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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編

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第七十八話 理想と現実 後編

 山稜にうっすら陽が顔を出すと、早々に休憩を切り上げ、「もう少しだから」と隊長の娘を励まし二人は馬の背に乗った。

 カタリナは疲労からくる震えを誤魔化しつつ馬の手綱を握り、ようやく街道沿いの駅場が見えてきた。


 朝靄の中、業者の男は眠たげな目をこすりながら、カタリナの汚れたスカートの裾と、その後ろで今にも倒れそうな少女をねめつけた。


「馬車をお探しで? お嬢さん、失礼だが、そのお連れの方は随分やつれていますが……」


 男の視線が、カタリナの身なりと、隊長の娘の不健康そうな様子を交互に見比べる。

 カタリナの心臓が、耳元で鐘のように鳴り響いた。


(体調を心配しているだけ?それとも女二人の旅を不自然に思っている……?)

(まさか……何か情報が回ってきていて疑われている?)

(いくらなんでもそれはないわよね……)


 自分の行動の後ろめたさが、相手の真意を深読みしすぎる。

 一度呼吸を整えると、今言うべき言葉を選び出していく。


「途中で具合が悪くなったの。ですから馬車を手配しようと思いましたの」


 業者の男は、カタリナを品定めするように視線を滑らせる。

 カタリナの身なりと連れている馬をみて、その毛づやや馬具の質の良さに目を光らせた。


「確かにそれなら騎乗じゃつらいでしょう」

「馬車がいい。だが、少々お高いですよ。身分証も拝見したい」


 業者の目が、カタリナの腰に下げられた上質な鞄を捉える。その貪欲な観察眼でつま先から頭まで査定しているようだった。


 カタリナは業者の値踏みするような視線はどうでもよかった。

 暴利な値段を突き付けられてもどうせこれは片道分の金だ。

 それよりも、自分と隊長の娘の身柄の安全が確保できなくなることと、素性を知られるのを避けたい。

 

「……いえ、結構です。少し、考え直しますわ」


 カタリナは逃げるようにその場を離れた。

 業者の男は上客を取り損ね、チッと舌打ちをしながら後ろ姿を見送っていた。


 ──駅場の隅。積み上げられた麦袋から、乾いた穀物の匂いが立ちのぼっている。

 古びた荷車に荷を運び入れるたび、車輪が低く軋み、朝の静けさに溶け込んでいた。


 その荷車の脇で、初老の行商人が黙々と準備を進めている。

 背は高くなく動きに無駄がない。急ぐ様子も、周囲を警戒する素振りもなく、ただいつも通りの朝をなぞっているようだった。


 落ち着いたその雰囲気にカタリナは、先ほどよりは身の安全を預けられそうだと感じ、声をかけた。


「あの……失礼いたします。そちらの荷車、どちらへ向かわれますの?」

「エルデンシュトラ方面であれば、検問所までご一緒させてくださいませんか?」


 行商人は荷台の上の麻袋を並べる手を動かしながらちらりと二人を一瞥し、落ち着いた声で答える。


「ああ?エルデンシュトラ方面へいく。あんたら、その格好で検問所を越えるつもりか?」


 行商人は呆れたように笑ったが、カタリナは頼みこむように言葉を並べていく。


「……麻袋の隙間でも構いません。彼女を横にさせてあげたいのです。どうか……」


 初老の行商人はふぅっと腰に手をあて、荷台の上からカタリナとその傍にいる不健康そうにやつれた隊長の娘をみた。


「どうしても行かなきゃならない理由でもあるんかね?」

「その娘さん、検問所へ向かうより医者に診せたほうが良いんじゃねぇか?」


 もっともな意見だ。


 でもその常識的な返答で、安心感が増していく。

 カタリナは納得させられそうな理由を並べていった。


「すぐにエルデンシュトラへ向かわなければならない理由があるのです……」

「今行かなければ一生を悔やむことになるんです」


 カタリナの切羽詰まったような態度に心が動かされたのか、初老の行商人は答えた。


「理由なんてどうでもいい。お前さんが困ってるのは間違いないんだろう」

「麻袋の隙間だ。居心地は最悪だが馬の背よりは楽だろう」


 そう言いながら二人分のスペースを作ろうと麻袋を寄せ始めた。

 カタリナはホッと息を漏らした。ここまで頑張ってくれた馬の首元を撫で、行商人へもう一つのお願い事をする。


「この馬も……一緒に連れて行ってくださいます?」

「足は丈夫です。検問所を越えたら、お礼にこの馬の装飾品を差し上げても構いません」


 カタリナは鞄の中に手を入れると銀貨を差し出した。行商人は銀貨と手入れの行き届いた馬を見て頷いた。


「……分かったよ。荷車の後ろに繋いでおきな。ただし、面倒ごとが起きてもわしはなんにも出来んからな」


 カタリナはその言葉を聞くと、馬から馬具を外し荷車へ積んだ。

 馬を荷車へつなぐと、自分も荷車へ乗り込んだ。

 隊長の娘へ手を差し伸べ荷車へ上がらせると、彼女はそのまま麻袋に寄りかかる様に倒れ込んだ。


 東の空はすっかり日が昇り光の筋が地面へと延びている。

 来た道を振り返る様にカタリナは荷車の上で、道にできる(わだち)を眺めていた──


 一方同時刻のユリウス侯爵の居城。侯爵邸。

 夜明け前の書斎は、刷りたての経済紙の独特のインクの匂いが充満し、ユリウス侯爵はそれを丁寧に広げ、目を上げることなく情報を頭に叩き込んでいた。

 いつもの朝の定例となっているその行動も、今日は昨晩の件がしこりとなって胸に詰まっており、情報もすんなりと入ってこない。


 雑念を振り払うように紅茶を口に含んだ。その動作の途中で、扉の向こうから近づく慌ただしい足音を聞き分けた。


 一つは、身体の軽さを思わせる使用人の、重心の定まらない足音。

 もう一つは、規律を刻む靴の音。侍従のグンターだ。


「失礼いたします」


 入室の許可を待たず、重厚な扉が開く。

 グンターの背後では、カタリナの侍女が今にも泣き崩れそうな顔で震えていた。


「カタリナ様がお部屋におられません」

「それと……地下牢の監視より報告が上がりました」

「……例の娘が、消えました」


 ユリウスは静かに手にしていたティーカップを置いた。

 薄手の陶器が触れるカチャ……という軽い音が、室内の沈黙と不釣り合いなほど響いた。


(カタリナが消え、同時に囚人が消えた?)


 侍女の報告。地下牢の監視の不手際。

 二つの事象が重なる確率は、偶然と呼ぶにはあまりに低い。

 カタリナが何者かに連れ去られた可能性——いや、それはない。


 邸内の警備を潜り抜け、叫び声一つ上げさせずに令嬢を拉致し、なおかつ地下の囚人まで奪う。

 そんな不合理な真似をする勢力は、今のこの領内には存在しない。


「邸内の捜索を続けろ。……だが、無駄だろうな」


 ユリウスは立ち上がり、窓の外を見つめた。

 東の空が白み始めている。


(カタリナ。お前が、あの娘を連れ出したのか)


 驚きはなかった。昨日のあの出来事と地続きなのだろうと分かっているからだ。

 カタリナの中で積もり積もったものが、あの一件で決壊したのであろう。

 カタリナは素直だが、感情が強い。そして、一度決めたことを曲げない頑固さは、誰あろうこのユリウスの血そのものだ。


「追っ手を用意し、急ぎエルデンシュトラ方面を捜索せよ」


 北──エルデンシュトラ。

 隊長の娘を連れて出たのなら、エルデンシュトラへ向かったに違いない。


 ユリウスは右の手の平をみる。

 昨日カタリナの頬を打ち付けてしまった感触が、今もそこにこびりついて離れない。

 固く握りしめたあと解き放ち、身体の後ろで優雅に手を重ね、侍従グンターへ顔を向ける。

 

「カタリナは乗馬に慣れていない。夜を徹したとしても距離は稼げていないはずだ」

「多少手荒でも構わん。必ず連れ戻せ」


 ユリウスの瞳に、夜明けの淡い光が宿る。

 それは慈父の眼差しではなく、獲物の逃走ルートを完璧に把握した、熟練の狩人の目だった。


(与えられる世界にとどまっていれば良いものを……)

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