第六十六話 礎
崩落現場を後にしたジークフリートは、軽傷で済んでいる護衛兵の軍曹に肩を借り、北へ向かっていた。
歩くために布切れで折れた左腕を固定するが、少しの揺れでも伝わるたびに、打ち付けるような痛みが襲ってくる。
(……痛覚が戻ってきたか)
その痛みを逃がすため、深く呼吸をするが、そんなもので逃げてくれるほど甘い痛みではなかった。
じわりじわりと脂汗が滲んでくる。
(いつ……動けなくなるか分からないな)
肩を借りている軍曹へ、ジークフリートはぽつりぽつりと言葉を落としていく。
「……ハインリヒに……伝えてほしい」
「崖崩れは……爆発音の後に起こっている……人為的だと」
「崖上の……痕跡を……調査…………するように……」
一音出すだけで呼吸が乱れ、意識が飛びそうになる。
ふぅっと深呼吸を挟んで思考を取り戻す。
他に言いたい言葉は──
(……まぁ……いいか……)
そう考えると、視点が定まらず世界が二重に見える。
(まずいな……意識を繋いでおかないと……)
──未練。
この世への執着。
生きる意味すらわからない。それでも歩き続けてきた。
このまま何の礎にもならない死に方は……まっぴらだ──
(でも……そういうものなのか──?)
ジークフリートを支える軍曹は、腕に感じるその重みで、少佐の意識が混濁しかけていると感じとっていた。
しっかりと抱えなおすと、周囲の地形を見回した。
今いる南部は、人工硝石工場を見つけようとした時、ジークフリート少佐に同行し、地図片手に歩いた過去がある。
建物の用途やその場所、ひとつひとつ巡った。
朧げに残っている記憶を振り絞り、近くに廃屋があった事を思い出す。
軍曹はしっかりとジークフリートを抱えなおすと、周りの兵に声をかけた。
「この先に廃屋があるはずだ。そこへいったん避難しよう」
その言葉に足首を負傷し、ひょこひょこと少し前を歩くアンネリーゼが振り返る。
その目に飛び込んできたのは、真っ白に血の気を失い、紫色になった唇のジークフリートの姿だった。
状況の悪化を目の当たりにして、直視できず、視線を正面へ戻した。
心臓が嫌な音をたてて軋みだす。
(失いたくない……)
正面を見据えて、アンネリーゼは声を出す。
「動ける私が先にいって、廃屋を確認したいのですが、ダメでしょうか?」
アンネリーゼの発言を、近くで聞いていた護衛兵の伍長の男が、それに続いて声を上げる。
「俺もこの地は、あの時に歩いています。通訳官アンネリーゼと共に確認してきます」
そうはいっても、本来許可を下すジークフリートは意識が薄れている。
その言葉は耳には届いていない。
ジークフリートを支える軍曹が、少佐に一度視線をやり、その様子を確かめる。
そして沈黙を破るように声を出した。
「……先に見てきてくれ」
その言葉を聞くとアンネリーゼと伍長は、駆け足で先へと進んでいく。
痛む足首をかばいながらも、なるべく早くと気が急いて仕方なかった。
廃屋に着くと、そのドアは蝶番がすっかり緩んでいた。
その重みを支えきれず、ドアの下は地面を擦っていた。
動かせばミシッと鳴り、ゴッ……ザリザリと引きずる鈍い音を立てる。
辺りを見回し、放置されている藁を手に取ると、なるべく平面になる場所の埃を掃く。
こんな場所でしか横にさせてあげられない。それでも、どうか繋ぎとめてほしい。
今できる行動で手を埋め尽くし、何も考えないようにしていた。
手を止めれば崩れ落ちてしまいそうだった。
掃除をした場所に藁を敷くと、アンネリーゼは外套を脱ぎ、まだ乾いている面を表に出してその上に広げた。
ふと気が付けば雨は止んでおり、厚い雲間から茜色の陽が差してくる。
廃屋の、ガラスの抜けた窓枠から入った光が、あちこちに張られた蜘蛛の巣を紅に染める。
伍長が外から視界を切るように、窓枠に襤褸切れを掛けた。
「外の様子を見てきます」
そう言って外へ出ようとした時だった。
ジークフリートを抱えた軍曹が、ドアを押しやり入ってきた。
用意された寝床を確認すると、そこへゆっくりとジークフリートを寝かせた。
部屋の中央近くには、窪みを石で囲っただけの粗末な炉の跡があった。
かつての住人も、そこで火を焚いて暖を取っていたのだろう。
灰と燃え残りの黒焦げた木が放置されている。
廃材をかき集めてそこに火を灯した。
──チリチリと燃える廃材は小さな廃屋を徐々に暖めていく。
下がり切った体温の中、ジークフリートは現実の狭間で夢を見ていた。
(──また、守れなかった)
自分を狙った毒殺で、妹を失った。
幼かったリーゼロッテは、いつも自分に無邪気な笑顔を向けてきて、信頼しきって頼ってきた。
それを自分は健気で放っておけなく、いつも可愛がっていた。
(それなのに……)
どこに定まることもない焦点の先に、生きていた時の妹の幻影が浮かんでは消え、そして笑顔で遠ざかっていく。
霞んだ視界の中で、乳白色を含んだ紅茶色の髪が、かすかな光を受けてゆらぐ。
小さかったはずの妹の面影と、今そこにいる女が、うまく分からない。
「……リーゼ?」
その問いかけに、アンネリーゼは驚いてジークフリートの額に浮かぶ脂汗を拭く手を止めた。
(……?……えっ)
いつもと違う呼び方。
(語尾だけ声になったのかな?)
ジークフリートの目元は緩く細められ、うっすらと浮かべた笑みは、慈しみと申し訳なさが滲んでいた。
初めて見るその表情が、瞼の裏に焼き付く。
意識は朦朧としている。焦点がアンネリーゼをすり抜けて別を映している。
(誰の事なんだろう……)
その時だった。
廃屋の遠くで人の動く音がする。
それがこちらに気が付いて、近づいてきているのが薄い壁越しに伝わってくる。
アンネリーゼはその不穏な訪問者に、心臓が激しく鼓動した。
カチャ……軍曹が腰元の剣に手をかけたその音が、廃屋に落とされた──




