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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編

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第七十八話 理想と現実 前編

 ユリウス侯爵邸から深夜に抜け出し、北のエルデンシュトラとの境界にある検問所へ向かい、馬を走らせる。

 街の中心部を離れるにつれ、人の気配は遠のき、代わりに木々が二人を迎え入れる。

 薄く色づき始めた葉は、この時間帯は灰に染められたかのように映っている。


 本当なら夜明けまで休まず走り続けたかった。だがそれは、最初から叶わない願いだった。

 地下牢で二か月を過ごした隊長の娘は、明らかに体力を落としている。加えて馬の二人乗りは、思った以上に身体を拘束する。

 多少なりとも乗馬訓練を受けてきたカタリナでさえ、郊外を抜けたあたりから負担のかかりやすい内股が痛くなる。

 経験のない隊長の娘にとっては、なおのこと負担になっているのだろう。時折ふらつき、いつ落馬してもおかしくない状態だった。


(無謀だったのかもしれない……)


 そんな考えは、侯爵邸を飛び出す前から何度も頭をよぎっている。

 身体のあちこちから訴えかけてくる不快な感覚は、決意そのものを鈍らせてくる。

 それでも戻る選択肢は存在していなかった。

 どんなに体がしんどくても進んでいくしかないのだ。


 カタリナは自分以上に消耗しているだろう隊長の娘に声をかける。

 ここで彼女の気力が折れれば、二人とも立ち行かなくなる。

 気遣いも、打算も、全部ひっくるめて彼女を励ますのだ。


「大丈夫かしら?(つら)くない?」

「……はい」


 出される声に呼吸が混じり疲れを感じさせる。

 カタリナは隊長の娘の疲労度を測ろうと、前にいる娘の状態を探る。

 密着する身体から伝わってくる筋肉の強張りで、彼女がバランスを保とうと必死に掴まっているのがわかる。

 

(こんな(りき)んだ状態じゃ、(ちから)が抜けた瞬間落馬する……)


 もし大きく体勢を崩せば、自分の腕力では支えきれない。

 そう判断したカタリナは、手綱を締め、馬の速度を落とした。

 駆歩(かけあし)から常歩(なみあし)へ切り替える。


 どこまでも続いているかのような闇を見上げ、月の位置を確認する。


(夜明けまでは……あとどれくらいだろう)


 ここまでで、かなりの距離を走ってきた。

 慣れている者であれば、単騎の騎乗で一日かそこらで検問所へ到着する。

 だが、初心者二人の旅は想像以上に過酷で、検問所へは丸二日はかかるだろう。


 そうは言っても、二人にはそんな悠長(ゆうちょう)猶予(ゆうよ)はない。


 日が昇れば、侍女がカタリナの部屋を訪れる。

 いや、朝を待たずとも、すでに隊長の娘の脱獄が露見し、追手が動き出している可能性すらある。


 どちらの方角へ向かっているのか、父ユリウスであればすぐに気が付くはずだ。


 だからこそ、急ぎたい。


 だが焦りに任せてペースを乱せば、長い道のりを乗り切れない。それでは意味がない。

 開けた場所を見つけると、カタリナは手綱を引き、馬を止めた。


 カタリナは先に降り、隊長の娘が下りるのを手伝う。

 隊長の娘は地面に足が着くやいなや、その場にへたり込んでしまった。

 本人もその状態に驚いたような表情を浮かべている。

 ここまで力が残っていなかったとは、本人も思っていなかったに違いない。


 その姿を見て、カタリナは悟った。

 彼女はとっくに限界を越えたまま、必死に耐え続けていたのだ。


(休憩が遅かった……これ以上は進められない)


 検問所までは、まだ一日以上かかる。

 鞄の中に入れた、金貨も身分証も何の役には立たない。

 

(騎乗はこれ以上無理……道沿いの駅場で馬車を手配できればどうにかなるかもしれない)

(朝になったら探してみよう)


 馬車であれば休みながら移動でき、そしてカモフラージュにもなるだろう。

 だが明け方、年頃の女が二人で馬車を探す姿は、どう考えても目立つ。


 それでも、このまま騎乗で移動しても追いつかれるのは時間の問題だ。

 脇道に逸れて隠れながら進むことも考えたが、土地勘も余裕もない。

 カタリナは、自分ひとりでこんな遠くまで来た経験がなかった。


 自分の意思でここに来た。目的があってこの道を進んできた。

 なのに今。その行き先が無限に枝分かれし、カタリナを不安に落とし込んでいく。


 東の空にじんわりと赤みがさしてくる。


(夜明けが近い)


 自分の選んだ道が、自分を追い詰める。


(……あと何回、この朝日を見ることができるのだろうか)


 父の悪行を告発すれば、娘であるカタリナも連座で罪に問われるだろう。

 でも父が、ここでこれ以上の悪事を重ねるのを諦めれば、最悪市民を巻き込んだ戦争に手を出すのは避けられる。

 カタリナの希望を通すにはこれ以外、選ぶ道はない。

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