第七十八話 理想と現実 前編
ユリウス侯爵邸から深夜に抜け出し、北のエルデンシュトラとの境界にある検問所へ向かい、馬を走らせる。
街の中心部を離れるにつれ、人の気配は遠のき、代わりに木々が二人を迎え入れる。
薄く色づき始めた葉は、この時間帯は灰に染められたかのように映っている。
本当なら夜明けまで休まず走り続けたかった。だがそれは、最初から叶わない願いだった。
地下牢で二か月を過ごした隊長の娘は、明らかに体力を落としている。加えて馬の二人乗りは、思った以上に身体を拘束する。
多少なりとも乗馬訓練を受けてきたカタリナでさえ、郊外を抜けたあたりから負担のかかりやすい内股が痛くなる。
経験のない隊長の娘にとっては、なおのこと負担になっているのだろう。時折ふらつき、いつ落馬してもおかしくない状態だった。
(無謀だったのかもしれない……)
そんな考えは、侯爵邸を飛び出す前から何度も頭をよぎっている。
身体のあちこちから訴えかけてくる不快な感覚は、決意そのものを鈍らせてくる。
それでも戻る選択肢は存在していなかった。
どんなに体がしんどくても進んでいくしかないのだ。
カタリナは自分以上に消耗しているだろう隊長の娘に声をかける。
ここで彼女の気力が折れれば、二人とも立ち行かなくなる。
気遣いも、打算も、全部ひっくるめて彼女を励ますのだ。
「大丈夫かしら?辛くない?」
「……はい」
出される声に呼吸が混じり疲れを感じさせる。
カタリナは隊長の娘の疲労度を測ろうと、前にいる娘の状態を探る。
密着する身体から伝わってくる筋肉の強張りで、彼女がバランスを保とうと必死に掴まっているのがわかる。
(こんな力んだ状態じゃ、力が抜けた瞬間落馬する……)
もし大きく体勢を崩せば、自分の腕力では支えきれない。
そう判断したカタリナは、手綱を締め、馬の速度を落とした。
駆歩から常歩へ切り替える。
どこまでも続いているかのような闇を見上げ、月の位置を確認する。
(夜明けまでは……あとどれくらいだろう)
ここまでで、かなりの距離を走ってきた。
慣れている者であれば、単騎の騎乗で一日かそこらで検問所へ到着する。
だが、初心者二人の旅は想像以上に過酷で、検問所へは丸二日はかかるだろう。
そうは言っても、二人にはそんな悠長な猶予はない。
日が昇れば、侍女がカタリナの部屋を訪れる。
いや、朝を待たずとも、すでに隊長の娘の脱獄が露見し、追手が動き出している可能性すらある。
どちらの方角へ向かっているのか、父ユリウスであればすぐに気が付くはずだ。
だからこそ、急ぎたい。
だが焦りに任せてペースを乱せば、長い道のりを乗り切れない。それでは意味がない。
開けた場所を見つけると、カタリナは手綱を引き、馬を止めた。
カタリナは先に降り、隊長の娘が下りるのを手伝う。
隊長の娘は地面に足が着くやいなや、その場にへたり込んでしまった。
本人もその状態に驚いたような表情を浮かべている。
ここまで力が残っていなかったとは、本人も思っていなかったに違いない。
その姿を見て、カタリナは悟った。
彼女はとっくに限界を越えたまま、必死に耐え続けていたのだ。
(休憩が遅かった……これ以上は進められない)
検問所までは、まだ一日以上かかる。
鞄の中に入れた、金貨も身分証も何の役には立たない。
(騎乗はこれ以上無理……道沿いの駅場で馬車を手配できればどうにかなるかもしれない)
(朝になったら探してみよう)
馬車であれば休みながら移動でき、そしてカモフラージュにもなるだろう。
だが明け方、年頃の女が二人で馬車を探す姿は、どう考えても目立つ。
それでも、このまま騎乗で移動しても追いつかれるのは時間の問題だ。
脇道に逸れて隠れながら進むことも考えたが、土地勘も余裕もない。
カタリナは、自分ひとりでこんな遠くまで来た経験がなかった。
自分の意思でここに来た。目的があってこの道を進んできた。
なのに今。その行き先が無限に枝分かれし、カタリナを不安に落とし込んでいく。
東の空にじんわりと赤みがさしてくる。
(夜明けが近い)
自分の選んだ道が、自分を追い詰める。
(……あと何回、この朝日を見ることができるのだろうか)
父の悪行を告発すれば、娘であるカタリナも連座で罪に問われるだろう。
でも父が、ここでこれ以上の悪事を重ねるのを諦めれば、最悪市民を巻き込んだ戦争に手を出すのは避けられる。
カタリナの希望を通すにはこれ以外、選ぶ道はない。




