眠れぬ夜②
暗い寝室のベッドに座り、ほっと息をつく。
今日一日であまりにも色々なことがあった。
疲れているはずなのだが、気が張ってしまって、すぐに眠る気にはなれない。
扉の方を見れば、リビングの光が消えたのがわかった。
シルヴィオさんももう寝るのだろう。彼も私やカッサンドラに昨日から振り回されてばかりだ。疲れているに違いない。
また一つ、ため息をついた。
ああ、思い切り歌いたい。
そうしたら、このモヤモヤとした気持ちも、少しはスッキリするような気がする。
目を閉じれば、先程聴いたカッサンドラの歌が思い出された。
あの美しい歌を、今、あの猫は歌えない。猫の姿だから。
猫を飼ったことはないからわからないけど、もう子猫という見た目ではなかった。歌い手が何年も歌を歌えないなんて、どんなに辛いことだろうか。
一際心に残る、あの歌。
何故か、切なくなった。
これは、カッサンドラの気持ちなのだろうか、自分の気持ちなのだろうか。
どれだけ時間が経ったのか。
ベッドに横になってはみたけれども、やはり私は眠れないでいた。
リビングの方から何も音は聞こえないから、たぶんシルヴィオさんはもう寝ているんだろう。
扉が開く気配がないことに、改めて安堵する。
あの猫の気配は、まだ遠い。
今頃どこにいるんだろうか。
自分の指輪を探して、国中を駆け回っているのか。
うっかり警備のヒトに捕まってたりとか、怪我したりとか。
ご飯、ちゃんと食べたかな。
異世界人の私が、シルヴィオさんのお陰でこうやって食事もして、お風呂にも入って、ベッドで寝ることができているのに。
そんなことを思っていたら、外から猫の声がした気がした。
「カッサンドラ!?」
慌てて窓を開けるけれど、その向こうには星空と、灯りの消えた街並みだけだった。
わかっていたはずだった。気配はまだ遠いところにいる。
気配の感じる方向を見ても、見えるのは月灯りに照らされる街並みだけ。
「なんでこんなに気になるのかな。眷属になったから?」
その時、ココンとノックの音がして、私は飛び上がる。
扉は閉じたまま、シルヴィオさんの小さな、少し焦った声が聞こえる。
「リンカ?今、窓の開く音がしましたけれど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと猫の声がした気がして……でも、気のせいだったみたいです」
私は窓を閉めて、小声で返す。
扉の向こうで、ほっと安堵のため息が聞こえる。
「良かった、また何かあったか、君が出ていってしまったのかと……」
また心配をかけてしまったようだ。
思い返せば、この世界に来てからこちら、私はずっとトラブルを起こしている。それに振り回されてばかりいるシルヴィオさんも、気が休まらないのだろう。
……半分くらいはあの猫のせいだけど。
「心配かけてすみません。あの、シルヴィオさん、もしかして眠れないんですか?」
「ええ、まあ。色々と考えていたら目がさえてしまって」
「私もです。今日は色々ありすぎましたよね」
私は扉のそばまで行くと、扉にふれた。
このすぐ向こうに、シルヴィオさんがいる。そのことが心強いのに、同時に怖かった。ひどく矛盾してしまった気持ちを、どうしたらいいのかわからない。
「……リンカ、何か、悩んでいますか?」
「……どうしてです?」
「オリンドと別れたくらいから、たまにふっと考え込んでいたので」
……ああ、このヒトはどうしてこんなに優しいのだろうか。ついさっき手酷く拒絶した私を、どうしてこんなに気遣えるのだろう。
心が、目頭がじんわりと熱くなって、甘えてはいけないと思うのに、気付けば正直にずっと気にかかっていたことを口にしていた。
「カッサンドラが、今頃どうしているのかと思って」
ちゃんと食べているのかとか、警備のヒトに捕まっていないかとか。
一度口にしてしまえば止まらない。つらつらと思い付くままに並べていった。
それを黙って聞いていたシルヴィオさんが、ポツリと呟く。
「リンカは、カッサンドラにあれだけの目に遭わされて、それでも彼女を心配するんですね」
心配。
言われて、すとんと納得した。
そうか、私はカッサンドラを心配しているのか。
「心配です。カッサンドラはずっと歌えていないのでしょうから」
「確かに、猫の姿では歌えないでしょうが……」
わからない様子のシルヴィオさんに、私は問いかける。
「シルヴィオさんは、二度と作曲ができなくなったら、どうしますか?」
「それは……」
シルヴィオさんが、はっとしたように言葉を切った。私が何を言いたいのか、伝わったらしい。
私なら歌えなくなったら、息が詰まって死んでしまうかもしれない。いや、歌を歌えなくなったって死にはしないだろう。どれだけ辛くても、自殺でもしない限りは。
でも、きっと体より先に心の方が壊れてしまう。気が狂ってしまうかも。
「それは酷いこともされましたが、同じ歌い手として……いえ、私よりもずっと優れた歌い手だからこそ、心配なんです」
わかりますと、シルヴィオさんの声がする。
これは言うべきか言わないべきか迷っていたのですがと前置いて、話してくれた。
「実は、君がお風呂に入っている間に、オリンドから連絡がありました」
「え?」
「カッサンドラは、指輪を三つ手に入れたそうです」
五つの指輪のうち、三つ。
もうそんなに集まっていたのかと驚くと同時に……ではまだ捕まってはいないのだと、どこかほっとしている自分がいる。
「どこも警備が厳重だったでしょうに、猫の姿でよく捕まらずに集められましたね。最高機関のヒトも動いていたんでしょう?」
「何か、幻影の様なものを使っているらしいですね。もう首都や指輪を管理していたところは大混乱だそうですよ」
混乱……。
もし約束を破れば、混乱をもたらす。
そう、カッサンドラは言っていた。
「指輪が揃ったら、カッサンドラはどうするつもりなんでしょう」
「わかりません。一つ手に入れただけであの騒ぎです。五つ集めたときにどうなるか、どうするつもりなのか……あまりいい予感はしませんね」
シルヴィオさんの言葉に、ずっと胸にくすぶっていた嫌な予感がざわりと大きくなった。
今思えば、オザンナさんとの話をカッサンドラは聞いていた気がする。あまりにもタイミングよく頭痛が起こったし、会う前にはカッサンドラの緊張が伝わって来ていた。
オザンナさんの話から、最高機関が三百年前の約束を破ったのだと確信したのだとしたら。
頭から血の気が引いていく。
「ここで、こうしていていいんでしょうか?やっぱり今からでも博物館に……」
「落ち着いてください。今行っても、カッサンドラはいません。眷属である君が、誰よりも一番わかっているはずです」
シルヴィオさんの言葉に、私は焦りを吐き出すように大きく息をつく。
それでも、嫌な予感にジリジリと胸が焼かれた。
「ここから、博物館はそう遠くありません。カッサンドラが現れたら、すぐに行きましょう」
見えないとわかっていても、私は頷いた。
それでも、不安な気持ちが口をつく。
「私達に、カッサンドラを止められるでしょうか」
「僕たちでは、恐らく止められません。可能性があるとすれば、サヴィーノだけでしょう」
かつて、カッサンドラをいさめることができた唯一のヒト。彼女の恋人。
私は鞄に視線を向けた。中には、オザンナさんたちが受け継いできたサヴィーノの指輪がある。
これを届けて、二人の子孫がいることを話そう。
それが、カッサンドラを止めることができる、たった一つの手段かもしれないから。
「シルヴィオさんに出会えて、良かったです」
「急にどうしたんですか?」
「シルヴィオさんと会えなければ、この世界で私はどうなっていたかわかりませんから」
シルヴィオさんと出会えなければ、こちらの言葉もわからず、常識も知らず、ただカッサンドラに利用されるだけだったかもしれない。ましてや、カッサンドラを止める手段だって手に出来なかったはずだ。
その上、私の歌の指導までお願いしている。
本当にあそこで出会えたことは、私にとっては僥倖だった。
でも、シルヴィオさんにしてみたら、こんなことに巻き込まれたのは、厄介事でしかない。申し訳ないと思っている。
扉の向こうで、僅かにシルヴィオさんが笑う気配がした。
「君はよく僕に申し訳ないと言いますが、僕もあの時、リンカに出会えた偶然に感謝していますよ」
思いもよらない言葉に、目を瞬く。
シルヴィオさんに感謝しこそすれ、私が感謝されるようなことは何もしていない。
「君と出会ってから、今まで思ってもいなかったことばかりで……不謹慎かもしれませんが、少し楽しかったんです」
確かにこの一日、痛い思いも苦しい思いもしたけれど、楽しかったことも結構あった。
自転車で空を飛んだこと。カッサンドラとのランチや、久しぶりにきちんと歌ったこと。思い返せば、自然と笑顔になれる。
「私も……楽しかったです」
扉があって良かった。面と向かってでは、言えなかったかもしれない。
「でもそれは、やっぱりシルヴィオさんのお陰なんです。必ず、この恩はお返しします。シルヴィオさんが要らないと言っても、必ず」
数拍、沈黙が落ちる。
キシと扉が少し軋んだ。
「そんな健気なことを言わないでください。今僕が、この扉を開けるのをどれだけ我慢していると思ってるんですか」
思わずビクッと扉に触れていた手を引いてしまう。
まるでそれが見えたように、シルヴィオさんが言う。
「……約束ですから、開けません。でも、もう寝ましょう。僕もこれ以上は、本当に自信がないので」
おやすみなさいと声が聞こえ、シルヴィオさんが扉から離れていく気配がする。
返事を返すこともできず、私はどうしようもなく震える手を握りしめた。
次回はまた来週更新予定です。




