—1—「焦燥感」
甲斐を隠れ家へ連れ帰った瞬間、休憩室の空気が一変した。
「おぉっ!無事だったか」
「生きてたぁ!」
美緒たちが一斉に駆け寄る。
つい先ほどまで漂っていた重苦しい空気が、換気されたみたいに一気に薄れていく。
甲斐はすっかり興奮した様子で、牢屋で受けた拷問について語り始めた。
「聞いてくれよ! いきなり冷水ぶっかけられてさ!しかも、そのあと意味分かんねぇ説教始まるんだぜ!?」
可笑しな拷問話には笑いが起き、洒落にならない話には悲鳴が上がる。
「とにかく冷水大好きなんだよな。なにかっていうと冷水でさぁ~。ずっとクネクネしてたら、意外とこれ耐えられるんだな」
「ひぃ~あたしなら耐えられないよ」
「でも想像するとちょっと面白いです……」
「おい、面白くないわ」
笑ったり、怒ったり、呆れたりと感情が目まぐるしく行き交い、室内は妙な熱気に包まれていた。
だが――その輪の中に、駿河はいなかった。
彼だけが、休憩室の隅で蹲るように座り込んでおり、騒ぎから切り離されたように、じっと床を見つめたまま動かない。
表情は暗かった。普段のような不貞腐れた態度でも、怒りを滲ませた顔でもない。どこか虚ろで、生気が薄い。
まるで、何か大切なものを根こそぎ削り取られてしまった人間のようだった。
美緒はその様子が気になり、そっと近づいた。
「……駿河くん?」
駿河はゆっくり顔を上げた。甲斐を助け出したはずなのに、どこか敗北した人間の顔をしている。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
駿河は掠れた声で答えた。
「今日は疲れた。もう寝る……」
そう言って立ち上がる。
しかし足取りは酷く重く、どこかふらついていた。
そのまま、誰とも目を合わせないまま休憩室を後にする。
扉が閉まったあと、和奏がぽつりと呟いた。
「駿河さん、汚いですね。身体洗ってないのに、そのまま布団へ入るなんて……」
「う、うん……」
美緒は曖昧に相槌を返した。
普段なら、こういう微妙にズレた発言も、“和奏らしい”で済ませていたかもしれない。むしろ少し可愛らしく感じることすらあった。
だが、今は違う。あの駿河の顔を見たあとでは、どうにも笑う気になれなかった。
とはいえ、わざわざ和奏を咎めるほどのことでもない。
美緒は小さく息を吐くと、心配そうに駿河の消えた扉へ視線を向けるのだった。
―――――――――――――――――――――――――
夕食の時間になって、ようやく駿河が休憩室へ姿を現した。
食卓では、甲斐を中心に賑やかな会話が続いている。
「いや~うまい。監禁されている間も飯は出てくるんだけど、とにかく味気なくてさ
~不味いって文句付けたら冷水ぶっかけられて、ご飯びしょびしょ。変わりはないから、ウェウェ言いながら食べたよ」
「そんなの食えないよ。ホントに酷いことするね」
「でも、想像するとちょっと面白いです」
「和奏ちゃん!?」
笑い声が上がる。
だが、その輪の中にいても、駿河だけは別世界にいるようだった。
椅子へ腰掛けると、無言のまま箸を動かし始める。味噌汁を飲み、米を口へ運び、ただ黙々と咀嚼する。
誰とも目を合わせず、笑いもしない。相槌すらも打たなかった。
その異様な静けさに、次第に周囲の空気もぎこちなくなっていく。
見兼ねた美緒が、おそるおそる声を掛けた。
「……ねぇ、どうしたの?」
駿河は反応しない。
「帰って来てから、なんだか変だよ」
しばらく沈黙が続いた。
だが、やがて駿河の箸がぴたりと止まり、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺たちは、少数派だ」
低く、疲れ切った声だった。
「うん……そうだね」
美緒は戸惑いながら頷く。
「だから、布教活動して……少しずつ賛同を増やして――」
「そうだ!!」
突然、駿河が大声を上げた。
食卓の空気がびくりと揺れ、美緒は肩を震わせ、箸を落としかけた。
甲斐も、和奏も、ダニエルも、高山までもが驚いたように駿河を見る。
駿河は顔を上げていた。
その目には、妙な熱が宿っている。
先ほどまでの虚ろさとは別種の危うさだった。
「だったら、こっちが多数派になればいいんだ!」
駿河は早口に捲し立て始める。
「こんな悠長にやってる場合じゃない。明日にでも行動へ移さないと駄目だ」
美緒の表情が強張った。
「え……?」
「元々、和奏の大学へ行く予定だったよな? まずはそれを実行する」
駿河は止まらない。
「それと、二手に分かれた方がいい。もう一班は美術館へ向かう。前回も上手くいったし、あそこは手堅い」
焦りにも似た熱量だった。まるで、自分自身へ言い聞かせるように喋っている。
「あ、明日って……そんな急に無理だよ」
美緒が控えめに反論する。
「準備だって何も――」
「いや、明日だ」
駿河は強く言い切った。
迷いのない口調だった。いや――正確には、“迷わないようにしている”声音だった。
もはや彼には、他人の意見へ耳を傾ける余裕が残っていないらしい。
その目には、焦燥にも似た決意だけが燃えていた。
こうして、思いつきと勢いだけで、新たな行動計画が半ば強引に決定されてしまったのである。
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