第七十四話 覆水不返
落石事故から一夜明け、昼前にはユリウス侯爵の元へ経過報告が続々と送られてきていた。
報告が上がるたびに、計画が当初の予定より逸れていき、それに対する新たなる策が必要になっていた。
不凍港の港町──グローテハーフェン。
夕暮れに染まる政務室では、ユリウス侯爵が隠密からの報告書を読んでいた。
その書簡には、こう記されていた。
『遠距離より対象を確認。狙撃し標的は落馬。その後騎乗で逃亡したため追撃に移行。近距離から狙撃したが命中せず』
そこまで読んで、ユリウス侯爵は紙を押さえたまま固まる。
(鴉……何をやっておるのだ……)
鼻梁の根をつまみ上げ、苛立ち紛れに短く息をこぼす。
次の行へと視線を移す。
『近距離で確認したところ、標的は下級兵の軍服を着用。対象は二十かそれ未満と予測』
そこまで読み、先日滞在していたジークフリート少佐を思い浮かべる。
(線は細いが、未成熟のそれではない)
(騎乗状態であれば、年齢の目測は開きが出るだろう)
(下級兵に扮しておったか……?)
(そもそも何を見間違ってそんなことをしておるのだ)
そして最後に、結論だけが乾いて並んでいる。
『対象は少佐本人と断定できず』
『作戦は未完遂。追跡調査を行う』
ユリウス侯爵は深くため息をこぼし、頭を抱えた。
(少佐かどうかもわからぬ者を、銃で狙撃し傷をつけたまま生きて逃亡を許す……)
(これでは向こうに人為的だと知らしめただけだ)
呆れて言葉が出ない。
ユリウス侯爵の盤面が狂い始める。
最初に盤面をひっくり返したのは己だ。だがそれは計算だったはず。
(少佐の行方はわからん。さらに現地には帝国の編成隊が入ってきておる)
(探し出す難易度は時間経過とともに高くなる)
(確認が取れてはない……逃げ切ったのか落石で死んでいるのか)
希望的観測を述べてもそれが現実ではなかった場合、痛い目を見る。
現実に目を戻し、羊皮紙を手に取った。汗を吸い込み、湿度を増す。
(死んでいるならば、こちらの都合よく少佐の言動を捏造し、中枢をかき乱すことは容易い)
(だが、万が一生きていれば、それが捏造だと露見する……)
いくら報告書を眺めても、そこから勝ち筋は読みにくい。
(落石は人為的と読まれても、ジギスムント宰相へ擦る算段は整えてある)
(だが、それでは宰相を失脚させるにとどまってしまう)
取り繕う代償ばかりが増えていく。
(中枢全体を揺らがせなければ、硝石を誤魔化しきることは出来ん……)
思考を断ち切るように政務室にノックの音が落される。
同時に侍従グンターが入室し、礼をするとユリウス侯爵の前へ歩を進め、報告を述べる。
「専属軍に臨時の演習を実行せよと昼には周知が完了し、準備に取り掛かっております」
詳細を続けて報告をしようと、紙束を捲ろうとした時、ユリウス侯爵は遮るように指示を出した。
「予備兵にも、臨時の演習へ参加するよう通知を出せ」
「上位指揮官にだけ……これが実戦へ移行する可能性を含んでいると内示せよ」
グンターは固まりながらも「……かしこまりました」と返事をし、所作の整った礼をして部屋を後にした。
一人政務室に残るユリウス侯爵は、夕焼けに染まる街並みを眺め、狭まっていく手段の末、選ぶ未来を思い描いていく。
(最悪帝国がこちらへ狙いを定めれば、ことを起こさねばならん)
朱色に染まる空は、血に染まったあの日を思い出させる──
カール王は帝国の侵略を受けた時、象徴である王の一族の血でこの地が守れるならばと、この世を去った。
民衆はカール王を崇敬していた。そのカール王の御決断にただ涙を堪え受け入れた。
帝国も無傷ではなかった。帝国から新統治者を迎えれば、混沌とした戦後の国民感情を逆なでし統治に支障が出ると、現地のユリウス侯爵は選ばれた。
『共に──』
そう当時ユリウス侯爵が言いかけた時、カール王は穏やかに返した。
『ユリウス、生きて護れ、このグローテハーフェンを。民の安寧を。それが私の悲願だ』
(私はどこで間違った……)
いや、最初がそもそもの間違いだ。
(不凍港欲しさに帝国が侵略してきた。それが間違いだ)
間違いを正すべく、『侵略前に戻すこと』それこそが悲願であり、あの時の安寧に近づく絶対条件。
そうユリウス侯爵は信じて、更に代償を増やす算段を練り始めていく。




