29.月姫 かぐや姫は月に帰りました⑥
病院を出ると私は遅めの朝食を取ることにした。
駅まで歩く道すがらにあるサブウェイに入る。
「いらっしゃいませ―!」
元気の良いかけ声が聞こえたが、寝不足のせいか耳が痛い。
私はメニューからハムサンドと紅茶を注文するとそのまま奥の席へと進んだ。
席に着いてコートを脱ぐと一気に疲れが出たような気分になった。
考えてみれば昨日は一睡もしていない……。
姉の状態は思っていたよりもずっと良かったと思う。
彼女の顔は血色も良かったし、何よりいつも通り口が悪かった。
「はぁ……」
紅茶を飲みながらハムサンドを食べているとため息が溢れてしまった。
思い返せば父の死からずっとこんな調子だと思う。
千葉県警の刑事に連れられて銚子まで行ったし、葬儀の後も思わぬ長旅をした。
聖子さんは小まめに連絡をくれていた。
残念な事に父の死の真相はまだ判らないらしい……。
それでも彼女はいつも私に優しい言葉を掛けてくれた。
少し間が抜けたところもあるけれど思いやりがある人なんだと思う。
時計を見ると時間はお昼近くなっていた。
少しずつビジネスマンやOLが店内に増え始めているようだ。
平日にこうして都内で遅めの朝食を取っていると変な気持ちになる。
いつもなら茨城の小さな役場で机に向かっている時間だ。
少しずつ……。本当に少しずつだけれど私の中の時計が狂い始めているような気がした。
ルーティンワークから解き放たれて、自由に向かっているような奇妙な感覚。
その自由は私は酷く不安にさせ、同時に開放的な気分にさせた。
父と姉と一緒に暮らしていた頃から狂わなかった私の人生が良い意味で狂い始めたのかもしれない……。
それから私は読みかけの小説をバッグから取り出して読み始めた。
どちらにしても今日は仕事は休みだし、久しぶりに1人の時間を満喫しようと思う。
店内はだいぶ賑わってきてうるさいくらいだ。
笑い声や愚痴のような言葉が店内に溢れている。
小説の内容は巷で流行っている普通の恋愛小説で、良くも悪くもテンプレート通りの内容の作品だ。
主人公の男の子が運命的に出会った女の子と恋に落ち、女の子は不治の病に侵されている……。
こう言うと元も子もないけれど、あまりにお約束過ぎて涙を流すことは出来なかった。
本当に悲しい事に直面したときにこんな風に情緒的には居られないと思う……。
そんな風に感じる自分が酷く滑稽に思えた。
もしかしたら、悲劇を通り越すとそれは喜劇になってしまうのかもしれない。
キョウゴクルナノジンセイハ、キゲキソノモノダ。
そんな気味の悪い片言の言葉が私の中に浮かんでは消えていった……。
小説が読み終わる頃には店内も閑散としていた。
私も含めて客は2組しか居ない。
店員もピークが過ぎたためか、野菜の補充と食器類を片付ける作業に没頭しているようだ。
私は読み終わった小説をバッグにしまうと、昨日貰った名刺を手に取った。
名刺には小さなイラストがプリントされていて、中央に『アトリエヒヤマ 樋山涼花』と書かれている。
私は樋山さんが話してくれた話を思い返した。
樋山さんの話だと、母は彼女のアシスタントとしてしばらく一緒に仕事をしていたらしい。
第三者から聞いた母の話にはリアリティが無く、母が何かの物語の登場人物のように感じられた。
一体母はそれからどんな人生を送ったのだろう?
どんな風に仕事をし、どんな風に父に出会ったのだろうか?
私は家族として……。そして、母の人生の読者として彼女の歩んできた道を知りたいと思った――。
サブウェイを出ると私はある場所へと向かうことにした。
ここからさほど離れては居ないはずだ。
そして彼女の……。樋山涼花の話を聞きに行こうと思う。
私は決心のような感覚を持って彼女のアトリエへと向かった……。




