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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編

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第七十九話 目覚め 後編

 翌日も朝からアンネリーゼは、ジークフリートの療養する部屋へ向かっていた。


 この日は午後から、落石現場の天幕へ書類仕事をしに出掛ける予定だ。

 午前中の今の時間帯に、少佐の部屋の水差しを新しくしたり、掃除をしたりしておきたかった。


 ジークフリートの滞在する部屋の前に着くと、短くノックを挟み、一拍置く。


 返事は当然返ってこない。


 ふぅと短くため息を吐くと、アンネリーゼは静かにドアを開け室内へと入る。


 水差しの替えのポットを手に、ベッドへ目をやった。


 いつもと同じ閉じられている(まぶた)。それがうっすらと開くと、こちらへ視線を動かした。

 いままでは目を開いても、ぼうっと焦点がすり抜けていたようだったが、今日はアンネリーゼの姿を捉えている。


 アンネリーゼは久しぶりにみる、その今を映す視線に安堵が込み上げる。


 魂の抜けてしまったような様子をずっと見ていて、死んでしまうのではないかと思っていた。

 もう戻ってこないのではとずっと不安だった。


 ベッドの脇へ歩み寄り、手に持っていたポットをサイドテーブルに置いた。


 アンネリーゼは、ジークフリートの瞳が今という現実を捉えているのか。その確信を掴みかねたまま、探るように問いかけた。


「おはよう……ございます?」


 一瞬の間の後、ジークフリートは軽い笑みをこぼし皮肉を返す。


「あなた、朝から暇なの?」


 その皮肉に『あぁ戻ってきたんだ』とアンネリーゼは今まで押し込んでいた不安が決壊し、ベッドの端に顔を伏せた。


「……良かった」

「死んでしまうかと……」

「生きている……よかった」


 嗚咽を堪えることが出来ず、泣きながら「生きている……」だけを繰り返した。


 その姿をジークフリートは呆然とした様子でただ見ていた。

 アンネリーゼがよく隠れて泣いているのは知っていた。

 でも、目の前で泣いていたことは今まで一度もなかった。

 これまでは赤くなった目元をみて「泣いたんだ」と認識していたくらいだった。


 それが今、目の前で泣かれるとどうしていいか分からない。


(困るなぁ……)


 こういう時は慰めればいいのだろうか。

 そんなことは妹のリーゼロッテくらいにしかしたことなどない。

 でもアンネリーゼは妹ではない。そこまで立ち入る関係でもないのだ。


(それに、慰めてほしいわけではないだろう)


 ジークフリートの脳内では分析が走る。

 理由は『心配が積み重なって安堵で泣いている』そうだろうと察する。

 こういう時の適切な対処は?

『寄り添う』……そんなものはジークフリートの脳内には収まっていない。


『勝手に泣いている』そう結論付けることで自分への言い訳にした。


 ジークフリートは普段通りにいち早く戻そうと、言葉を並べかけたが少し遠慮が混じり、問いかける形となる。


「……状況を確認したいから、それが分かる書類を持ってきてもらえるかな?」


 その言葉にアンネリーゼは、泣いてぐしゃぐしゃになっている顔をあげて、瞬きの一瞬すら忘れたかのように、瞳を一点に縫い付けた。

 ジークフリートの現実へ引き戻す言葉に、(こら)えきれず泣いてしまった自分を恥ずかしく思う。

 それと同時に、心底この少佐は何を考えているのだろうと、こんな時の第一声が職務なのかと。

 いつもと変わらない態度に先ほどは安心したが、死にかけても変わらない態度に腹が立つ。


「少佐がいつ死んでしまうかと、私は……本当に心配したんですよ」

「もっと、少佐は、ご自身が生きることに目を向けたほうがいいと思います……」


 その訴えを黙って聞いていたジークフリートは、出かかった突き放す言葉を胸の奥で飲み込んだ。

『嫌われようが構わない』そんないつもの態度は、さすがに献身的な看護を受けた後だと言いにくい。

 (おぼろ)げにアンネリーゼが、必死に介助をしてくれていたことは感じていたのだ。


(そもそも、言いにくいってなんだ……)


 突き放すことも受け止めることも出来ず、グレイシルバーの瞳は苦笑に揺れ、困った様子で声になる。


「どうすればいいか分からないんだよ」


 アンネリーゼは、これまた返ってくる返答が、予想外すぎて理解が追い付かない。

 職務ではあんなに頭が回るのに、どうしてこうも自分に関わる個人の感情のやり取りが壊滅的なのか。


(職務が絡めば私の思考も全て見透かすのに……)

(いや、でも色々な事情を抱えている少佐は、そういう処理の仕方になるのかもしれない)


 先ほど泣いたときに飲み込んだ涙が、鼻の奥をツンとさせる。


 そう頭の中で考えているアンネリーゼの目を盗み、ジークフリートはまだ安静が必要にも拘らず、あろうことか上体を起こそうとする。

 その瞬間、アンネリーゼの中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた。


(昨日まで、死ぬか、生きるかだったのに……!)

(傷口が開いたらどうなると思っているの?)


「……寝ていてください!」


 反射的に伸ばした両手が、ジークフリートの肩を捉えた。


「っ、アンネリーゼ……?」


 驚愕に目を見開くジークフリートを無視して、彼女はその華奢な体に見合わぬ圧力をかける。


 傷口に響かないよう、けれど絶対に起き上がらせないという鉄の意志を込めて、彼の体をシーツへと押し戻す。

 

「少佐……軍医の先生が、いつ容体が悪化してもおかしくない時期だと言っていました」

「そうなったら止められないと」

「お気持ちは分かります。でも、今は安静にしていてください」


 ジークフリートとしては意識が戻れば、この場でただ寝ているだけは落ち着かない。

 動ける限り、動いていなければならないのだ。

 当たり前のことをしようとしただけで、命の危機があると言われてもすぐに態度を改める気にはなれない。


(死にたがりなわけじゃないんだけどな)


 それでもまた泣かれては対応が分からず面倒だ。

 放っておけば良いのだが、それも釈然としないので安静を受け入れることにする。

 ふっと短く息をこぼすとジークフリートは大人しくベッドへ横になった。

 

「落石事故のあと、退避して歩いていた途中から記憶がないんだよ」

「だから、教えてくれる?」

「それならいいでしょう?」


 いつもは張り付くようにすべての記憶が脳内にしまわれるのに、ジークフリートにとってそれが欠けているのが、どうしようもないほど気持ち悪かった。


 ジークフリートが職務を気にしてしまう考えが優先になるのは、アンネリーゼも分かる。

 少佐の下した判断が、どの様な結果になっているのか、少佐自身が知りたいだろう。

 そして、やらなければいけない事が山積みで、寝ているこの時間を勿体なく感じているはずだ。


 アンネリーゼはその知りたい要求をくみ取り、自分が知っていることを時系列に沿って、ジークフリートに伝えた。

 そして約束をする。


「今日はお昼から、落石事故の指揮をしている天幕へ行きます」

「その時に報告をまとめて、帰ってきたらお渡しします」

「それまでは絶対に、安静にしていてください」


 念を押すように言うアンネリーゼの顔を見て、ジークフリートは返す。


「うん。わかったよ」

「でも、あなた、それ──」


 そう言ってジークフリートはアンネリーゼの足首に視線を向ける。


「怪我が治っていないんでしょう?あまり力を入れるようなことはしちゃいけない」


 アンネリーゼは反射的に、痛めた方の足首を隠すように踵を引いた。

 もう随分痛みもひいて、見た目には分からないはずだ。

 それなのに、そんな些細なことまで気が付いてしまうのかと。

 少佐は自分の事には無頓着なのに、他人のことはよく見ている。


「よく、気が付かれますね……」


 ジークフリートは肩をすくめると軽い調子で返す。


「ん?そう?さっき押してきた時に、脚をかばっていたからね」

「ああいう事はもうやっちゃだめだよ。あはは」


 その言葉に、咄嗟(とっさ)の事だったとはいえ、不敬なことをしてしまったとアンネリーゼは今更ながら思う。

 やってしまったと表情を強張らせるが、理由も定まらないまま、耳がじわりと熱を持つ。


 ジークフリートは一度、小さく息をついてから続けた。


「俺は今、あなたが持ってくる情報が頼りだ。お願いね?」


 それを言うとジークフリートは、やり取りが疲れたのか窓の方にゆっくりと顔を向けた。

 ひとたび窓外へ視線を移す。そのままうつらうつらとしはじめ、周囲に流れる時間を止めるように(まぶた)を閉じた──


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