41.月姫 かぐや姫は月に帰りました⑩
高嶺さんと仕事を始めてから、私の日常は今までとは全く違うモノになっていた。
水彩画教室も無期限で休むことにになったし、家族で過ごす時間よりも彼女と一緒に過ごす時間の方が多くなっていた。
季節は移り変わり、法人化した頃は桜の季節だったのに今はもう紅葉の季節だ。
「良い季節になったわね」
「そうですねー。紅葉狩りするにも美味しいもの食べるのにも良い季節になりました」
高嶺さんは机に向かい合ったまま、私の言葉に相づちを打った。
本当に秋めいたと思う。
この前、担当編集と打ち合わせしたときに見た銀杏並木も綺麗な黄色に変わっていた。
「そういえば、この前外苑の銀杏並木行ったけどすごい綺麗だったわねぇ」
「あ、いいですよね! 私も前に働いていたところ原宿駅の近くだったので秋は良く眺めてました。トンネルみたいになってる銀杏の間を歩くの好きだったんですよねー」
彼女はうっとりしながら、コピックペンを頬に当てて懐かしそうに笑う。
「そうよねー。この時期の外苑の銀杏は本当にすごいわよね。私ずぅーと見てられる」
私にとって明治神宮外苑の銀杏並木は秋の象徴そのものだった。
並木と落ち葉の絨毯で一面に黄色が広がる。
私はそんな風景が好きだった。
絵本を描くようになる前、私はよく外苑付近でそんな風景をスケッチしていた。
鉛筆とスケッチブックだけ持ってあの場所を訪れては、その風景を自分の中に落とし込んでいた。
思い返してみれば、あの風景は私の絵の指標だったと思う。
毎年……。だいたい10年間くらい描いていただろうか?
私は同じ場所で、その風景をスケッチブックに描いていた。
「もうしばらく行ってないけどね。昔は私あの銀杏並木をスケッチしてたのよ」
「へー! いいですね! 先生デッサン上手いからきっと素敵に描けたんでしょうね」
高嶺さんは目を輝かせながら私を褒めてくれた。
「んー……。どちらかというと上手くは描けなかったかな……。行き詰まるとだいたいあの場所に行ってたのよ。それでどうにもならずデッサンしてた……。いや、デッサンというよりクロッキーに近かったと思う」
その銀杏並木は私のスランプ脱出の場所だった。
どうしようもなく、描けなくなったときにその場所で私は悶々とスケッチブックと向かい合っていたのだ。
それは芸術作品を作るというより、自分の中の不要な素材は排除する作業に近いと思う。
鉛筆を通して私の中に溜まった「ナニカ」を絞り出すような作業。
「先生もスランプとかあったんですね」
高嶺さんは意外そうな顔でそう言った。
「そりゃあ、あるわよ。どうしても構想固まらなかたり、自分の思い描くモノが描けなかったり……。とかね。そのときはいつも苦しかったのよ。だって机に向かっても苦しいばかりで1つも前に進めないんですもの」
絵本作家として、私はスランプに陥りやすい方だと思う。
机に1週間以上張り付いても、何も生み出せないようなことが毎回起こっていた。
「何か意外ですね……。先生何でもテキパキ熟す人だと思ってました」
「ハハハ、そうだったら良かったんだけどね。ようやく最近は波も少なくなったけど、若い頃はとにかく酷かったのよ。でも……。あの頃は楽しかったなぁ。苦しんだり悩んだりも今思えばいい思い出かもしれないわね」
いい思い出……。本当にそうだと思う。
あの頃の私には多少なりとも苦悩が必要だったのだ……。
その当時、私たち夫婦には子供が居なかった。
していたこととえば、簡単なイラストカットを描いていたぐらいだ。
思えば、時間を持て余すのには充分すぎる環境だったと思う。
さらに旦那が積極的に家事を手伝ってくれていたのが問題だった。
旦那自身、家事や料理が好きだったし、彼としては当然の行いだったのだろう。
しかし……。それによってある弊害が起きた。
旦那のお陰で私の家事はかなり減ってしまったのだ。自動的に。オートマチックに。
炊事、洗濯、掃除……。
そういった家事の多くを彼は率先してやってくれたのだ。
感謝と反比例するように、私の日常での作業は極端に少なっていった。
きっとこんな話をしたら「贅沢な悩みだな!」と誰かに文句を言われてしまうだろうけれど……。
簡単に言えば暇を持て余してしまったのだろうと思う。
そんな私がすがるものといえば、拙い創作意欲だけだった、
机に向かってイラストのラフを描き、コピックペンで色を塗る。
そして描き上げるたび、大きなため息を吐いた。
その繰り返しだった。
そうしていると不毛に創作意欲だけが消費されているような気がした。
その作業はスポンジにインクを垂らしては水で洗うようなモノだと思う。
何の意味も無く、どこにもたどり着けない。
きっと「偽物の駅」にさえたどり着けない……。
だから私はスケッチブックを持ってよく街へと出掛けるようになった。
都内の風景を嫌になるほどクロッキーした。
皇居、千鳥ヶ淵、東京駅舎、立教大学の校舎……。
東大安田講堂、増上寺と東京タワー、浅草寺……。
そんな東京の景色を自分の中に落とし込んでは吐き出すように描き上げた。
しかし、そこからは何も得たり失ったりは出来なかった。
本当に苦しかったし、そんな自分が嫌で仕方なかった。
それでも私はその苦痛から逃れることが出来なかったのだ。
今になって思う。
きっとあの当時の私は苦しくなりたかったのだ。
あまりに幸せすぎて、そこに自分が居るのが怖かった……。
そんな不毛な創作活動に終止符を打ってくれたのが神宮外苑の銀杏並木だった。
苦しくて、苦しすぎて。仕方なかった私をその風景は優しく包み込んでくれた。
銀杏という植物に強く惹かれ、彼らの瑞々しい色が網膜に焼き付けられるような感覚を覚えた。
私は夢中でその銀杏並木をスケッチブックに描いた。
スポンジにインクを垂らすようにではない。
もっと深く。藍染めのように自分の中に染み込ませていった。
そのとき描いた絵は決して上手いモノはなかったと思う。
それでも私にとってそのクロッキーは本当に特別なものだったのだ――。
「先生? 良かったら一緒に銀杏見に行きませんか?」
高嶺さんは手に持っていたペンを置くと私に微笑みかけた。
「え? いいけど……」
「私もちょっと煮詰まっているのでその銀杏並木見に行きたいです! それに……」
「それに?」
高嶺さんは恥ずかしそうにはにかむ。
「それに、先生が思い悩んだ場所で私も同じようにクロッキーしたいんです! これから一緒にやっていくわけだし、そんな気持ちを理解したいんです……」
そのとき、私は改めて感謝したい気持ちになった。
本当に高嶺さんと出会えて良かった。
柄にもなく神様に感謝したい気持ちにもなれた。
「ええ! じゃあ行きましょうか!」
こうして私たちは神宮外苑へと向かうことになった。
スケッチブックと鉛筆を持って――。




