帰り
朝、パーヴェルはいつもより遅く起きた。
前日の発砲で肩が痛むらしく、寝台から起き上がる時に顔をしかめた。それを見たステパンは何も言わず、納屋から麦袋を一つ持ってきて弟の前へ置いた。
「今日はこれだけ運べ」
「命令か?」
「肩を壊したら、明日は一つも運べん」
パーヴェルは袋を見下ろした。
「兄貴が優しいと気持ち悪いな」
「二つにするぞ」
「一つでいい」
ダーリヤが竈の前で鼻を鳴らした。
「二人とも朝からうるさい」
コーリャが笑い、アンナも意味は分からないまま一緒に笑った。
その声を聞きながら、ステパンは麦袋の口を結び直した。
こういう朝が続けばいいと思った。
そう思ったことを、誰にも言わなかった。
昼前、赤い兵が二人来た。
一人は、最初にパーヴェルへ小銃を渡した男だった。村の東で昨日見た騎兵の跡を追うという。
「昨日の三人か?」
ステパンが聞いた。
「たぶんな。森の向こうに別の足跡もある」
パーヴェルはすぐ立ち上がった。
ステパンはその動きを見て、腹の中が重くなるのを感じた。
「今日は行くな」
弟が振り返る。
「何で」
「肩が痛いんだろ」
「銃は持てる」
「麦は一袋しか持てないのに?」
「麦袋と銃を一緒にするなよ」
「重い物は重い」
兵の一人が口を挟んだ。
「今日は道だけじゃない。村の東を見て、騎兵がどっちへ抜けたか確認する。危ないと思ったら戻る」
ステパンは男を見た。
「危なくないなら、銃はいらんだろ」
兵は答えなかった。
パーヴェルが笑った。
「兄貴、その理屈だと俺は一生家から出られないぞ」
「出るなとは言ってない」
「言ってるのと同じだ」
「今日は行くなって言ってる」
「昨日撃ったから?」
ステパンは黙った。
パーヴェルの顔から笑いが少し消えた。
「兄貴」
「何だ」
「昨日、俺たちが撃たなかったら、あいつらがそのまま帰ったと思うか?」
「分からん」
「俺も分からない。でも、分からないから何もしないってのは、もう嫌なんだ」
ステパンは弟を見た。
何度目かの同じ話だった。
ただ、最初のころと違うのは、自分の肩にも銃の反動が残っていることだった。
昨日までなら「麦を運べ」と言えば終わった。
今は、自分も引き金を引いている。
「夕方までに戻れ」
それだけ言った。
パーヴェルの眉が少し上がった。
「止めないのか」
「遅れたら明日は二袋だ」
「肩が壊れる」
「知るか」
パーヴェルは笑った。
「じゃあ、帰るよ」
ダーリヤが包んだ黒パンを受け取り、肩へ小銃を掛ける。
アンナが戸口までついてきた。
「パーヴェル、どこ行くの?」
「ちょっと向こう」
「馬いる?」
「いるかもしれないな」
「うちの馬?」
パーヴェルは一瞬だけ困った顔をした。
「いたら連れて帰る」
ステパンが言った。
「見つけてから言え」
「四歳相手に細かいな、兄貴は」
「四歳だからだ」
パーヴェルは笑った。
「じゃあ、馬はいなくても俺は帰る」
「当たり前だ」
弟は赤い兵たちと道へ出た。
角を曲がるところで一度振り返り、手を上げた。
ステパンは返さなかった。
代わりに、見えなくなるまで立っていた。
午後、畑で仕事をしていると、東の方で銃声がした。
一発。
少し間を置いて二発。
その後、続けて何発か鳴った。
ステパンの手から鎌が止まった。
畑にいた全員が同じ方向を見る。
ミハイルも顔を上げた。
「東だな」
「ああ」
銃声は止んだ。
ステパンは鎌を置いた。
「行くのか」
ミハイルが聞いた。
「見に行く」
「どこへ」
「音の方だ」
「場所も分からんだろ」
「分からんから見る」
ミハイルが腕をつかんだ。
「お前一人で行って、白に会ったらどうする」
ステパンは振りほどこうとした。
「離せ」
「俺だって気になる」
「なら――」
「あいつがそこにいるって、誰が言った。いなかったら、お前は一人で撃ってる方へ飛び込むだけだ」
「離せ」
「待て」
ステパンはミハイルを睨んだ。
そのまま数秒、二人とも動かなかった。
やがてステパンが腕の力を抜いた。
「いつまでだ」
「日が傾くまで。戻らなかったら一緒に行く」
「長い」
「死ぬより短い」
ステパンは何も言わなかった。
畑仕事へ戻った。
戻ったつもりだった。
鎌を振るたび、遠くの道を見る。
麦を束ねては道を見る。
水を飲んでは道を見る。
何度見ても、パーヴェルはいなかった。
日が傾き始めたころ、村の入口で犬が吠えた。
ステパンは鎌を投げるように置いた。
道に荷車が見えた。
馬ではなく、人が押している。
赤い布。
二人。
パーヴェルの姿を探した。
いない。
荷車の上に誰かが横になっていた。
ステパンは走った。
近づくにつれて、見えなくてよかったものが一つずつ見えてきた。
黒い髪。
泥のついた靴。
見覚えのある上着。
肩から外された小銃。
「パーヴェル!」
弟は目を開けた。
生きていた。
それだけでステパンは一度安心した。
次に、腹へ巻かれた布が真っ赤なのを見た。
安心は一瞬で消えた。
「何があった」
赤い兵が答えようとした。
ステパンは聞かなかった。
「家へ運べ」
荷車の横へ回り、弟の肩へ腕を入れる。
パーヴェルが顔をしかめた。
「痛いか」
「少し」
「嘘つけ」
「じゃあ、かなり」
その声がいつものパーヴェルに近くて、ステパンはさらに怖くなった。
ダーリヤが家から飛び出してきた。
一度、荷車の上を見ただけで顔が変わる。
「中へ。寝台を空ける」
コーリャも戸口に出てきた。
ダーリヤが振り向かずに言った。
「コーリャ、アンナを連れてミハイルの家へ行って」
「なんで?」
「今すぐ」
声の強さで、コーリャは聞き返さなかった。
アンナの手を引き、走っていく。
ステパンと兵たちでパーヴェルを運んだ。
寝台へ横たえる。
ダーリヤは巻かれた布を切った。
傷は腹の右側にあった。
血は止まっていなかった。
「医者は?」
ステパンが聞いた。
兵の一人が首を振る。
「いない」
「町へ運べ」
「この状態で?」
「じゃあどうする」
誰も答えなかった。
ステパンは兵の胸ぐらをつかんだ。
「どうするって聞いてる」
「兄貴」
寝台から声がした。
ステパンは振り返った。
パーヴェルがこちらを見ている。
「離せよ」
ステパンは兵から手を放さなかった。
「こいつらが連れていった」
パーヴェルが息を吸った。
少し苦しそうだった。
「俺が行ったんだよ」
その一言で、ステパンの手から力が抜けた。
あの時と同じだった。
連れていかれたのではない。
パーヴェルが行った。
だから怒る相手が、急に一人減った。
兵が襟を直した。
「森の手前で白の騎兵とぶつかった。五、六騎だ。向こうが撃って、こっちも撃った」
「誰が撃った」
「分からない」
「見てなかったのか」
「撃ち合いだったんだ」
「誰の弾だ」
「分からないって言ってる」
ステパンは男を殴りそうになった。
ダーリヤが言った。
「外へ出て」
兵たちへ向けた言葉だった。
「でも」
「今ここにいて何ができるの」
二人は黙って外へ出た。
小銃だけが壁際に残った。
パーヴェルが持っていたものだった。
ダーリヤは傷へ新しい布を押し当てた。
「ステパン、ここ押さえて」
言われた場所へ両手を置く。
温かい血が布を通して掌へ染みてくる。
もっと強く押せば止まる気がした。
「これでいいか」
「そのまま」
「強すぎないか」
「そのまま」
ステパンは押した。
直せる物なら、力加減を変えればいい。
縄なら結び直せる。
柵なら板を替えられる。
鎌なら研げる。
馬の蹄なら見れば悪いところが分かる。
だが、手の下から出てくる血には、どこを直せばいいのか分からなかった。
「水」
パーヴェルが言った。
ダーリヤが布を濡らし、唇へ当てる。
少しだけ飲ませた。
パーヴェルが目を閉じた。
「寝るな」
ステパンが言った。
弟がうっすら目を開ける。
「寝てない」
「なら目を開けろ」
「兄貴、うるさいな」
「開けろ」
パーヴェルは言われた通りにした。
しばらく三人とも話さなかった。
外には村人が集まっているらしく、低い声が聞こえていた。
やがてパーヴェルが言った。
「兄貴」
「しゃべるな」
「帰ったぞ」
ステパンの手が止まりそうになった。
「遅い」
パーヴェルの口元が少し動いた。
笑ったのかもしれない。
「夕方だろ」
「もう日が落ちる」
「まだ落ちてない」
「屁理屈言うな」
「兄貴が言ったんだろ。夕方までに戻れって」
ステパンは返事ができなかった。
布の下から、また温かいものが滲んできた。
押さえる。
もっと強く。
これ以上力を入れたら弟を壊すのではないかと思うほど押した。
「パーヴェル」
返事がない。
「おい」
目は開いている。
だが、こちらを見ていなかった。
「パーヴェル」
ダーリヤがステパンの腕へ触れた。
「まだだ」
ステパンが言った。
何に対して言ったのか、自分でも分からなかった。
「布を替えろ」
ダーリヤは動かなかった。
「早く」
「ステパン」
「血が出てるだろ」
「ステパン」
「押さえれば止まる」
ダーリヤが夫の両手をつかんだ。
血で滑った。
「もういい」
「何がいいんだ」
「もういいの」
ステパンは弟の顔を見た。
さっきまで苦しそうだった眉間が、平らになっていた。
息をしているように見えた。
胸を見た。
動かない。
もう一度見る。
やはり動かない。
ステパンは手を離さなかった。
夜になってから、ミハイルが家へ入ってきた。
誰も呼んでいなかったが、来た。
パーヴェルの顔には白い布が掛けられていた。
ミハイルは戸口で止まり、長いこと何も言わなかった。
やがて壁際の小銃を見る。
「これ、あいつの?」
ステパンが答えた。
「借り物だ」
「そうか」
ミハイルは寝台の横へ座った。
いつものような余計なことを言わなかった。
その方がステパンにはつらかった。
「お前、屋根直す人間が減るって言ってたな」
ミハイルの顔が歪んだ。
「ああ」
「本当に減ったぞ」
「やめろ」
「お前が言ったんだろ」
「やめろって」
ミハイルが立ち上がった。
怒ったのかと思った。
違った。
泣いていた。
ステパンは初めて見た。
だから、もう何も言わなかった。
翌朝、赤い兵が一人戻ってきた。
昨日の若い男だった。
帽子を手に持っている。
「銃は、評議会へ返してくれ」
ステパンは壁際を見た。
「いつ」
「今日でいい」
「分かった」
兵は少し迷ってから言った。
「パーヴェルは、逃げなかった」
ステパンは男を見る。
「何から」
「撃たれた時も、仲間を置いていかなかった」
「それで?」
男が黙る。
「それで死んだのか」
「……そうだ」
「なら何の役に立つ」
兵は答えられなかった。
ステパンも答えを求めてはいなかった。
男が帰ったあと、ダーリヤが言った。
「銃、返すの」
「ああ」
ステパンは小銃を手に取った。
革の負い紐に黒く乾いた血がついていた。
誰の血かは分からない。
パーヴェルのものかもしれない。
別の誰かのものかもしれない。
ステパンは指で触れなかった。
弾薬袋も持ち上げた。
中身を机の上へ出す。
一発ずつ並べて数えた。
ダーリヤは何も言わず、それを見ていた。
返すだけなら、弾の数を確かめる必要はなかった。




