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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編

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第七十六話 決別

 政務室で真相を理解したカタリナは、重い足取りで深夜の静まり返った廊下を進んでいた。

 手に持ったランタンの火が、影を壁に長く延ばしている。

 点在している廊下の蝋燭(ろうそく)を通り過ぎる度、その影は歪に混じり合い、重なってはまた離れてゆく。


 かつて自分は父に愛されていた。

 自分がまだ幼かったときは、父の部屋へ顔を見せると仕事を中断して、膝の上に乗せ文字を教えてくれた。

 港の視察へ一緒に連れて行ってくれた時もある。

 周囲からも『ユリウス侯爵はやっと授かった娘を溺愛しておられる』と言われるほどだった。


 だが、母が病気で亡くなってから父は変わってしまった。

 カタリナから見て、父は母マティルダを、魂の片割れかのように愛していた。


 母を失ってからカタリナは、父に元気になってもらおうと明るく振舞った。

 父もそれを、娘の健気な心遣いだと最初は受け取っていた。

 

 だが、ある時。父ユリウスがふとした拍子に、カタリナを母の名である「マティルダ」と呼んでしまったことがあった。


 「あぁ、間違ってしまったな。すまない」そう言った時の、父の苦しげで、申し訳なさそうな苦笑が今も脳裏に焼き付いている。


 母にそっくりなカタリナを、見る度父は辛かったのかもしれない。

 そして、父は思い出したく無いかのように、カタリナを避けるようになった。


(私だって寂しいのに……)

(でもお母さまはもういない)


 受け止めきれないのは分かる。

 それでも、命を終えた者を弔った後は、未来を見て欲しかった。


 いつか来る別れは、自分の中で受け止めなければいけない時は必ず来るのに。

 父は、失ったこと自体を無かったことにしたいらしい。


 見えてきた父の寝室の扉を前に、カタリナは足を止めた。


 父は今時間、寝ているかもしれない。

 それでもすぐに『こんな愚かなことはやめて欲しい』と告げなければ手遅れになる。


(帝国が黙っているわけがない……)


 頭の中に帝国が大軍を率いて押し寄せ、街が戦火に飲まれる景色が浮かんでくる。


 父は過去に執着し、娘カタリナもまた過去の優しい父に執着する。

 執着することで、自分の中に起きている悲しみに蓋をするのだ。


 腕を上げ、扉へ指を打ち付けようとするたびに過去の残像が浮かび上がり、決心を鈍らせてくる。


「おとうさまー」そう言い、駆け寄る幼い自分の幻影が、幸せそうに笑っている。

 受け止められ、抱き上げられ、何も知らず無垢に笑う自分を思い出す。


 もう戻れない。


 そんなふうには、もう笑えない。


 父がこれまでの行いで、償えない場所に来てしまっていても、自らの行いを認め、争いを避ける道はあるはず。


 そう思うも、父の優しかった頃の顔を思い出し、涙が溢れそうになる。

 カタリナは唇をかみ、こぼれそうな嗚咽を喉の奥で押し殺し、小さくつぶやいた。


「戻せるわけないでしょ……」


 窓の外では、港の方角から深夜に到着する商船の汽笛がひとつ響く。


(お父様をこのままにしていては、グローテハーフェンが戦火に飲まれてしまう……)

(血と火薬の匂いで塗りつぶされたくない)


 心の中で繰り返すたび、鼓動が早くなっていく。

 冷たくなった指先で、自分の迷いを締め出すように、胸の前で握りしめた。


 カタリナは一度、深く息を吸い込む。

 幾度か泣いたため、塩と鉄の混じった味が喉奥に刺さるように痛い。

 それでも顔を上げ、カタリナはまっすぐに父ユリウスの寝室のドアを見据えた。


 もう迷わない。

 父を止めるために──


 受け入れてはもらえないと分かり切っている。でも、父を止めたい。


 止めなければ取り返しのつかないことになる。


 深呼吸をひとつ挟み、トントンとドアをノックすると「誰だ」と父ユリウスの声が室内から返ってくる。

 耳の近くに心臓があるのではないかと、錯覚するほど鼓動がうるさい。


「私です。カタリナです」


 そうドアの前で告げると、無音が続いた。


 しばらくして、こちらに近づいてくる父ユリウスの足音。

 カチっと開錠される音が鳴るとドアは開かれた。


「こんな時間にどうした」


 カタリナは言い淀み、これから話すことを考えると苦しくなるが、声を振り絞る。


「……大切なお話です」


 父ユリウスは、カタリナの装いを見て眉間に(しわ)を寄せた。

 また面倒ごとを……と言うような溜息をこぼすと、ドアを開き、短く「入れ」と招き入れた。


「夜も遅い。手短に申せ」


 父は、部屋の奥を背に入り口の板張りの上で立ち止まった。

 ソファへ招くどころか、娘を室内へは一歩も踏み込ませたくないかのような無言の拒絶。

 その心の境界線を前に、カタリナの表情が曇る。


 ドアの隙間から冷たい空気が流れ込む。

 夜の冷気と父の拒絶から身を護るように、カタリナは羽織っていたケープの襟口をかき合わせた。

 指先をその柔らかな生地に深く沈め、そのぬくもりに(すが)り付きながらも声を振り絞った。


「お父様が……何をなさっているのか。調べました」


 誤魔化さず、単刀直入に言う。


 父ユリウスは無言のまま、深く息を吐いた。


「どこまで知ったつもりでいるのやら……」

「お前が何を知ったのかは分からぬが、今の生活を続けること以外、お前はなにもしなくて()い」

「分かったなら部屋に戻れ」


 その言葉の本当の意味を、今のカタリナは分かっている。


「……ません」

「なんだ……?聞き取れぬ」


 ユリウスは聞き分けの無い様子の娘に、苛立ちを見せつつも整然とした態度を崩さない。


 そんな父の態度を鋭く見つめ、もう従順なだけでは何もかも手遅れになる。

 せめてこれ以上の破壊が起こらないように、願いを込めてカタリナは引き下がらない。


「戻りません」


 きっぱりと告げた後、カタリナは父ユリウスの黄金色の目を見つめ続けた。


「お父様が今やられていることは、この街を、戦火へ導こうとしています」

「今立ち止まり、もうこれ以上は……硝石のことも、独立のことも諦め、清算する道を選んでほしい……」

「私は──」


 父ユリウスはカタリナの言葉に被せるように、短く強い口調で断ち切る。


「浅慮で物事を申すな」


 カタリナの青臭い正義感が、まるで自分の生き方そのものを否定してきているようで、腹だたしい。

 清くいられるのは誰かがその裏で手を染めているからだと、気が付かないままでいればいいものを、自ら首を突っ込んでくる。

 

「そうならないように上手く立ち回っておる。その為の算段も整えておる」

 

 大儀を成すにはそれと等しく対価が必要になる。

 その代償を自分は払っているだけだ。

 ユリウスの中では真っ当なやり方だと、言い聞かせるように言葉を重ねる。


「なにを知った風に物事を述べているのやら」


 ユリウスは話を終わりにしようと、カタリナへ向けていた身体を室内の奥へと向けた。

 同じ血を分けたはずなのに、視界の端にさえ娘であるカタリナを置いてくれない。

 そのまま離れていこうとする父ユリウスを、引き留めるようにカタリナは腕をつかんだ。


 強張る指で必死に掴み、カタリナは声を振り絞った。


「それは……何を守るためにやっているの?」

 

 一番近くにいるはずなのに、なぜこんなにも遠いのか。


「お父様は……ただ……」

「ただ、過去にしがみ付いているだけでしょう!」


 問い詰めるように出された言葉は、カタリナ自身の心も傷つける。

 苦しくなり、胸元に手をやる。

 父を追い詰めたいわけじゃない。行き場のない虚しさだけが残っていた。


 いつも平然として、激高などしたことのない父ユリウスの顔に血が上り、額に血管が浮かび上がる。

 振り向いた顔は、今まで見たこともないほどに怒りが滲んでいた。


「お前は恵まれた環境しか見ていないから、そんな理想論を言えるのだ!」


 バチンッ!


 室内に乾いた音が響いた──


 父ユリウスは、娘の頬を打ち付けてしまった手の平をみて固まった。

 全ての取り返しのつかなさを隠すように、手を身体の後ろへ回した。

 その震える指先を、もう片方の手で抑え込んだ。


 頬を抑え、睨みつけてくるカタリナの視線がユリウスには痛かった。


 カタリナもまた、打たれた頬よりも『親子の絆はもう修復不可能』だと確信し、悲しみで痛かった。


「お父様がここまで……愚かだとは思いませんでした」


 そう言うとカタリナは、父ユリウスの部屋を出て行った。

 一人室内に残ったユリウスは、後ろに握った手はそのままに、窓の近く歩み寄る。

 窓外に見える廃城を、隠すようにカーテンをそっと引いて呟いた──


「愚かなのはお前だ……」


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