第八十話 文字の距離
落石現場の天幕。
朝に診療所の清掃を終えたアンネリーゼは、そこへ向かっていた。
アンネリーゼの怪我も随分とよくなり、移動も問題がなくなったので本来の職務へ戻るのだ。
落石事故の最前線の天幕に着き、事務処理に追われている兵たちに挨拶を済ませると、テーブルに置かれている紙束を纏め始めた。
それには調査した内容や、落石の処理の経過報告が記されている。
乱雑にテーブルへ積まれているそれらを、アンネリーゼは慣れた手つきで捌いていく。
そこへ一人の兵が新しい紙束を抱え、天幕の入口の布を押しやり入ってきた。
彼はアンネリーゼを見るときびきびとした動作で、近くにやってきた。
「専門職の方が来てくれて助かります」
そう言うなり、抱えていた紙束を机の紙の山へ重ねるように置いた。
その厚みに、アンネリーゼは思わず目を見開くと、山の頂と兵の顔を交互に見た。
兵はほっと息をこぼした後、チラっとその机に出来上がっている山へ視線をやる。
その存在感ある紙の山に苦笑いをひとつ挟む。
つられるように、アンネリーゼも小さく苦笑いを返した。
兵は小さく敬礼を添え、次の仕事へ戻っていく。
アンネリーゼは机上の紙束を見渡し、どこから手を付けようかと、頭の中でざっと組み立てる。
(これは今日中に終わるかな……)
アンネリーゼは小さく息を吸うと背筋を伸ばした。
量に圧倒されている時間があったら手を動かす。そう自分を鼓舞すると、紙束を手に取り、項目ごとに仕分けていく。
天幕は紙束の捲る音や、羽ペンの走るカリカリという音。
そして布一枚隔て、外で行っている作業の音がくぐもって聞こえてくる。
人の出す音が空気に充満する中、アンネリーゼは次の紙束に手を伸ばす。
項目を目で追うと、検問所から上がっている報告のようだ。
検問所はここから南、グローテハーフェンとの境にある。
落石の影響で、検問所とのやり取りがこれまでできていなかった。
それが落石の処理が進み、この日やっと検問所から報告書が届いたのだろう。
(これもまとめて少佐に報告しなくちゃ)
多岐にわたる書類が山積みになり、分類するだけでも骨が折れる。
その上ジークフリート少佐へ約束をした手前、状況の把握が出来るように整えなければならず、アンネリーゼは忙しい。
様々な音が入り乱れる天幕の中でアンネリーゼは、他の人の気配を感じながら作業を進めていく。
サッサッとリズムよく仕分けていた、その時──
検問所に搬送されている死傷者一覧の項目が目に入った。
要領よく動かされていた手は止まり、その項目に縛り付けられたかのように指が動かなくなる。
頭の中心がしびれを伴い、現実感がなくなる。
無機質に並べられた文字には一切の感情が無く、アンネリーゼの感情もまた、どこか遠い所から見ているようだった。
死傷者──亡くなった人がいる。
今まで漠然と『きっと無事なはず』そうであると思い込んでいた。
瞬きも出来ず、その先を読み進めるのを拒む自分がいる。
後ろで書類整理をしている兵たちが忙しなく動いている。
彼らの時間は進んでいるのに、アンネリーゼの時間だけは止まっているようだった。
紙を掴んだままどれくらいの時間がたっただろう。
深呼吸をひとつ意識的にしてみると、軽い頭痛を覚えた。
文字を確認しようとするが、冷静なはずなのに指先が震えて言う事を聞かない。
しっかりと紙束を支えているつもりだったが、指の間からするりと滑り落ちていく。
数枚が机の上をすっと滑り、積まれていた束にぶつかって止まった。
手元に残ったものに重ねるように拾い上げ、紙に書かれている文字へ視線を落とす。
『リオラ・ネーベルハイン曹長 死因:圧死 以下に検死の詳細を──』
それ以降の文字を追うことは出来ず、ただ一点を見つめ、紙を掴んだまま動くことが出来なかった。
今、自分の感情が、何を受け取っているのか分からない。
その記されている名は、アンネリーゼの知っている名では無いような気がするのだ。
(どうしてこんなことになっているんだろう……)
その理由は分かり切っているはずなのに、理解できない。
胃から何かが逆流し、乾嘔がこみあげ、喉奥に苦みを覚えた。
ポケットから布片を取り出し口元を押さえると、飲み込んだものが行き場を失い、詰まった場所で圧迫感となり主張してくる。
グラグラと頭が揺れ、目の前にある机が水平を保っていないように見えた。歪んでは水平に戻り、また歪む。
全身に走る震えが出てきて止められなくなる。
それなのに頭の芯だけが凍るように冷たく、感情が何も受け取らない。
天幕の入口の垂れ幕がサッと音を立て、現場を指揮している少尉が入ってきた。
「通訳官アンネリーゼ、この書類も頼む」
その声はアンネリーゼの耳に入っているのに、返事が出来ない。
返答がない様子に少尉は怪訝そうな顔を浮かべ、尋ねるように声をかける。
「通訳官……?」
それでも無反応な様子に短く息をこぼすと、少尉はアンネリーゼの横に来て、手に持っていた紙束を机に置いた。
アンネリーゼの視界の端に、新しい紙束が映ると、それまで止まっていた時間を流し、横に来ていた少尉に気が付く。
「あっ……すみません。少し……あの」
取り繕う言葉さえ出て来ない。
「疲れているのか?」
その問いにアンネリーゼは「いえ、大丈夫です」と答える。
「帝都へ上げる報告は夕刻に来る伝令へ渡す」
「それまでに整えていなければ支障が出る」
「……はい。承知しています」
その返答を返すと、時間に追われるように業務をこなし、感情の入り込む余地を作らないようにする。
天幕の隙間からさす光が茜色に染まり出すころ、アンネリーゼはその日やるべき業務を全て終わらせた。
沢山の仕事をこなしたはずなのに疲れも感じず、まだ動ける気がした。
自分が自分じゃないような感覚を抱え、伝令や輸送兵が利用する天幕へ、出来上がった書類を届けに席を立った。




