第八十一話 触れる距離
伝令や輸送兵が利用する天幕へ、アンネリーゼは今日まとめた書類を届けにきた。
これを届け終われば診療所へ戻り、自分の時間をとれる。
けれど、その時間を自分の為に使う気にはなれず、何もしない時間がやってくるのを怖く感じる。
つい先程まで疲労感が一切なかったのに、急にため息が何度も零れだす。
輸送兵が使う保管用の天幕の垂れ布をよけて、中へ入る。
そこには一人の兵がいた。
兵は紙束を抱え、その日輸送する荷物を確認しチェックをしているようだ。
アンネリーゼが入ってきたのに気が付くと声をかけてくる。
「中央への報告の書類ですか?」
「はい」
「それなら奥の机にある板箱へ入れておいてください」
兵はそう言うと奥を視線で示した。
アンネリーゼは軽く会釈を返すと、奥へ足を進める。
奥の机上には、造りがしっかりとした板箱が3つ並んでいた。
(この中のどれかなのかな?)
どの箱もしっかりと蓋がされている。
ひとつめの箱の蓋に手をかけて開けようとした時、隙間から乾いた木の香りが漏れた。桐の匂いだ。
澄んだ爽やかなその香りは、普段なら落ち着くはずなのに心臓の鼓動が騒がしくなる。
蓋を開け、目に飛び込んできたのは、階級章だった。
一点に縫い留めたようにその階級章から目を離すことが出来ない。
背後でチェックしていた兵は確認が終わったのか、天幕から出ていく。
後ろで入口の幕が、ばさっと音をたて閉じられた瞬間。その空間にはアンネリーゼひとりになる。
孤独な空間になってやっとアンネリーゼは、その目にしたものを受け止めるように視線を動かした。
アンネリーゼが見た階級章は、リオラ曹長のものだった。
その開けた板箱には、階級章と軍服。そしてその傍らに──小さな桐の箱。
リオラ曹長の遺体は、検問所で葬送を済まされていた。
帝都へは日数がかかりすぎるため、遺体の搬送は叶わないと判断されたのだろう。
リオラ曹長の着ていた軍服は、汚れは綺麗に落とされ、整然とたたまれている。
アンネリーゼは箱に入った軍服へ手を伸ばす。
軍服の端をそっと撫で、綻びのある部分に指先を重ねた。
その綻びが傷に触れ、宙に浮かんでいた事実が現実と繋がる。
肩が震え、出かかる感情を飲み込むが、それが喉仏より下へは降りてくれず下から逆に突き上げて来る。
沢山受け取ったものを、それ以上に返していきたい。
そう思っていたのに、もう出来ない。
『アンネさん。……あっ、そう呼んでもいいかな?馴れ馴れしい?』
最初出会った時から助けてもらってばかりだった。
毎日ちょっとずつお返しができると、なぜ思い込んでいたのか。
「こんな……なにも、まだ……」
ぽたぽたっと足元の地面に涙が落ちる。乾いた土にじわりと染みをつくった。
「……馬鹿だ私は」
アンネリーゼはそっと桐の箱を手に取り、それを抱きしめた。
さらりとした木の質感がひどく冷たい。
リオラ曹長から貰った数々の言葉が蘇る。
それはいつもアンネリーゼを励ます言葉ばかりだった。
(もう返せない……もう聞けない……)
その場に座り込み、桐の箱へ額を押し当てた。
声をあげる事も出来ないまま、心は静かに慟哭した──
どれほどの時間、そうしていたのか分からない。
気が付けば、陽が西の山脈へその身を僅かに残すばかりとなっており、隙間からまっすぐと朱色の光を伸ばしている。
天幕から出ると、兵たちが道の端に置かれているかがり火に、明かりを灯しはじめていた。
その時間通りに職務をこなす姿を遠目で見て、自分も規律通りに動かなきゃと、診療所へ帰る準備をする。
等間隔に置かれているかがり火が、近くでパチッと爆ぜる。
その音はやけに遠く、アンネリーゼは手元のランタンに火が灯っていないのにも気づかず、そのまま歩き始めた。
現場の出入り口へ着くと、兵へ挨拶を済ませようと声をかける。
「本日はこれで診療所へ戻ります。明日もよろしくお願いします」
兵はその言葉を受け取ると、わずかに残る茜色の空を見て、アンネリーゼへ声をかける。
「もう暗くなるので、診療所までお送りします」
そう言うともう一人の兵を伴って、アンネリーゼを護衛し診療所まで送り届けてくれた。
診療所に着くころには陽はすっかり落ち、辺りは真っ暗になっていた。
道中どんな会話をしたのか思い出せない。
与えられている自室へ戻り、ベッドに腰を下ろすも、現実感が何もない。
(私何をやっているんだろう……)
ジークフリート少佐へ報告をしなければならないのに、自室へ戻ったきり足が動かない。
ベッドから立ち上がろうとして、ふと視線が扉の横へ流れた。
まるで、そこに誰かが立っているかのように──
『あたしも一緒に行くことになっているから。ね?』
そう言って笑いかけてくれたリオラ曹長。
踏み出すのに不安を抱えていたあの時、先に立って手を差し伸べてくれていた。
その寄り添いに支えられ、あの時は少佐の部屋まで行けた。
でも、今は──
ちょっとした出来事一つ一つが身を刺すように痛い。
身動きすることもできず、流れ落ちた涙がぽたっと手の甲へ落ちた。
同じような状況が重なるたび、失ったんだと知らしめてくる。
ひとしきり泣いた後、ぼうっとする頭をそのままに、虚ろに一点を見つめ続けていた。
虚空を埋めるようにドアのノック音が落され、アンネリーゼを現実へ戻す。
短く返事を返すと、顔をみせたのは軍曹だった。
「通訳官アンネリーゼ。戻っていたか。夕餉の前に少佐への報告を」
そこまで言い、生気の抜けたようなアンネリーゼの表情を確認する。
一瞬眉を顰めたあと、慮るような表情になりながらアンネリーゼの返答を待っている。
アンネリーゼは軍曹へ視線も合わせず「準備をしてすぐ行きます」と返すと、持ち帰った紙束を手に持ち、もう既に揃っている角を意味もなく揃えた。
ドアを半分開けたまま、軍曹は何も言わず待っている。
アンネリーゼは深呼吸をひとつ挟み、消化できるはずもない感情を抱えたまま部屋を出た──




