず目をそらしてしまう。

 やがて、十影たちの組、つまりは四組の順番に来た。点呼するのは今年からこの高校に入ったらしい新任の女性教師だった。

「赤島恭太さん、天地亮助さん……」

 次々と点呼されていくが、全員固い返事かけだるそうな返事しかしない。やはり、さっきの玉村とかいう女の子はイレギュラーな存在らしい。

「金津麟五さん」

 と、不意に妙な名前が十影の耳に飛び込んできた。「かねつりんご」と聞こえたのだが、何かの聞き間違いだろうか。それでは焼きリンゴか何かになってしまうのだが、などと十影は何とも場違いな感想を抱いていた。

 だが、どうも聞き違いではないようだ。十影の少し前で一人の人物が立ち上がったからだ。

 その人物は、十影からしてみればとても印象深い人物だった。まず、髪型は長くもなければ短くもない、端的に言えばショートカットを少し短くしたような中途半端な髪型だった。だが、その代わりに前髪がやけに長くて、目元が髪の毛で隠れてよく見えない。パッと見た感じは目元がわからない事もあって男か女かわかりにくい。が、その性別は服装が証明していた。セーラー服。つまり、彼女は女子だと言うことになる。十影と同じ感想を抱いた人間が多いのかざわめきが広がるが、彼女自身は気にする様子はなく、そのまま点呼はつつがなく進行していく。

 そんな事を考えているうちに、十影の呼ばれる番になった。

「十影潔さん」

「はい」

 十影は淡々と返事すると、ゆっくり立ち上がった。これから始まる高校生活に期待していないことをそのまま代弁しているような返事だ。とはいえ、周りの生徒たちと大差なかったので特に反応はなく、十影自身も何か反応されたらかえって恐縮していただろうなどと思っていた。

 やがて点呼も終わり、新入生たちは体育館を後にしていく。さっそく友達を作ろうと自己紹介をしながら歩いていく同級生たちを横目に、十影は誰とも喋る事もなく教室に戻っていった。


 入学式が終わった後、教室に戻った十影たちを待っていたのは、担任によるHRだった。ちなみに、この学校は一学年五クラス二〇〇人、一クラス四十人という編成で、都内に数ある学校の中でもそれほど大きな高校ではない。よく言えば中堅、悪く言えば凡庸、そんなところだろうか。進学校というわけでもなく、最低クラスの学校というわけでもない。簡単に言えば可もなく不可もない普通の学校である。定員が集まらずに補欠入試が実施され、それに平均的な成績に過ぎない十影が合格してしまうくらいといえばわかるかと思う。

 それはともかく、正面の教壇に立っているのは見るからに「大学を卒業したばかりです」と言わんばかりの初々しさを持った教師だった。しかし、そんな感じの中にも、なぜかはわからないがどこか大人びた風貌が漂っていて、なんとも形容しがたい雰囲気をかもしだしている。

「この間大学を卒業して、今年からこの学校に赴任する事になりました宮下亜由美です。教科は現代文。よろしくお願いします」

 亜由美というその教師はそのように穏やかに挨拶し、大学を卒業したばかりにしては比較的大人びた対応でクラスのメンバーに挨拶した。それは面白みがないという事にもつながるのだろうが、大学卒業直後の新任教師によく見られる熱血教師というわけでもなく、なぜかすでに世の中を悟りきったようにも見えて、十影はその穏やかな笑みの裏にどことなくミステリアスなものを感じていた。

 ちなみに、容姿はそれなりに美人の部類で、ストレートの黒髪が肩甲骨の辺りまで届いている。端的に言えば男子生徒に人気が出そうな部類だ。

「さて、さっそくですが私もさっきの点呼だけで、ここにいる全ての人の顔と名前を覚えきれたわけではありません。というより、そんな事ができたらすごいわね。この中に全員の名前が言えるよ、という人はいるかしら?」

 急にそんな話を振ってきた。どうも、仕草や動作が同じ年代の女性としては落ち着きがあるだけで、根は年相応の感覚をもっているらしい。というより、もしかしたら単に温厚で何事にも大人な対応ができる、人格がとてもできた人という事なのかもしれないが。十影は、もし彼女が生徒から告白されても、特に動じる様子もなく大人な対応で処理していくのではないかと勝手な想像を抱いてしまった。

 それはともかくとして、そんな質問をされても誰も手を上げるはずもない。だが亜由美は特に幻滅した様子もなく、

「まぁ、普通はそうよね。じゃあ、みんなも予想していたと思うけど、自己紹介をしてもらいます。そうね、名前と出身校、あとは趣味とか」

 と、予想通りのことをはじめた。自己紹介。絶対にやるとわかっていながら、毎回非常に困るイベントである。

「じゃあ、セオリー通りにまず出席一番の方から」

 そう言われ、一番前の席の窓際に座っていた男子生徒が立ち上がった。

「ええっと、赤島恭太といいます。竹宮中学出身で、趣味はゲーム……」

 そんな感じで最初に自己紹介するやつが思いっきり滑るなどという小説なんかでは定番なシチュエーションがあるわけでもなく、比較的まともに自己紹介は進んでいった。

 ただ、何人かしたところで、十影は思わずオヤッと思ってしまった。

「大西洋です。漢字で書くと『大西洋』って書くんで、『たいせいよう』ってあだ名がついています。まぁ、のんびりするが好きなんで、皆さんよろしく」

 妙にのんびりとした独特のしゃべり方。十影はこの男子生徒を良く知っていた。大西洋。彼が二年前まで東京にいたときの幼馴染である。

 大西洋は小太りで妙にのんびりした人物だった。どんな事をするにしてもマイペースで、けっして自分のペースを変えようとしない、天性ののんびり屋だ。だが、そういう性格がなぜだか女子には受けるらしく、小学校時代からバレンタインデーにたくさんチョコをもらっていたのを十影は覚えている。ちなみに当の十影はといえば全く貰えなかったのだが。

 十影とはなぜか馬が合ってよく話をしたりしていたのだが、そんな大西とも引越しと同時に縁は消えた。長年ずっとコンビで過ごしてきただけあって、大西は十影の性格を一から十までほとんど知り尽くしている。さらに家が近所だった事もあって、あまり思い出したくもない引越し以前の十影の事を知っている人間でもあった。

 十影はそんな大西の自己紹介を聞きながら密かに大西の記憶を思い出していた。確か成績が良くて、進学校に進む為に塾に通っていたはずだ。なのによりにもよってどうしてこんな中堅校に来てしまったのか。しかも同じクラスとは、もはや誰かの意思が働いているのではないかと思いたくなるくらいだ。多分、自分の存在を知ったら後で話しかけてくるだろう。

 そんなことを思っているうちに、大西の自己紹介は済み、次の人が静かに立った。

 その女子生徒に十影は見覚えがあった。入学式の点呼のとき、妙に印象に残った女子。あまり聞きなれない名前と、前髪で隠れた目元。確か名前は……

「金津麟五」

 彼女……金津麟五は短くそう答えた。淡々と、冷静に。

「出身は竹宮中学校。趣味は読書」

 ここまでは普通の自己紹介だった。正直なところ、変わったやつだとは思ったが、同じような自己紹介の連続で十影も完全に油断していた。

 だが、その直後に十影は……いや、クラスの全員は度肝を抜かれることになる。

「金田一耕助の『金』に神津恭介の『津』、法水麟太郎の『麟』に明智小五郎の『五』で『金津麟五』。よろしく」

 それだけ言うと、麟五はそのまま座ってしまった。十影はポカンとした表情で麟五のいる席を見ていた。十影だけではない。クラスの全員が何とも言えない表情で彼女の方を見ていた。

 こいつは何を言っているんだ? それが十影の最初に感じた感想だった。どうやら自分の名前の漢字がどんな字なのかを紹介したらしいという事はわかったが、引き合いに出した名前の方がまったくわからない。

 金田一耕助と明智小五郎はまだわかる。確か有名な日本の名探偵の名前だったはずだ。だが、神津恭介というのは誰だ? まして法水麟太郎となると頭の中に漢字が浮かんでこない。そもそもそれは人名なのか?

 しばらくの間、何とも言えない微妙な雰囲気がクラスに漂っていた。当の十影もどう反応したらいいのかまったくわからない。

「はい、ありがとう。じゃ、次の人ね」

 と、亜由美がその呪縛を破ってあっさりと次の人に自己紹介のバトンを回した。次の女子生徒がハッとしたように立ち上がって自分の自己紹介をする。それをきっかけに、クラスの雰囲気も元に戻った。

「鬼天紗枝子です。出身は羽部中学校で……」

 鬼天と名乗ったいかにも真面目そうな委員長タイプの女子生徒が自己紹介している。すでにクラスの人間の麟五に対する関心はなくなっており、当の麟五本人も素知らぬ顔で何か本を読んでいた。かく言う十影自身も、こんな変なのとはできればお近づきにはなりたくないと思っていた。むしろこの後に控えている自分の自己紹介の方が心配である。

「じゃあ、次の人」

 そんな事を考えているうちに番が来て十影は立ち上がる。

「十影潔です。今年から東京に引っ越してきました。よろしくお願いします」

 本当に必要最低限の簡単な自己紹介だ。クラスのメンバーの反応も大したものではない。唯一、大西だけはハッとしたような表情をしているのが十影にも見えたが、この辺りは予想済みの事である。特にそれ以上話すこともないので、十影は話も程々にそのままさっさと自分の席に座り、自己紹介はその後もつつがなく進行していくのだった。


「こっちに帰ってきていたなら、連絡くれればよかったのに」

 自己紹介が終了して委員会や何やら色々決めた後、いったん休憩になった。すでに教室のあちこちで何人かのグループができていて、教室内は騒がしくなっている。

 そんな中で十影は、ある程度予想していた事とはいえ大西から声をかけられていた。

「相変わらずだな」

「そんなこと言わないでよ。また同じ学校になれてうれしいよ」

 大西の相変わらずのんびりしたしゃべり方に十影は苦笑するしかなかった。

「そう大げさに言うな」

「そんな事ないよ。十影君とは二度と会えないと思っていたから。その、二年前の件で……」

 と、少し声を潜めて遠慮がちに言った。

 大西は十影が二年前に味わった大バッシングの際、唯一庇普段を変わらず接してくれた人間だ。学校中からの集中的ないじめだけあって、大西もそこまで表立ったことはできなかったのだが、それでもその事を十影は今でも素直に感謝している。

「大丈夫だった? こっちで色々言われていない?」

「二年も前の事なんかみんな忘れてる。誰も覚えていない」

 十影の答えに、大西は一瞬複雑な表情をした。が、すぐに表情を切り替える。

「そっか……それじゃあ、改めて三年間よろしく」

「……あぁ、よろしくな」

 大西の気遣いに感謝しながら、十影は改めてそう答えた。

「おお? 大西、そいつお前の知り合いか?」

 と、突然誰かが十影たちのいる場所に近づいてきた。大西の知り合いらしい。

「うん。僕の幼馴染だよ。二年前に家の都合で引っ越してたんだ」

 大西はその男子生徒にに親しげに話しかける。十影はさっきの自己紹介を思い出していた。

「赤島恭太……だったか?」

「あぁ、よろしくな。ええっと……」

 出席番号一番の赤島恭太は、十影の名前を思い出そうと悩む素振りを見せた。

「十影潔」

「そうそう、十影だ。変わった名前なんで頭に残ってた」

「大西と知り合いなのか?」

 十影は思い返してみる。確か中学にこんなやつはいなかったはずだ。

「まぁな。同じ塾に通っていてよ。『大赤鬼トリオ』とか呼ばれてた」

「『大赤鬼トリオ』?」

 聴きなれない言葉に十影は思わず聞き返した。鬼ヶ島で暴れている大きな三匹の赤鬼の姿が十影の頭の中に浮かぶが、すぐに首を振ってそのイメージを消す。

「塾で特に仲がよかった三人の総称だよ。変に気が合って、よく一緒に勉強したんだよ」

 大西が懐かしそうに言う。

「でもよぉ。何だかんだ言って、三人そろって同じ学校に来ちまうんだから世話ねぇよなぁ」

「もう一人もこの学校にいるのか?」

 十影は聞いた。

「おう、いるも何もそいつは……」

「また変な噂話してるんじゃないでしょうね?」

 と、唐突に十影の後ろから静かな声が聞こえた。振り返ってみると、そこには眼鏡をかけた真面目そうな女子生徒がジッと赤島を見ていた。十影はこの少女にも見覚えがあった。

「さ、紗枝子……」

 赤島が恐々と彼女を見ていた。

「ええっと、鬼天紗枝子、だったか?」

 十影も遠慮がちに尋ねる。見るからに委員長タイプの子で、現に自己紹介の後の委員会決めで、あっさりHR委員長に選出されていた。

「ええ。十影潔君よね? 大西君から何回か話は聞いているわ。よろしくね」

 話し方や態度もしっかりしていて、こう言っては何だが赤島と仲がいいとはとても思えない。そもそも、雰囲気からしてこんな中堅校にいそうなタイプではないと十影は思った。

 だが、当の紗枝子は眼鏡をずりあげながら、かなり親しげに赤島に言葉を返した。

「『大赤鬼トリオ』なんて、そんな懐かしい呼び方をわざわざ教えなくたっていいでしょ」

「でも、塾じゃ紗枝子もまんざらじゃなさそうだったぜ」

 赤島がふてくされた様に言う。

「だから、そういう事言わないでよ」

「でも意外だったなぁ。鬼天さんって、桜森学園狙ってたんでしょ?」

 大西の言葉に、十影は少し感心した。桜森学園といえば、確か都内有数の名門私立高校だったはず。そこを狙っていたという事は、実際に本人の学力も高いのだろう。だが、だったらどうして紗枝子がこの学校にいるのかよくわからない。

「受けたわよ。でも落ちちゃって、そのまま公立のここを受験したの」

 そんなことを十影が思っていると、本人があっさりと理由を言ってしまった。

「へぇ、塾で一番の秀才でも駄目だったんだ」

「その割には、あんまり悔しそうじゃないな」

 大西が驚き、赤島が不思議そうに聞く。紗枝子はため息をついて髪をかき上げた。

「正直、あまり乗り気じゃなかったしね。親が行けって言うから仕方なく受験したけど、親が強要する勉強ばかりの上位校に行くよりは、こっちに来てよかったと思ってる」

「会った頃は頭でっかちのがり勉ちゃんだったのが、ずいぶんやわらかくなったもんだ」

「あなたたちと付き合っているうちに、本当に色々あったからね。後悔はしてないけど」

 そう言うと、紗枝子は十影の方を向いた。

「こんなやつだけど、話してみるといいやつだから、これからも仲良くしてあげてね」

「おいおい、それじゃ俺が問題児みたいじゃねぇか」

「私は本当の事を言っただけよ。じゃ、先生に呼ばれてるから、後でね」

 そう言うと、紗枝子はそのまま何かファイルを持って教室を出て行った。どうやら、仲がいいというのは本当らしい。

「意外か? ま、実際塾の連中からはよく言われてたよ。のんびり屋の大西と問題児の俺、そして真面目ちゃんの紗枝子。あれだけ性格がバラバラなのによく仲良くできるなって」

 赤島が気楽そうに言う。

「……ところで、赤島は竹宮中学の出身なんだよな?」

 話が一段楽したところで、十影は少し気になっていた事を聞くために、赤島に確認を取った。言うまでもなく、先ほど奇抜な自己紹介で全員の度肝を抜いたあの女子生徒の事である。

「あぁ、そうだけど」

「じゃあ、あの変な自己紹介をした子のこと、知ってるか?」

 十影はチラリと窓際の席に座っている金津麟五を見ながら聞いた。彼女は、誰ともグループを作る事もなく、ただ一人で本を読み続けていた。

「ん? あぁ、金津の事か。やっぱ気になったか?」

「さすがに、あんな自己紹介をされたらな」

「僕もびっくりしたなぁ。変わった子だよね」

 大西も頷きながら十影に同意した。赤島は頭をかきながら話し始める。

「俺も同じクラスになった事はないからそれほど詳しいわけじゃないが、それでも噂はよく聞いていたな。同じ高校を受けたって事は聞いてたけど、まさか同じクラスになるとは……」

「噂?」

「オタクなんだってよ」

 その言葉に、十影の頭には秋葉原にアニメオタクの姿が浮かんだ。確かにそれならあのわけのわからない自己紹介も多少は理解できるかもしれないし、前髪で目元を隠したあの容姿は、こう言っては何だがいかにもオタクにいそうな感じた。

「オタクっていうと、アニメのキャラのコスプレとかしたり、そういう話にやけに詳しかったりするやつだよな。女子の場合は腐女子とか言うらしいが」

 ところが、赤島の反応は意外なものだった。

「ああ、悪い。そういうオタクじゃないんだ。まぁ、最近はオタクっていうとそういう連中の事を指すみたいだけどよ」

 赤島が手を顔の前でひらひらと振る。だが、十影からしてみればオタクといわれてもその手の姿しか頭に浮かばない。

「じゃあ、どういう意味なんだ?」

「オタクはオタクでもアニメじゃなくて、いわゆるミステリーマニアって類のやつだ」

「ミステリーマニア?」

 聞き慣れない言葉に十影は戸惑った。

「ネッシーとかUFOとかの愛好家って事か?」

「それはオカルトマニアだろ。そうじゃなくて、推理小説とかの愛好家の方。まぁ、金津の場合は『マニア』を通り越して、そっち方面での『オタク』の域に入っているらしいけどな」

 赤島は首を振りながら答えた。

「推理小説って……探偵とか出てくる小説とかだよな。ホームズとか明智小五郎とか」

 あいにく十影はそちらの方面の小説を読んだ事がほとんどない。

「俺も直接聞いたわけじゃないけど、日頃から聞いた事もない本の題名とか、『トリック』とか『殺人』とか物騒な事ばっか言ってるやつらしくてよ。容姿もあんな感じだし、そんなもんばっか読んでるせいか人付き合いも悪くて、男子はもちろん女子連中からも疎遠だったって聞いてるぜ。もっとも嘘か本当か、中一の頃は活発なスポーツ少女だったって話も聞くが」

 十影は思わず麟五の方を見てしまう。お世辞にも、今の風貌からはとてもそうは思えない。

「中二の頃からああなったから、新手の中二病に感染したとか言われてたな。ま、嘘臭いが」

「でも確かに、女の子で推理小説オタクっていうのは珍しいかもねぇ」

 大西が感慨深げに言う。

「そうそう、極め付けのエピソードが一つあってよ。聞きたいか?」

 ここまできたら最後まで聞くのが筋というものだろう。十影は赤島の方を見た。

「あいつ、『殺人ノート』っていうのを持ってるらしい」

「何だ、そりゃ。まさか、名前を書かれたら死ぬノートとか?」

「そんなもん本当にあるわけないだろ。一年前だったかな、誰かは知らないけどあいつが落としたノートを拾って、中を見たやつがいるんだとよ。そしたら何が書いてあったと思う?」

 十影は首をひねった。

「あいつが今まで読んだ推理小説の記録さ。被害者の名前やら職業やら殺害方法やらがビッシリと書かれてあって、その横に同じように犯人の名前とか職業とかが書かれてたんだってよ」

 十影はゾッとしたような表情をした。

「推理小説読む人間はたくさんいるけどよ、被害者と犯人の情報を全部ノートにまとめるやつなんてまずいないだろ。小説の中とはいえノートの『被害者』の欄に書かれている人間は全員死んでいるわけで、ある意味物凄く怖いノートだと思うぜ」

 赤島の言葉に十影も同じような感想を抱いた。

「まぁ、他にも色々と噂があってよ。何考えてるのかわからなくて、どこかつかみきれないところもあったから、同じクラスのやつからは『殺人マニア』とか呼ばれてたらしい。何て言うか、俺らとはどこか思考がずれてんだよなぁ」

「じゃあ、あの自己紹介も?」

「多分、全員何かの小説に出てくる探偵の名前だと思うぜ。俺も明智小五郎と金田一耕助くらいは知ってるけどよ。神津と法水だっけ、残り二人はさっぱりだな」

 十影は改めて彼女の方を見た。確かに、赤島の話を聞く限りはお近づきになりたい相手ではないようだ。何よりも、彼女自身が人から遠ざかろうとしているようにも見て取れる。それならこちらからあえて話しかける必要もない。十影はそう思いながら麟五の方から視線を外した。

「ところで、この後どうする? 確かHRがもう一回あって、それで解散だったよな」

 赤島が二人に尋ねる。

「暇なら部活見学にでも行く? 勧誘活動はもう始まってるみたいだし」

 大西が提案した。確かに、さっき窓から外を見ると、それぞれの部活がブースを出したりして新入生の勧誘が始まっているようだった。

「二人は何か部活に入るのか?」

「うーん、何かには入ろうかって思ってるんだけどねぇ」

「まだ明確には決まってないな。とりあえず中学のときに卓球をやっていたから、卓球部は見に行くつもりだけどよ。そういう十影はどうなんだよ」

 聞き返されて十影は少し戸惑ったような表情をした。が、少し逡巡した後、こう答える。

「俺は、どこにも入るつもりはないな」

「へぇ。珍しいな」

 赤島は物珍しそうに十影を見た。が、大西は何とも言えない表情で十影を見ている。

「ん? あれ?」

 と、赤島が変な顔をした。十影は訝しげな表情をして赤島の方を見る。

「いや、さっきあの担任が部活について話してたけど、聞いてたか?」

「……悪い、入るつもりがないからあまり真面目に聞いてなかった」

 その言葉に、赤島は言いにくそうにしながらこう言った。

「いや、お前には悪いんだけどよ。この学校、確か部活全入だったと思うぜ」

 その言葉に、十影はそのままその場に固まってしまった。


 放課後、昇降口に行く途中で、十影はため息をついていた。隣には大西がいて、十影をなだめようとしている。赤島は予告通り卓球部に行ってしまったようだった。

「全入ってことは、どこかに必ず入る必要があるって事だよな。入るつもりなかったんだが」

 地方の中学校にいたときも、十影はずっと帰宅部で通していた。あちらの学校では好んで人付き合いをしていなかったし、大西がいなかったらこの学校でも同じようにしていたに違いない。そう言う意味では、あの金津麟五という少女と紙一重の差しかないのかもしれないなどと十影は内心密かに思っていたりした。

「大西はやっぱり美術部か?」

 十影は大西が中学時代に美術部に所属していた事を思い出しながら聞いた。

「候補の一つかなぁ。一応他にも見て回って、面白そうなのがなかったら美術部にするよ」

 大西はマイペースに答える。

「でも、何で部活全入なんだ? 普通はそういうのは自由だろ」

「よくわかんないけど、この学校は昔からそうなんだってさ。その代わり、部活の種類はいっぱいあるみたいだけどね」

 何とも納得できない話だが、決まっている以上は仕方がない。十影は手に持っている部活紹介の冊子を眺めた。

「ま、確かに数だけは多いみたいだけどな」

 ざっと見ただけでも数十はあるようだ。有名どころから聞いたことのない部活まで多種多様で、それぞれの部活が紹介欄に色々なコメントを書いている。

「どうする? 僕と一緒に見学してまわる?」

 大西が聞く。が、十影としては正直そんな気分になれないというのが本音だった。

「悪い。今日は家に帰る」

「……まぁ、それもいいんじゃないかなぁ。見学期間は二週間あったはずだし」

 そんなことを言っているうちに二人は昇降口に着いた。下駄箱で靴を履き替え、外に出ようとしたところで、十影が不意に何か思い出したような表情をした。

「しまった、筆箱を教室に忘れてきた」

「待ってようか?」

「いや、先に行ってくれ。どうせこのまま帰るつもりだ」

「……そっか。それじゃ、また明日」

 大西はそう言うとあっさりと手を振ってその場を離れた。十影が一人になりたがっているのを察したらしい。十影はそんな大西に小さく頭を下げると、筆箱を取りに教室に戻った。

 途中、何人か同じ新入生とすれ違ったが、その表情は不安と期待が入り混じった複雑なものが多かった。だが、それでもやはり期待の方が多いのだろう。実際、ほとんどの高校生というのはそのようなものではないだろうか。

 一方、十影が抱いている感情はただ一つだった。虚無感。端的に言えばそういう事になる。高校生活に何か期待を持っているわけでもなく、ただ虚しいというのが十影の感想だった。

 もちろん、十影も最初からこんな境地に達していたわけではない。二年前の事件を経験さえしなければ、彼も他の生徒たちと同じく普通の高校生活を送っていただろう。だが、普通というものは意外と呆気なく崩れるものだ。十影は二年前、それを身に染みて実感した。誰も信じられなくなり、人との関わりを極力絶つようにした。

 そんな過去があってこそ、今の十影はある。十影自身、この性格は二度と直ることはないだろうと思っており、それこそあの事件が根底から覆りでもしない限りは、自分がこの呪縛から解放される事はまずないだろうと考えていた。

 そんな事を考えながら教室に着くと、十影は自分の机の引き出しにあった筆箱を手に取り、昇降口に引き返した。日は暮れかかっていて、窓から夕日が差し込んでくる。何か頭がもやもやしたまま、十影は廊下を進んだ。

 ところが、それがいけなかったらしい。気がついたときには、十影は見知らぬ廊下をとぼとぼと歩いていたのだった。

「……ここはどこだ?」

 十影は思わず立ち止まって周りを見渡した。だが、この廊下は今まで一度も通ったことがなく、おまけに周囲は誰も歩いていない。どうも、どこかで廊下を間違えたらしい。案内板などという親切なものがあるわけもなく、道を聞こうにも誰もいないのではどうしようもない。周囲の部屋を見ても鍵がかかっている部屋ばかりだ。

 とにかく戻ろうとして十影はその場をUターンした。だが、戻ったら戻ったで、ますます道がわからなくなる。しばらく進むと十影の目の前には薄暗くて狭い廊下があるだけで、しかも突き当たりでどん詰まりになっていた。廊下には埃まみれの机や椅子がいくつも積まれていて、通る事さえ難しい。いよいよ本格的に困った事になってきた。

 目の前の部屋には一応「美術室」という薄汚れたプレートがかかっていたが、かなり長い間使われていないのが見てわかる。この学校は確か何年か前にそれまで使用していた旧校舎から、現在使用されている新校舎の方にすべての機能を移したという事だ。

 この誰も使っていない様子から見て、これは古い方の美術室なのだろう。という事は、ここは新校舎と渡り廊下でつながった旧校舎という事らしい。

 部活紹介冊子によれば、新校舎移転と同時に旧校舎の教室はすべて機能が撤廃されて、残された教室は第二部室棟として機能しているらしい。とはいっても、元々専用の部室棟がある上に旧校舎そのものの設備が古いので、この建物に入っているのはよほどの弱小部か同好会くらいで、空き教室もかなり多いようだ。教室によってはただの倉庫と化している場所もあるようで、人がいないのも当然といえば当然なのかもしれない。

 とにかく場所がわかった以上長居は無用だ。十影はそのまま再度Uターンして帰ろうとした。

 その時だった。行き止まりのはずの薄暗い廊下の突き当たりで何かが動いているのが見えた。

「ん?」

 十影は思わず足を止め、そちらの方を見た。見るからに誰もいそうもない廊下に動く物体がいるとなると、十影としても少し薄気味悪く思ってしまう。非科学的な話ではあるが、幽霊か何かではないかと十影は思ってしまった。

「……まさかな」

 そう呟きながらも、十影は慎重に足を踏み出し、廊下に置かれている机や椅子の陰に隠れながら廊下の奥へ向かった。どうやら廊下の一番奥にある小さな教室のドアの前に何かいるようだった。だが、廊下が薄暗い事もあってその姿はよく見えない。ただ、それはその教室のドアを開けようとしているようで、ドアノブをガチャガチャと揺らす音が聞こえてくる。正体を確かめようと、十影は少し身を乗り出してそれを見ようとした。

 まさにその時だった。

「そんなところに隠れていないで、出てきたら?」

 感情のない平坦な声でいきなり呼びかけられた。それが自分に対するものだとわかる前に、十影は反射的にその場に立ち上がってしまっていた。そこには、見知った顔の人間がいた。

「か、金津?」

 赤島が噂していたミステリーオタク……金津麟五が、前髪の奥からジッと十影の方を見つめていたのだった。

「あー、その、俺は……」

「十影君、だったよね。どうしてこんなところにいるの?」

 慌てふためいてしどろもどろになる十影に対して、麟五はひたすら冷静で、口調も平坦なままだった。表情に変化はなく、前髪で目元が見えにくい事もあって感情を読み取るのも難しい。とはいえ、彼女がこんな場所にいるのは、何だが妙に様になっていた。

「どうしてって……お前の方こそ何でこんなところにいるんだ? 俺の事、知ってるのか?」

「……一度に二つ質問されるのは嫌いなんだけど」

 麟五はただただ冷静に言う。

「二つの目の質問から先に答えると、あなたの自己紹介を私は聞いているから、私があなたを知っていても当然。一つ目の質問についての答えは、部活見学に来ただけ」

「部活見学?」

 十影は首をかしげた。誰もいないこの場所のどこに部活があるのか。

「何部の見学だ?」

「ミステリー研究会」

 麟五はあっさり答えた。だが、十影の頭にはクエスチョンマークが浮かぶ。

「そんな部活あったか?」

 十影は改めて手に持っていた部活案内をめくって目次を確かめてみたが、そんな部活はどこにも掲載されていない。彼女が何かを勘違いしているのではないかと十影は思った。

 だが、麟五は小さく首を振ると、ドアの上のプレートを黙って指差した。よく見ると『美術準備室』という薄い印字の上に、『ミステリー研究会』という手書きの紙が張ってある。

「十年前に部員がいなくなってから、ずっと休部状態。元々本来の部室棟にあった部室も空き部屋になって、ここが旧校舎になったときに休部中の部活の部室がこの空き部屋に強制移転させられて、そのまま存在自体を忘れられてたみたい」

「よく知ってるな」

「たまたま」

 短く答えると、麟五は再びドアノブをひねる。すると、錆付いていたのかさっきまで動かなかったドアが簡単に開いた。

 部屋の中は埃だらけだった。廊下以上にひどいかもしれない。あちこちに蜘蛛の巣が張り、埃で息がかなり苦しい。十影はハンカチで口をふさいで中を覗いていたが、麟五はそんな事をせずにまっすぐ室内に入っていく。乱雑に積み重ねられた机や椅子に、何が入っているのかさえわからない段ボール箱の山。何かの部室というよりも忘れられた倉庫という感じが強い。

「くそっ、まずは換気しないと……」

 十影は窓に駆け寄ると、かかっているカーテンを開いて窓を開けようとした。しかし、窓枠もかなり錆付いていて、ビクともしない。下手に開けたら今度は閉まらなさそうで、十影は窓を開けるのを断念せざるを得なかった。

 改めて室内を見ると、積み重ねられた物品のせいでそもそも歩ける範囲そのものが少ない感じである。元が美術準備室だけあって広さもそこまで広くはない。そもそも、何年か前に誰もいない休部中の部活の部室を何の考えもなしに移動しただけのようなので、部室として使う事を前提にしているかどうかさえ怪しい。現にこの部屋で活動した部員は一人もいないはずだ。

「どうしよう」

 と、突然麟五がそんなことを呟いた。

「誰もいないとなると、これ、誰に出したらいいのかしら」

 そう言って、ポケットから何か紙を出す。入部届けのようで、そこにはかなりの達筆でしっかり「ミステリー研究会」と書かれていた。

「お前、入るつもりなのか?」

「そう」

「部室がこの惨状なのに? そもそもこの部活、まだ部活として正式認定されているのか?」

 十影は思わず突っ込むように聞いた。が、当の本人はまったく動じていないようで、

「そうね。掃除が大変」

 と、言っただけだった。

 この時点で、十影は赤島の言葉を嫌でも思い知ることになった。確かにこいつは変人だ。どこか話の内容がずれている。

「……そう言えば、お前の自己紹介、かなり独特だったな。ちょっとわかりにくかったが」

 十影は思わずそんな事を聞いていた。何も話題がないのが文字通り息苦しかったのだ。が、彼女は表情を変えないままちゃんと返してくれた。

「正直に言っていい。気味悪いって思った?」

「まぁ、かなり個性的だった、な」

「いいの。わざとやってるし、ああ言っておけば誰も私に近づこうとしない」

 麟五はどこか達観したように言った。

「あれ、どういう意味だ? 俺には半分くらいしかわからなかった」

「それが普通。わかる方が凄い」

 そう言うと、麟五は埃だらけのチョークを手にとって、黒板に大きく自分の名前、つまり『金津麟五』と書いた。

「金田一耕助の『金』に神津恭介の『津』、法水麟太郎の『麟』に明智小五郎の『五』。それで金津麟五。初対面の人には大体この挨拶で通してる。うまい自己紹介だと私は思うんだけど」

 どこがうまいのか十影にはさっぱりわからなかった。

「金田一とか明智とかはまだわかるが、あと二つがさっぱりわからん」

「全員、日本の探偵小説の黎明期に登場した探偵たちの名前。日本三大探偵って知ってる?」

 麟五は突然聞いてきた。十影は当然のように首を振る。

「日本の推理小説に登場する探偵の中でも特に推理力が高くて知名度が高い三人の探偵の総称。江戸川乱歩の明智小五郎、横溝正史の金田一耕助、高木彬光の神津恭介の三人が該当する」

「神津恭介なんて聞いた事がないぞ」

「推理小説の世界じゃ有名な人。でも他の二人が凄く有名だから、普通の人はあまり知らない。高木彬光のデビュー作『刺青殺人事件』でデビューした東大医学部の教授で、戦後直後から平成六年発表の『神津恭介の予言』までかなりの期間活躍した名探偵」

 十影の知らない知識を、麟五はいともあっさりと言ってのけた。

「残りの一人は?」

「法水麟太郎は戦前の傑作で日本三大奇書の一つとされる小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の探偵役。彼の語る物凄い量の雑学で苦しむ読者が多い」

「日本三大奇書?」

「あまりに奇抜すぎて解釈が難しいとされている日本の推理小説における三つの問題作。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』の三作。特に『ドグラ・マグラ』は、読んだら一生に一度は気が狂うとかいわれている。竹本健治の『匣の中の失楽』を含めて四大奇書と言われる事もあるけど、私はどうかと思ってる」

 麟五の口から聞いた事もないような本の名前がスラスラと出てくる。でまかせではない。彼女は本当の意味でミステリーマニア……いや、ミステリーオタクなのだと十影は実感した。

「ミステリーマニア、なんだよな?」

「赤島君辺りに聞いた?」

 麟五は逆に問い返してきた。

「なぜ知っている?」

「さっきあなたが赤島君と話しているのを聞いた」

「赤島はお前を知らないって言ってたぞ」

「向こうは知らなくても私は知ってる。それだけ」

 麟五はそんな風に答えると、ジッと十影の方を見た。

「で、あなたは私をどう思うの? 薄気味悪いって思った?」

 麟五はそう言いながら十影の様子を観察している。十影は思わず息を呑んだ。窓から差し込む夕日が舞い上がった埃を照らし出し、なんとも幻想的な光景をその場に映し出している。

「私の事、色々聞いたはず。噂の『殺人マニア』に初めて会った感想は?」

 そのときになって、初めて前髪の奥からかすかに二つの目が見えた。その目は、人形のように輝いているのだが、それでいて思ったより人間的に見える。前髪を上げさえすればそれなりにかわいく見えるだろうな、などと不謹慎なことを考えてしまったが、今の彼女の視線はどこか悲しみというか寂しさというか……そんな感情が込められているように十影は感じた。

「『殺人ノート』を持っているっていうのは?」

「本当。見たいの?」

「……いや、やめとく」

「だよね」

 特に声のトーンを変える事なく麟五は言う。

「それで、さっきの質問の答えは?」

 ぶれる様子は一切ない。十影は仕方なく、思った通りの事を答えた。

「聞いたとおり、だな」

「そう」

 麟五は短くそう答えると近くにある椅子を引っ張り、埃を払ってその上に遠慮なく座った。

「ところで、あなたこそこんなところで何をしてるの?」

「あぁ、ええっと……」

 十影はまた言葉に詰まった。まさか校舎で道に迷ってここにたどり着いたとは言えない。

「ちょっと、校舎の探検を」

「そう」

 十影のとても苦しい言い訳に対し、麟五は一言そう言っただけで、鞄から一冊本を取り出すと、そのままそれを読み始めてしまった。

「もうすぐ下校時間だが」

「あなたには関係ない」

 麟五は短くそう言った。

「できれば一人にしてほしい。ここなら他の人に干渉される事もないだろうし。それに、『殺人マニア』の私にかかわるとろくな事にならない。変に疑われる前に、帰った方がいい」

 その言葉に十影は押し黙るしかなかった。麟五は十影に対して拒絶の意思を示している。

 結局、それっきり彼女は何を言っても答えてくれず、十影は無言の圧力に押されるようにその場を去るしかなかった。ただ、薄暗くなった教室でひたすら本を読み続ける麟五は、どこか自分と同じような孤独を抱えているように十影には見えたのだった。


 それから数日は色々な役割を決めるHRや行事などが目白押しで、あまりゆっくりとはしていられない状態だった。教科書の購入も一度にまとめて行われ、それぞれが袋に入った重そうな荷物を抱えている。一方で、校庭の方では本格的にそれぞれの部活が勧誘活動を始めているらしく、あちこちにブースが設置されているのが教室の窓からもよく見えた。

「できるやつは違うよなぁ」

 入学式から四日ほど経ち、入学式翌日から連日降っていた雨がやんだ四月十五日金曜日の昼食の時間。十影が大西や赤島と一緒に弁当を食べていると、突然赤島がそんな事を言い始めた。

「何だ? また鬼天のことか?」

「違う。何であいつが出てくるんだ」

 赤島は首を振りながら言った。

「ほら、一組に凄いかわいい子がいるだろ?」

「さぁな」

 十影は短く答える。入学してまだ数日しか経っていないこの状況で、他のクラスまで見ている余裕はまったくない。大西も苦笑しながら首を振っていた。

「そんなの確認してるの、赤島君くらいだよ」

「うるせぇよ。覚えてねぇか、ブラウンの髪をポニテにした子。入学式の点呼で一際元気よく声を上げてた」

 そう言われると十影にも見覚えがあった。確か玉村早苗とか言う名前だったと思い返す。目立っていたからか、なぜかとても印象に残っていた。

「それで、その子がどうした?」

「どうもこうもないぜ。昨日の放課後、ほとんどの部活の上級生が、帰ろうとしている彼女に真っ先に声をかけにいったんだ。部活の間で彼女の争奪戦が起こってるらしい」

「なんでまた?」

 大西が首をひねる。

「気になって見学に行ってた卓球部の先輩に聞いたんだけどよ。あの子、桜森学園の中等部からこっちに来た子らしい」

「桜森学園って、鬼天が受けて落ちた?」

「あそこは元々小中高一貫教育でさ。中等部と高等部に上がるときに外部から一定数編入生を受け入れる。だから、一度入ってしまえば母体の桜森大学までエスカレーターで行く事ができるはずだ。けど、その子はなぜだから知らないが桜森学園から外れてわざわざこんな中堅校にやってきたんだと」

「へぇ、変わってるねぇ」

 大西が相変わらずのマイペースで答える。

「何でも、桜森学園の中等部じゃ生徒会長までやってたらしい。勉強も優秀でスポーツも万能。所属していたテニス部ではシングルで関東大会出場経験もある。ただ、本人はどこに所属するか決めてないみたいで、みんなそんなやつを放っておくわけがないって事さ」

「何もしなくても向こうからお誘いがくるなんて、そんな人もいるんだねぇ」

 大西が感心したように言った。

「まぁどうせ、俺らみたいな普通の人間には目もくれないやつだろうけどさ。まったく、出会った頃のどっかの誰かさんじゃあるまいし」

「誰の事?」

 不意に後ろから声がして、振り返ると鬼天紗枝子が弁当箱を持ってその場に立っていた。

「さ、紗枝子……」

「ここ、座っても?」

 そう言うと、紗枝子は返事を待たずに十影と大西の間に椅子を割り込んで座り、さっさと自分の弁当を出して食べ始めてしまった。

「おいおい、こういうのは普通女子同士で食べるもんだろ」

「友達と一緒に食べるのは悪い事?」

「いや、でも他の連中こっち見てるし……」

「見たいやつは勝手に見させとけばいいのよ」

「お前、本当に昔と変わったな」

 ほとんど呆れ気味の赤島に対し、紗枝子はなんら動じる事なく弁当を食べ続ける。

「それはそうと、今話していた早苗さん、そんなに悪い子じゃないわよ」

「何でわかるんだ?」

「話したから」

 紗枝子はあっさりと言う。

「話したって……」

「昨日の放課後にさっそく一年の各組の委員長が集まった会議があってね。そこで彼女と会ったのよ。彼女、一組の委員長になったみたいだから」

「どこまでも完璧なやつだな」

 赤島はそう言ってため息をついた。

「で、話してみたんだけど結構親しみやすい人だったわ。明るくて人当たりもいい。多分だけど、男女共に人気が出るわよ」

「はぁ、世の中にはそんなやつもいるんだなぁ」

「髪がブラウンなのは?」

 大西が興味深げに尋ねた。

「さぁ、少し話しただけだから。でも、ちょっと聞いた限りだと祖母か誰かが外国人で、その遺伝みたいね」

 と、その時十影は不意に何とも言えない視線を感じ取った。辺りを見てみると、クラスメイトたちが興味深げな視線をこちらに向けている。やはり、この組み合わせで一緒に弁当を食べているのがかなり珍しいようだった。

「それじゃ、私はこれで」

 と、さっさと弁当を食べ終えた紗枝子が、スッと立ち上がった。

「いつも思うけどよ、弁当食うの早いな」

「性分なのよ」

「俺らとつるむのはいいけどよ、それで他の友達なくすんじゃねぇぞ」

「大丈夫よ。それこそ昔と違って、その辺はうまくやってるから」

 そう言うと、紗枝子は他の女子生徒の集まりに入っていった。

「昔と違ってって、どういう事だ?」

 十影は他の二人に尋ねた。

「あいつとは二年ほど前に塾で会ったんだけどよ。出会った当時は勉強一筋、友達いらないってタイプでさ。人との間に壁を作ってた。ま、その後色々あって俺ら二人と仲良くなってさ。それがきっかけで今みたいに友達づきあいもできるようになったんだ」

 十影は素直に感心した。

「それよりも、部活決めたか? 俺はこのまま卓球部に入るつもりだけど」

「うーん、僕はもう少し見て回りたいなぁ。まだ一週間くらいは決める期間があるし」

 大西がのんびり言う。

「で、十影はどうなんだよ?」

「俺は……まだ、考え中だな」

 十影は思わず誰もいない窓際の席をチラリと見ながら、赤島の問いに対してそう答えていた。


 放課後、十影は大西たちと別れて、一人廊下を歩いていた。新校舎から旧校舎へと続く一階の渡り廊下を通って旧校舎の方へ向かう。渡り廊下の入り口の辺りに蛍光灯の修理業者がいるくらいで他には誰もいない。

 ほとんどの一年生は表にあるブース巡りをしているはずだ。だが十影はただ一人、誰もいない旧校舎を進んでいる。今回は迷っているわけではない。ちゃんと目的としている場所がある。

 十影はそのまま歩き続け、ある廊下の突き当たりにある部屋の前に立った。旧美術準備室……すなわち、自称ミステリー研究会の部室の前に。

 儀礼的に小さくノックし、十影は返事を待たずにドアを開ける。どうせ返事がないのはわかりきっている事だ。中に入ると、そこには高く詰まれた机の山と、その脇に一人腰掛けて本を読む小さな人影の姿……つまり、金津麟五の姿があった。

 麟五は学校の大半の時間をここで過ごしているようだった。授業時間はともかく、昼休みや放課後に彼女が教室にいる事はほとんどない。昼食もこの埃っぽい部屋で食べているようだ。

 初めて会った次の日に窓を無理やり開けて換気したので、当初に比べれば埃はかなりましになっている。今も窓は開けっ放しで、外からは歓迎ブースからの喧騒が聞こえてくる。

「……また来たの?」

 麟五は本から顔を上げないまま、そう言って十影を出迎えた。

「物好きね。他にも部活はあるんじゃないの」

「俺も派手なのは好きじゃない」

 そう言って、十影は手近な椅子を持ってくるとそれに座った。

「言わなかった? 私にかかわるとろくな目に遭わない」

「俺はもう、そういうのはとっくに経験している」

「そう」

 麟五は変に詮索する事なく、そのまま再び読書に没頭していた。

「それ、何の本だ?」

「横溝正史の『恐るべき四月馬鹿』」

 麟五は簡単に答える。

「横溝正史って、金田一耕助の作者だよな。それも金田一か?」

 十影は思い出しながら言う。その程度の知識は十影にもあった。だが、彼女は首を振る。

「これは金田一耕助シリーズじゃない。横溝正史のデビュー作。と言っても、ほとんどの人は知らないと思う。たった数ページの短編だし」

 やけに古めかしい文庫本の表紙を指し示しながら、麟五はそう言った。

「そう言えば、入部届けは提出できたのか?」

 十影はずっと気になっていたことを尋ねた。すると、麟五は首を振った。

「十年以上も休部のせいで顧問もいなかった。まずはこの休部状態を解消する必要がある」

「休部解消って、どうやるんだ」

「顧問一人と部員三人。それで休部は解除されると部活規則に書いてあった」

「それは……厳しい話だな」

 そもそも、ミステリー研究会がある事を知っている人間自体が十影と麟五しかいない上に、いたとしてもこんな廃墟のような部室に来たがる奇特な人間はそうそういないだろう。そんな事を十影は考えながら、それからしばらく近くの椅子に座って手持ち無沙汰にしていた。

 そのまま会話もなく時間が過ぎる。十影が外からの喧騒にぼんやり耳を傾けていると、不意に何の前触れもなく、本に目を落としたまま麟五が言葉を発した。

「それにしても、どうして毎日こんなところに来るの? 場所なら他にいくらでもあると思う」

 十影は黙り込んだ。

「別に言いたくないなら強要はしない。でも、そろそろ自分の部活の事も考えた方がいい」

「……正直、部活に入るのはあまり気が進まない」

 唐突に十影が答えた。その答えを聞いて麟五はしばらく何も言わずに本を見ていたが、不意に黙って本を閉じて頭を上げ、前髪の向こうから十影の方を見た。十影は言葉を続ける。

「あまり人とかかわりたくないんだ。大西のやつは例外として、あとはどうしてもな」

「大西君を信頼しているの?」

「あいつには恩がある」

 十影の言葉に、麟五は軽く首をかしげた。

「私には関わろうとしているみたいだけど」

「……お前は変に干渉しようとしない。だからこそ、ここに来てしまうのかもしれない」

 十影の言葉に、麟五は小さく首を振った。

「……あなたも、相当に変わってる」

「理由を聞かないのか?」

「詮索するのは私の趣味じゃない。あなたから話してくれるなら止めはしないけど」

 そう言いながらも、麟五は言葉を続ける。

「でも、この学校は部活全入。どんなに嫌でも、どこかの部活には入らないといけない。ここにずっと来ているだけのあなたに当てはあるの?」

「そういうお前こそどうする気なんだ? このままここの休部が解除されないと、結局ここへの入部は不可能になるんだよな。そうなったら、お前も他の部活に入らざるを得なくなる」

「そうみたい」

 麟五は何とも思っていないと言わんばかりに淡々と言った。

「一応聞いておく。あなた、ミス研に入るつもりは?」

 麟五の問いに、十影はしばらく逡巡するように考え込んだ。が、やがてこう答えた。

「……俺にとってはここが一番過ごしやすい場所だっていうのはさっきも言ったように間違いない。だから入れるものなら入りたい。だけどな……」

 十影は一瞬詰まるが、麟五は黙って続きを促す。それを受け、十影は言葉を続けた。

「……変だと思うだろうが、俺は推理小説が読めない。推理小説だけじゃない。人が死ぬような小説は全部だ。だからミス研だけは入れない。……残念だけどな」

 その表情は真剣だった。そんな十影の言葉を、麟五は少し吟味しているようだったが、

「『嫌い』や『読みたくない』じゃなくて『読めない』ね。なるほど」

 と、意味ありげに十影の言葉を繰り返した。気まずい空気がその場に流れる。

 窓の外から差し込む日差しがだんだんと夕暮れに染まってきている。その空気に耐え切れなったのか、おもむろに十影は立ち上がった。

「帰る」

「……そう」

 麟五は声のトーンを変えずに淡々と返事すると、それっきり何事もなかったかのように再び本に視線を戻した。十影は少しためらうような素振りを見せたが、そのまま鞄を手に取ると出口のドアに手をかける。

「じゃあ、私もはっきり言う」

 と、その直前に麟五から声を発した。十影の動きが止まる。

「入るつもりがないなら、もうここには来ないでほしい。その方が互いにとっていいと思う。あなたはここにい続けたら部活を選ぶ機会を逃してしまう事になる。私も入部するつもりもない人がここにいると休部解除に向けた活動がしにくい。互いにメリットはない」

「……そうだな」

 十影は背を向けたまま答えた。確かにこのまま入るつもりもないのに、惰性的にズルズルと来続けるのは迷惑以外の何物でもないだろう。

「それじゃあ、これで」

 十影はそう言って彼女の返事を待つことなく旧美術準備室を出た。誰も通らない寂しい廊下を静寂だけが支配している。ただ、このまま他の部活の見学に行こうという気はまったく起こらなかった。

 明日からはこの部屋に逃げ込むこともできない。何だかんだ言って、自分は彼女とのこの奇妙な時間を気に入っていたのかもしれない。だが、それもここまでだ。彼女の前でははぐらかしたが、自分はただ単純に目の前の事から逃げていただけなのかもしれない。そんな事を考えながら、十影は暗澹たる気分で重い足を引きずり、旧校舎を後にした。

 旧校舎から直接外に出入りする事はできないので、外に出るにはいったん渡り廊下で新校舎に戻ってから昇降口に行く必要がある。渡り廊下を渡って昇降口に出ると、十影は自分の下駄箱で上履きを履き替えようとした。

 その時だった。

「ちょっと」

 女子生徒の声だった。十影は思わず後ろを振り返る。

 その瞬間、何人もの生徒が十影の周りを取り囲んでいた。女子生徒が五、六人。しかも全員が怖い表情をして十影を睨んでおり、特に先頭にいるつり目にツインテールの女子生徒の目には憎悪まで見て取れた。どう見ても、友好的には思えない雰囲気に、十影はなるだけ刺激しないように尋ねかけた。

「何だ?」

 それに対し、先頭の女子生徒が言った言葉は簡単だった。

「あんたがやったんでしょ」

 あまりにも突然すぎる告発だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ