第七十七話 賭ける
父ユリウスの寝室から出たカタリナは、自室には戻らず政務室へ向かった。
金の鍵で執務机の引き出しを開錠すると、鍵束を視線で確認した。これは裏通路を利用できる鍵束だ。
鍵束の隣にある、カタリナに真実を突き付けてきた父ユリウスの記録に目が留まる。
父の筆跡で埋め尽くされたそれは、執念と、誰にも見せない歪んだ正義の記録だ。
記録に伸ばしかけた指先は、血が止まってしまったかのように冷たく凍っている。
(これは、父の全てを売ることになる……)
自分の行動を拒絶するかのように胃が痙攣し、吐き気が込み上げてくる。
心臓が軋んで悲鳴を上げる。うずくまり胸元に手をあて、浅く呼吸を繰り返した。
手で口を覆い、『落ち着いて……』と念じ、ゆっくりと意識して息を呑み込んだ。
身体の中で暴れていた全てが従いだしたところで立ち上がり、政務室の隅にある、重厚な樫の木のチェストへ足を向けた。
父がかつて、狩猟や視察で使っていた革の鞄を取り出した。
重みのある鞄を胸に抱え込む。
この鞄が父の肩にあったあの時でさえ、父はすでに硝石の闇に手を出していた。
それが『大罪である』と父も理解していたはずだ。
カタリナを抱き上げ、手を取り、文字を教えてくれていたその手は、悪事で染まっていた。
穏やかに見えていた全ての裏に、真っ黒な罪を抱えた父がいた。
世間から見れば父は救いようのない罪人だ。けれど、自分に向けられていたあの時の愛だけは本物だったと、今でも信じたい自分がいる。
(憎み切れるわけがない……それでも……)
冷たかった革に体温が移る。それを手に再度執務机へ脚を向けた。
机の引き出しの中から片道分の金貨と、自分の身分を証明する家紋入りの物を見繕い、最後に父の記録を鞄にしまった。
引き出しに残されている鍵束を手に取ると、そのひんやりとした質感が重たかった。
自分を愛してくれていたあの時の記憶が残る『父の鞄』
そこに悪事の断片を詰め込んで、カタリナは引き返すことの出来ない道を選ぶ。
これから手にした鍵束を使い、裏通路から牢へ行き、隊長の娘と共にこの屋敷を出る。
(私が帝国に捕まったら、父は止まってくれるだろうか)
父は『娘の命と己の野望』どちらを取るのか。というカタリナの賭けだった。
そして、父ユリウスに自分を選んでほしいという傲慢だった。
(執着しているのは私の方かもしれない)
隊長の娘と記録を持ち出せば、硝石のことは暴かれる。
言い逃れも、隠すためにこれ以上の悪事を重ねることも、全て出来なくなり止められるかもしれない。
でも、自分がこれからやろうとしているのも『隊長の娘を助ける』ふりをして、その彼女を利用することだ。
(彼女に申し開きなんてできない……)
それでも、カタリナは自分のやり方が汚くても、自分一人では止められなかった。
最後にせめて父ユリウスには、やったことの後始末を自分の意思でけりをつけて欲しかった。
そして願わくばもう一度、カタリナ自身に向き合ってほしい。
(私が止めても無視される。なら、無視できない形にするしかない)
戻ってやり直すことは出来ない。今出来ることでカタリナは、父ユリウスへ最後の賭けに出る。
裏通路は当然ながらユリウス以外は使うことが無い。
空気は淀み湿気っていてかび臭い。
心もとない小さなランプを手にぶら下げ、揺れる灯りを頼りに足を進める。
地下牢の裏へ着き、監視の目が無いかを確認する。
深夜を回ったこの時間帯でも、正面には監視が置かれている。
だが、裏から人が入ってくるなど思わない監視は、こちら側に見向きもしない。
牢には隊長の娘の他、数名が収監されている。
中にはガンガンと牢屋内から叩く者もいて、それが地下で不気味に響いている。
夜の地下牢は、そこにいるだけで神経がおかしくなりそうだ。
(ここに何日間も……)
これから会いに行く隊長の娘を思い出し、胸が痛くなり呼吸が浅くなる。
何度か深呼吸を挟み、決意を保てるように意識を集中させた。
頭の中では『これでいいのか、これしか本当にないのだろうか』で埋め尽くされ、現実に歩いている地下牢の冷たさを感じながらも、別の自分がやっていることだと置き替えようとしている感覚を覚える。
それでも足を一歩進め『これ以外ない』という道へ、自分を追い詰めていく。
(私は結局、内はお父様に似ているのかもしれない)
割り切れない心境を抱えながらも、隊長の娘がいる牢の前へ着いた。
カタリナは牢の鍵の大きさを確かめると、鍵束から合いそうなものを手繰り寄せていく。
周囲を警戒しながら中の隊長の娘へ小さく声をかけた。
「カタリナよ。起きているかしら?」
そう告げると、隊長の娘は寝ていた身体を起こし、青白い顔をカタリナへ向けた。
その目には生気が宿らずぼうっと虚ろだった。
(……遅かったかもしれない)
牢の奥では、誰かが鉄を叩く音がしていた。
ガン、ガン……と湿った壁に響き、鎖の擦れる音や咳払いが混ざる。
その騒音に紛れるのを確認してから、カタリナは鍵束を掌の中で押さえ込んだ。金属が触れ合う音さえ、やけに大きい。
不安になりながらも、鍵穴にあいそうな鍵を選び、差し込み回す。
それを数回繰り返すと、カチ……と控えめな音が鳴った。
扉に指を添え、ゆっくりと押す。蝶番がキィ……と、か細い悲鳴をあげる。
その小さな音に驚き肩が跳ね、扉の重みを支えたまま動きを止めた。
カタリナは息を止め、周囲を見回す。
誰にも気が付かれていないと確認し、囚人たちの出す音に合わせ、扉をほんの少しだけ開け、中へ入った。
恐る恐る隊長の娘へ近づき、もう一度静かに声をかける。
「……エルデンシュトラへ行きましょう」
その言葉に、隊長の娘は顎を震わせ泣き出した。
カタリナは口元に指をやり「見つかると出られなくなるわ、静かに」そう言いながらベッドの横へ行くと、隊長の娘はカタリナの袖を震える指先でつかんだ。
(どれだけ心細かっただろうか……)
謝る事なんて出来ない。自分も彼女を利用しようとしている。
込み上げる罪悪感と謝罪を胸の中に押し込み、カタリナはそっと抱きしめ背中をさすり続けた。
「落ち着いたら出ましょう」
隊長の娘は二度頷き、呼吸を整えると、か細い声で「もう……大丈夫です……」と返事をした。
それを合図に二人は静かに牢から出た。
侯爵邸には、万が一落城した時のために裏通路が設けられている。
それは血縁者にだけ知らされているものだ。
カタリナがこれを使う日が来るなど思ってもいなかった。
皮肉にも、内から落城させるために使う日が来ることなど──
隊長の娘がはぐれてしまわないように手を引き、裏通路を進んでいく。
つながれた手は震えている。
隊長の娘の手が震えているのではなく、カタリナの手の方だった。
それを誤魔化すように指先に力を入れ、しっかりと握りなおした。
隊長の娘は地獄から今まさに出ようとしている。
一方カタリナは、自ら地獄の地へ向かおうとしているのだ。
裏通路を進み屋外へでると、ガス灯の光が届いていない場所を縫うように移動して、馬房を目指す。
警備の者がいないか周囲を見回した。
馬房の周囲には巡回の兵がうろついている。
中に入ってさえしまえば、巡回の目は潜り抜けられそうだ。
しばし巡回経路の順序を眺め、植木の影に身を潜めて待ち続ける。
巡回の兵が馬房を離れた時、二人は足音を殺して駆け込んだ。
二人の侵入に、馬が首をあげて耳をこちらへ立てた。
ゆっくりと馬へ近づき声をかけ落ち着かせる。
なだめ終わった所で鞍や鐙を手早く整え、次の巡回が馬房を離れるのを待って、手綱を引いて外へ出る。
蹄の音が響かぬように石畳を避け、人目の付かない場所を選びながら侯爵邸の敷地外へ出た。
ここまで来たら見つかることもないだろう。
そう思い、隊長の娘を馬の背に先に乗せ、その後ろに自分も乗った。
一度屋敷を振り返り、父と置いてきた猫を思い浮かべる。
瞼を硬く閉じれば、目の縁に溜まっていた涙が押し出され、こぼれ落ちた。
『もう引き返せない』そう言い聞かせ真っすぐに前を見つめる。
涙を拭えば隊長の娘に泣いているのが悟られる。
頬を伝う涙は、流れる風が拭って誤魔化してくれるだろう。
手綱をしならせ、馬の腹を踵で押した。
馬は駈歩となり速度を上げ、二人は検問所を目指し北へ向かって進んでいく。




